毒のかたち
魚崎 依知子
1. 清乃
第1話
漢検一級、英検準一級、簿記二級、普通自動車、二輪、大型、大型特殊、けん引、玉掛け、クレーン、高所作業車、小型船舶、ガス・アーク溶接、危険物乙種、教員免許、宅建、社労士、司法書士、土地家屋調査士、中小企業診断士、そして昨年ようやく税理士。他にも細々とあったが、もう覚えていない。
いわゆる「資格マニア」なのは分かっている。でも別に、愉悦や万能感に酔いしれるために取得し続けてきたわけではない。常に何かを、努力を形として残し続けなければ「なんの取り柄もない」私に戻ってしまいそうで恐ろしいのだ。
実際には、これだけの資格を持つ私は「取り柄のある」人だろう。それでも、喉が奥から干上がるようなあの感覚が今もまだ消えない。
*
聞こえ始めた車の音に真新しいレースカーテンを引き、掃き出し窓を目一杯開ける。小春日和と呼ぶには少し早いが、今日は朝から穏やかな陽光の注ぐ良い天気だ。工事のせいで散々踏み荒らされた枯れ芝も、心なしかふっくらして見える。
靴を履き、緩やかなスロープを下っていく。前庭を縦断して辿り着く反対側は、庭の一部を潰して作った専用の駐車場だ。門扉を引くと同時に目の前のスライドドアも開かれて、仄暗い中の様子も明らかになる。
「家の中は準備できたか」
「大丈夫よ」
運転席から降りてきた夫は、ハッチから車椅子を取り出しながら尋ねる。最終的には元通りとはいかないまでも歩けるようにはなるらしいが、半年は車椅子と聞いて家のリフォームに踏み切った。この駐車場と専用玄関を作り、トイレと水回りをごっそりバリアフリーにして三百万くらいだろうか。正確な金額は義父が管理していたから分からない。ほぼ労災や保険関係から、もし足りなくても幸哉の貯蓄から捻出できたはずだが、余分な出費のように独りごちる背中を見るのは不快だった。
組み立てられた車椅子のハンドルを掴み、支えられながら降りてくる幸哉を待つ。折れた脚は左だが、右脚だってまだ機能は回復していない。ぎこちない夫の首に唯一まともに動く左腕を掛け、支えられながらゆっくりと車椅子へ収まった。行儀良く膝の上へ下ろされた腕の、袖の先があるのは左手だけだ。右手は処置の際に切断されたらしい。
幸哉は今年の一月、出張先のキルギスで爆発事故に巻き込まれた。天然ガスプラントの建設中に起きたガス漏れが原因らしいが、まだ遺族や被害者に納得の行く報告はなされていない。死者三名重軽傷多数の悲劇はニュースとしても流れたが、その時はまさかその中に幸哉が含まれているとは思わなかった。会社からの連絡で、初めて昨年から海外出張中だったと知ったくらいだ。最後に会ったのは六年前、私達の結婚式だった。昔と少しも変わらない「美しい男」だった。
日本へ移送されるまで約一ヶ月、よく生き延びられたとは医師の弁だ。整形外科だけではない。形成外科でも内科でも担当医は同じ感嘆を口にした。「生き延びた」のは確かに奇跡だろう。しかし本人がそれを望んでいたかどうか。
「じゃあ、行きますよ」
ロックを外し、ゆっくりとスロープを上がって行く。幸哉はニット帽をもう少し引き下げて、潰れた右耳を覆い隠した。避けたのは日差しではない。背後では、夫が近所の誰かに捕まっていた。
失ったのは右手だけではない。右の聴力と視力、頭髪の殆ど、右の眉、そして柔軟な皮膚。右上半身を中心に、幸哉は酷い火傷を負っていた。女を惹きつけてやまなかった彫像のような美貌はもう、左の目元に僅かに残されているのみだ。それでも、左目一つあれば十分なのかも知れない。物憂げに擡げられる瞼の奥に潜む視線は容易く、相変わらず無責任に私を射抜いた。寧ろ増した憂いは一層、私の奥底を掻き毟って落ち着かなくさせた。今でも十分に、幸哉は美しい。
それでも数人の、同じように幸哉の美貌に囚われていたらしい女達は、一度目で見舞いを終えた。残った女達も、幸哉が退職して介助が必要な人生を歩むと知ると一人ずつ消えていった。私以外、誰も残らなかった。
「じゃあ、俺はもういいか」
夫は汗を拭い上げ、縁のない薄い眼鏡を掛け直す。度数の入らない、ただの伊達眼鏡だ。丁寧に撫でつけた七三、張りのあるシャツ、捲り上げた袖口から伸びる引き締まった腕。夫は理想像の構築に余念がない。
「ありがとう。お義父さんによろしく伝えて」
本来なら手伝う私が手伝われる夫や義父に感謝される場面だ。でもいつの間にかすり替わっていて、礼を言うのは私ばかりになった。
「ああ、言っとく」
夫は少し遅れて発された幸哉の礼を聞き取らないうちに踵を返し、スロープを戻って行く。
「ごめんなさい、急いでるから」
繁忙期ならともかく、今の時期は一刻を争うような仕事があるわけでもない。この前まで同じ職場にいた私に多忙をアピールしてどうするのか、まさか私がいなくなったから大変だと言いたいわけではないだろう。
二歳年上の夫と私が司法書士の資格を取得した年は同じ。私が大学在学中に取得したのに対し、夫は三度目の受験だった。夫は私の持っている社労士も宅建も土地家屋調査士も簿記も、もちろん税理士の資格も持っていない。事務所にとっては私の方が遥かに有用な人材だったはずだが、所詮は嫁だ。懸命に働いて尽くしてみたところで、後継ぎに敵うわけがない。自分を「正しく認めてくれる」環境で人生をやり直そうと、離婚を切り出したのも今年の一月だった。
「大丈夫、分かってる」
気管の火傷は完治したらしいが、掠れる声は小さく滑舌も悪い。でも少ししゃがみ、傍らへ寄り添えば十分に聞き取れる。逆に言えば今はもう、注意深く聞き取ろうとしない人には「なかったこと」にされて、その足を引き止めることすらできないのだ。
幸哉が秀でていたのは見た目だけではない。頭も良く運動もできた。恐らくは仕事もできただろう。恋心はもちろん、羨望も嫉妬も集めて当然の存在感を放っていた。
といっても、よくある明朗快活な優等生タイプではなかった。退廃的で、いつも水に濡れた足を引きずって歩いているかのように見えた。独特の癖はあったが一言話すだけで誰かが必ず足を止めるような、そういう質の男だった。
まあ本人は、まさか私がここまで過去の自分を知っているとは思ってもいないだろう。私は長らくただ見つめるしかできない大勢の中の一人だった。初めて接触した十四の夏のことも、幸哉の記憶には残っていない。自分が私の人生を変える台詞を吐いたことも綺麗に忘れている。結婚式での挨拶は「はじめまして」だった。
「何かあったら、すぐにブザーを押してくださいね」
会話は左側から、腕に触れつつ少しゆっくり目に話す。左耳は正常に機能しているはずだが、意識しないと耳鳴りのような音が被って上手く聞き取れないことがあるらしい。医師は精神的なものだろうと結論づけた。
本人はまだ、関係者以外には事故のことを語ろうとしない。でもあんな事故に遭い同僚を三人も喪って、これほどの後遺症が体に刻まれているのだから当たり前だ。退院はしたが、通院は当分続く。その中には精神科でのカウンセリングも含まれていた。
幸哉は頷き、サングラスを外す。薄い瞼をやおら擡げ、ありがとう、と言った。
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