第10話
僕を包む風景が塗りつぶされるように上から下へ、右から左へと縦横無尽に置き換わっていく。
そこは木に囲まれた森の中だった。一つ一つの木は樹齢何百年と経っているような立派な幹で小鳥のさえずる声が響いている。
季節は春だ、そう直感した。
空を埋め尽くすような緑の葉は見覚えがあった。僕の頭の中では色んなものが浮かび続けていた。一つ一つが意志を持って息を吹き返していく。
僕はここを、知っている。この握られた暖かい人の温もりも知っていた。
「ここは表と裏の境目。決して交わることのなかった境界線だよ。そっちの世界が破綻し始めたせいでこちら側に浸食してきたの」
つないだ手を強く握り、少女は続ける。
「ここまで来るのに、三年もかかっちゃったよ」
僕は何も言えず俯いていた。顔を上げることが出来なかった。パズルのピースを手に入れただけで、記憶は完全に戻っていない。この記憶のパズルを完成させなければ全てを思い出せない。それでもピースは手に入れた。
そして、手に入れた最初の記憶はーー
僕はそれを絞り出すように声にした。
「……
「久しぶりだね、名前呼ばれるの」
顔を見ずに僕は苦笑した。本当に久しぶりだった。
「覚えてたよ。この手だけは……ずっと」
「うん。私も」
「懐かしいな」
「……うん」
夕葉はいつも僕の話を聞いてくれて、僕のそばにいてくれた。
今日までの夕里亜と同じように。
「本当に、世話のかかる兄貴だね」
兄と呼ばれたことで、僕は顔を上げる勇気をもらえた。
妹は最後に見たときよりもずっと大人びていた。
「お兄ちゃん。まだ思い出せないことも多いと思うけどよく聞いて。そっちの世界はもう消滅しかけているの。それはこっちでは結論づけられたこと。そこにいたら世界と一緒にお兄ちゃんの存在も消えちゃう」
そうだった。きっかけをもらえば蘇ってくる。
僕の育った世界では自然との共存は当然だ。そこからもらえる情報もある。自然はもう一つの世界の消滅を教えてくれたんだ。
夕葉は神妙な面持ちで続ける。
「間に合うかどうか微妙だったんだけど……本当に良かったよ」
「でもどうして消滅なんか」
「……そっちは科学を利用して全てを解明し、理由を付け始めた。それがすべての始まり。結果、とても豊かで便利な生活が送れるようになったと思う」
確かに、比べて見るとわかる。二つの世界では生き方がまるで違っていた。
「でもそのせいで人は見失ってしまった」
「……命のあり方にってところか」
「詩人だね」
夕葉は懐かしむように小さく笑ってみせた。
どんなに高度な知恵をつけ、どんなに強大な力を手に入れても人は所詮、地球に住む百万種以上の生物の一種だ。自分たちの都合で地球の資源を際限なく使い、滅ぼしかけているなんておこがましい話だった。
洋介さんがよく言っていたことだ。
自然との共存。人は一体いつから自然を私物だと勘違いしたのだろうかと。
「私達からすれば考えられないよね。同じ人間と思いたくないよ」
夕葉の言葉に容赦はなかった。だけどこれは夕葉自身の個人的な意見ではない。僕と夕葉のいた世界の人はみんな思っていることなのだ。
科学に溺れ、奇跡を疑ったために、世界がもう一つあることさえも忘れた人種。
覚えている。僕も嫌悪していた。自然を食いつぶす夕里亜達側の人間が。その気持ちは今もある。けど、今はそれだけでもなかった。
「お兄ちゃん、今すぐにこっちに」
「夕葉」
僕は夕葉の言葉を遮るように続ける。
「そっちに何人連れていける?」
僕が何を言いたいのか夕葉はわかったようだった。眼が合うが逸らされてしまう。
「普通は二つの世界を行き来なんて出来ない。別の世界の人間はまず世界に拒絶される。弾かれて死ぬだけだよ」
「でも、僕は生きていた」
「それはお兄ちゃんが特別だったからだよ。お兄ちゃんは人よりも適応する力に長けているからね、だから私も無理をしてお兄ちゃんが生きてることに賭けた。それでも全く無事だったわけじゃないでしょ?」
そうだった、僕は一年あまり動くことすらままならなかった時間があった。
夕葉は嘆息してみせる。
「健康に歩いて友達と話してる姿を見たときは、本当に安心した。記憶だけをなくしただけで済んだのは奇跡だったよ」
「……人の助けがなければ、助からなかったよ」
だから、助けたい。今度は僕が。
その思いは伝わっていたのだろうけど、夕葉は覚悟を決めたように続けた。
「私が協力すれば、お兄ちゃんに負担はそこまでかからないと思う。お兄ちゃんは元々こっちの住人だから。でも今度はその逆になる。お兄ちゃんが連れてくる人は私達の世界に拒絶される。下手をすれば私とお兄ちゃんも拒絶されちゃうかもしれない。だから」
「でもここにいたら、いずれは」
「それは自然の摂理なんだよ、お兄ちゃん。その世界の責任はその世界の住人が背負うべきことなの。私達には関係ないんだよ」
夕葉の手を握っていた右手に力が入る。夕葉のいうことは最もで僕がやろうとしていることはあまりにも危険が多すぎる。それは夕葉の手からヒシヒシと感じられた。
たった三年と言われるかもしれない。
記憶が戻っても三年間の記憶が消えたわけじゃない。色んなことを思い出す。嫌われたし、全員に歓迎されたわけじゃないけど、僕はこの世界が、夕里亜がいるもう一つの世界が好きだった。
「……仕方ないな」
夕葉が心底呆れたようにため息をつく。「予想はしてたけどさ」と呟いたあと、真剣な口調で続けた。
「ただし一人だけ。一人だけだよ。それが私とお兄ちゃん、そしてお兄ちゃんが連れてくる人が無事で済むギリギリのライン。それでも危ない橋には変わりないし、生存率はかなり下がる」
「ひとり、か」
ここで出会ってきた人の顔が次々と浮かんでくる。この選択はつまり選ばなかった人を見捨てるということだった。
「本当に選べるの?」
夕葉が悲しそうに問いかけてくる。
僕は重く頷いた。答えは決まっている、あとは、行動出来るかどうかだった。
「もう世界が壊れるまで秒読み段階に入ってる。時間はないからね」
「そんなに急なのか」
「消滅の混乱で時間の流れがかなり乱れてるの。そっちではもうかなり時間が経ってるよ」
「え、どのくらいだ?」
「お兄ちゃんが私に触れた瞬間から数えて一ヶ月……くらいかな」
「一ヶ月?」
思わず声が上ずってしまう。ということは僕は一ヶ月も夕里亜の家に帰っていないことになるのか。しかも夕里亜とは喧嘩したままだ。
「いい? お兄ちゃん。私に触れたことで常に交信出来るようになった、でも世界の入り口はこの浜辺だけなの。だからここに来てもらわないといけない」
「……時間は?」
「長く見て二時間、それも私の概算だからアテにはしないで。早くなるほどいい」
「二時間か、短いな」
「この手を離せば、お兄ちゃんは境界線から離れる。本当に時間は無いからね、急いで」
僕は頷く。夕葉は最後まで納得していない様子だった。
「じゃあ、離すよ」
「あ、夕葉っ」
夕葉と顔を合わせる。最低だと自分で思う。夕葉からすればこのまま自分を引き連れれば終わる話なんだ。
それでも、万が一のために僕は言わなければならない。また会える保証などどこにもないのだから。
「ありがとう。僕のために」
夕葉は何も言わず、ただ仕方ないなと困ったように笑うだけだった。
まだ思い出せないことは多い。でもこうやって僕は彼女を振り回せていたのだろうなと思った。
三年ぶりに、握った夕葉の手を僕はゆっくりと離した。
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