第8話
「コーヒーでも入れようか」
洋介さんはそういって、僕に椅子に座るように促した。
「僕がやりますよ」
「いいから、座っていなさい」
渋々、僕はリビングのダイニングテーブルに座った。
いつもの定位置、隣りは夕里亜ではす向かいが洋介さんの席だ。料理技術が皆無な僕と洋介さんは夜の七時前になったらいつもここに座って洋介さんと話をしていた。
「喧嘩でもしたのかい?」
クツクツと湯を湧かす音がする。それ以外は何も聞こえない静かな時間だった。この静寂に水を差したくない、というのは言い訳だろう。
僕は自然と小声で応えた。
「かなり、怒らせちゃいました。すいません」
「謝ることはないよ。君たちの喧嘩は大抵夕里亜が悪いしね」
「いえ、今回は……どうでしょうか」
洋介さんはカップやフィルターを出して準備をする。
僕はその背中を見つめていた。父親の背中。既視感はなかった。でも何かこみ上げてくるものがあった。いつも見ていたはずなのになぜだろう。夕里亜と喧嘩したからだろうか。
「卒業後の進路、の話かな」
遅れて、その指摘に驚いた。けれど、この時期ならば予想はできて当然かもしれない。僕はまだ洋介さんに、東京へ行くことを言っていなかった。
「洋介さん。その、僕は」
「東京に行くんだろう」
僕は目を見開くも、洋介さんは湧いた湯にコーヒーを入れている最中だった。ジワリというコーヒーの粉が声を上げているように聞こえた。
「哲己ならそういうだろうと思っていたよ」
「すみません」
「それも謝ることではないな。進路は自分の行きたい方向へ進むものだよ、いろんな意見を聞いても最後に決めるのは自分、人はそうやって成してきたんだよ」
お湯を入れ終わって、洋介さんはくるりと回って僕を見つめた。
「理由は、私たちのためかい?」
「……それも、あります」
「まぁ、未だに君を異分子扱いする人は一定数いるからね。気にするな、というのは哲己の性格では難しいだろう」
「……でも、それだけじゃないんです。ここでの暮らしは楽しいし感謝もしています。出来るのなら一生をかけてここにいたいって気持ちがあるんです。でも僕は」
カップにコーヒーが入り、洋介さんは静かにコーヒーカップを僕の前に置いた。いつものはす向かいの席に座る。
「哲己が見つかって医院に運ばれたとき、正直私は助からないと思った。夕里亜の話によれば君は心臓は止まっていたそうだ。でも君は息を吹き返し懸命なリハビリを経て、健康体となった」
「夕里亜の、看病のおかげです」
「それもあるね。けれど、残滓の海から医院まで二十分はある。君はその間、いやそれよりも前から心停止していたかもしれない。これを奇跡だと済ますのは簡単だが、どうにも腑に落ちなかった」
僕は少し笑う。
「もしかして、僕は人間じゃないとか?」
洋介さんもつられて笑った。
「そうだったらわかりやすいんだけどね。医学的にも人間だよ。ただ哲己は人よりも頑丈みたいなんだ、内側と外側がね。そのあたりで普通よりも何かが違うのかもしれない。素質なのか、いや違うな。もしかすると適応力か」
「適応? なにとですか?」
そこで洋介さんはカップに口をつける。それは言うべきか否かを迷っている時間を作ったように見えた。
「……世界、とか」
「世界?」
洋介さんはふっと笑ってから僕を見た。
「いや、気にしなくていい。ただの仮説に過ぎないからね。東京にいけば、有識者が集まっているしここにいるよりは情報は集まる。自分を知るきっかけにもなるだろう。東京に行くことは私は賛成だよ」
「……はい」
「ただ、私たちに迷惑がかかるからなんて気持ちは捨てなさい。私も夕里亜もそんなことは思っていない。あとは哲己がどう考えるかだけだ」
僕はゆっくりと頷いた。僕がどう考えるか、か。
「気分転換もかねて、ちょっとおつかいを頼まれてくれるかい?」
洋介さんは立ち上がり、棚から小瓶を三つほど取りだした。
「佐久間さんの家から、この小瓶と醤油一升を交換してきてくれ。昨日で切らしてしまったからね」
佐久間さんの家は町唯一の醤油を醸造している家だった。物々交換が主流であるため、醤油が欲しい場合、それに見合うものを持っていかなければいけないのだけど。
「毎回思うんですけど、その小瓶って何が入ってるんですか?」
「それは内緒だ」
思わせぶりな顔で、洋介さんは小瓶を渡してきた。真っ黒なので中身が液体なのかもわからなかった。振ってみればわかりそうなものだけどなんとなくブラックボックスな気がして一度もやったことはなかった。
「餅がいくつかあるから、今日は醤油で夕飯かな」
「そうしましょう」
多分、夕里亜はしばらく部屋に閉じこもったままだろう。
「コーヒーを飲もう。卒業までまだ三ヶ月もある。年末は忙しいからね」
「そうですね」
僕たちは再び、椅子に座ってコーヒーブレイクをする。
こんな時間は今まで何度もあった。洋介さんと二人で思い出したように短い会話をたまにしながら、静かにコーヒーを飲む。
父親がいたら、こんな感じなのかなといつも思っていた。養子という形で僕は天瀬家に入っているから戸籍上は父親だった。でもやはり父と呼ぶのは憚れた。
窓を見ると、だんだんと空の雲が黒くなっていくのが見えた。
時間的に曇天の雲の上の太陽が落ちかけているのだろう。夜になる町は渾然とした闇に包まれる。暗くなる前には戻らないといけない。
もう少しこの時間に浸っていたい気持ちを抑えて、僕は早めにコーヒーを飲み干した。
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