第9話

 曇天の雲の下、僕は佐久間醸造へと向かっていた。


 時間的に急がなければならないのだけど、小瓶を三つ入れた木箱を持っているため、走るのは少し怖かった。もしも衝撃で割れてしまったらと考え、さらに容器の中がわからないからもしかすると、なんて考えると早足が限界だった。

 

 まぁさすがに爆発するような代物ではないと思いたい。洋介さんは基本、なんでも作れるから念には念を細心の注意は払っておいて損はないだろう。


 佐久間醸造は、佐久間さんの実家とはかなり離れたところにあった。実家だったなら往復でも十分はかからないのだけど、文句は言ってもしょうがない。

 教科書で見た競歩の選手のように歩いていると残滓の海の海辺に出た。真っ黒に濁った海が僅かなさざ波を立てていた。風はほとんどなくて穏やかなものだった。

 

 そこでふと、浜辺に人の姿を捉えた。浜辺はいろんな残骸が流れているため、子どもの遊び場になっていたり、何か役に立つものはないかと散策する大人もいる。だから人がいること自体は珍しいことではない。

 

 僕が見つけたのは、少女だった。

 

 白いノースリーブのワンピースに肩まで伸びた黒い髪。彼女は水平線をじっと見つめてその先に帰る場所があるかのようにピクリとも動かなかった。顔までは遠くて判別ができない。誰かに幻だと言われたら信じていた思う。けれど僕は頭で考えるよりも先に吸い寄せられるように少女のもとに駆けていた。

 

 堤防の間のある階段を下りる。

 砂に足を何度も取られながらも走った。早く行かないと少女は消えてしまうという予感があったのだ。その予感が自分のどこから湧き出てくるのか判らなかったけど、疑念や不安の前に身体が勝手に動いていた。

 

 浜辺から突き出るように立つ巨大な船首、かって飛行機として空を駆けた片翼の機体、まるで戦場のなれの果てと言えそうなこの場所は、子どもにとって冒険の入り口だったと聞いている。そしてだんだんと疎遠になっていくのだと。

 きっと眼を逸らすように大人になっていくのだと思う。

 世の中を知り、いま自分がいる世界がすべて犠牲という結果の上にあることを知れば無理もないかもしれない。

 ここにあるのものは、誰かが何かを思い、何かを決意して、何かを為した残滓なのだから。それがこの海の名前の由来だった。

 

 僕は大小問わない残骸の間を縫って少女に駆け寄っていく。

 姿が近づいていくににつれて自分への問いかけが強くなる。本当にあの少女は生きているのだろうかと。彼女は僕の見る限り、全く動いていないように見えたからだ。

 ようやく辿り着いた少女の背中は、堤防越しに見た姿と同じだった。僕がやってきても微動だにしない。本物の人間なのかと指先でつつきたくなるけれど、人間じゃないわけがないので理性で留めた。

 息切れしていた呼吸を整えてから、僕は尋ねた。


 「えっと、こんなところで、何してるの?」

 

 返答がない。できる限り警戒されないような明るい口調を心がけたけど、緊張が伝わってしまっただろうか。もう一声かけてみた。


 「もうすぐこの辺りは暗くなる。浜辺は何も見えなくなるから危ないよ、今のうちに戻らないと」

 

 やはり返事がないので、僕は彼女の隣りまで歩を進めた。

 その端正な顔立ちに僕は一瞬、夕里亜を連想させた。

 ただ、左右対称の整った顔に大きな両眼が端と端を少しつり上がっていて、ひとめ見た際は怖い印象を受けた。失礼にも顔を覗き込んだ僕だったけど、少女は視界に入っていないかのように海のずっと向こうを見つめたままだった。

 

 不機嫌ではないな。僕は思った。顔の印象のせいでいつも怒っているように見えるのは彼女の損なところである。

 まぁ機嫌が悪いときの方が多いから損というのは言い過ぎかもしれないけれど。

 

 自然とそう考えて、僕は一歩彼女から引き下がった。

 

 自分の思考に疑念を抱く。

 

 なんだ、いまのは。まるで彼女のことを知っているような。

 

 僕の戸惑いを見て知ってか、少女は水平線をじっと見つめながらゆっくりと口を開いた。


「大きな海ね」


 少女はとても澄んだ声で言う。


「この先には何があるの?」


 僕は動揺を深呼吸を落ち着かせながら、彼女が見つめる方向に眼を向けた。そこには真っ黒な海がずっと続いていた。


「……外国、かな」


 軒並みな返答を返してしまう。

 見たところ少女は中学生くらいだろうか。身長は夕里亜と同じくらいだけど小柄な身体だった。ただ佐久間さんよりも大人びた身体つきだ、というと佐久間さんに怒られるな。

 僕は観察するように、また少女を見つめる。

 海の先に何があるかなんて学校で教わるまでもないことだった。けれど、少女はそれを初めて聞いたかのように眼を瞬かせていた。


「ガイ、コク」


「そう、外国」


「ガイコク、外コク……あぁ外国。外の国ってことね」


 クスクスと少女は笑う。そんなの読んでそのままのことなのに何が可笑しいのかわからなかった。


「えっと……君はこの町の子?」


 中学生は確か、十人以上はいたはずだった。小学生の方が多いからそっちの可能性もなくはない。けれど、聞きはしたけれどそれがあり得ないことだとわかりきっている自分がいた。

 頭がズキズキと警報のように痛みを与えてくる。

 

 そこで少女はふと、僕を見て身体ごと向き直った。やはり、可愛らしさよりも美しさが先行している少女だった。その落ち着いた佇まいで大人びているけど、どこか幼さも感じる容姿だった。


「町の子ではないよ。遠くからきたの」


「遠くからって、町の外?」


 あり得ないと思いつつ、口から言葉が出ていた。

 町同士の交流は無くもないけれど、その道中には凶暴な野性の獣がたくさんいたり、町に属さないで暮らしている暴徒集団もいたりするので、交流はほとんどない。僕と同じ立場の人が新しくきたなら、とっくに回覧されて共有できてると思うけれど。

 僕の問いには応えず、少女が呟いた。


「世の中にはね、表と裏があるの」


「え?」


「人間はその最たる例。悪意であれ善意であれ、他人は見たまま感じたままの人じゃない。外側とその中身、硬貨の表と裏」


「……全ては見たままではないってこと?」


 少女はまっすぐ僕を見て微笑んだ。


「正直、私は信じていなかったよ」


「何を?」


「世界の裏側」


 唐突に息苦しくなる。彼女の言い方が急に鋭く冷たくなったからだ。


「……裏側?」


「そっちから見たら、私のいる方が裏側なのかな。でも、主観的な感想は抜きにしても、やっぱりそっちが裏側だと思う。あっけない結末だったから」


 僕は初めて目の前の少女が血の通った人間であることを実感した。饒舌に語る少女の言葉には感情がこもっていたのだ。けれど、一体何を言っているのだろうか。哲学的な物言いとは違う気がする。

 少女は一つ息をついてみせると、一呼吸置いたあと僕たちの周りを見渡した。


「ここには色んなものが流れ着くんでしょ?」


 それが質問であったことに遅れて気付く。僕は慌てるように答えた。


「ああ、うん。潮の流れが特殊らしくて色んな物の終着点になってるらしくて」


「終着点ね……」


 気のせいか、少女は少し悲しげな表情をして見せた。

 残滓の海、ここはある意味で僕の生まれた場所かもしれない。夕里亜は死にかけだった僕に心臓マッサージをし、必死で命を救ってくれた。


 僕が何の残りだったのかは、きっともうわからない。


 無意識にさまよわせていた視線を戻すと少女は僕を見ていた。

 瞳が重なって沈黙が包んだ。一瞬だったか何秒経ったかわからない。するとその沈黙を破るように潮風が僕たちに体当たりするように通り過ぎた。


「……え」


 眼を疑った。少女の長い髪も衣服も微動すらしていなかったのだ。

 少女は微笑みながら手を差し出してくる。それは握手を求める動作だった。


「ここは、あなたにとって終着点じゃないよ」


 依然と少女の言っていることはわからなかった。


 僕は戸惑いながらもゆっくりと手を差し出す。それはずっと残っていた手の温もりが引きつけるように、僕は無意識に少女の手を握った。

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