第6話
天瀬家は坂を少し上がった高台にある。他の並んでいる住宅とは離れていてどこか孤立しているように見えた。ただ、近所の眼がないというのは僕にとっては有り難いことだった。大人の僕を見る眼は酷く冷たくて、出来るなら顔を合わせたくなかった。
家に着くと、家の隣りにある畑で洋介さんが作業をしていた。
「おかえり、哲己」
中腰になっていた身体持ち上げて、洋介さんは背筋を伸ばす。190センチある身長が身体をぐっと伸ばすと倍以上の高さになるように見えた。
「さっき夕里亜がすごいスピードで家に入っていったけど、何かあった?」
「あー……いや、たいしたことでは」
濁して応えると、洋介さんは薄く笑ってみせた。
夕里亜の父、洋介さんはこの町唯一の科学研究者だ。発電機の開発から電気で動く機械全般のメンテナンスはこの人がいなければ誰にも出来ない。その他にも自然学にも精通していて地理、地質の調査や気候や天候なども研究しているから、人によっては洋介さんを博士と呼ぶ人もいるくらいだった。
とうの本人はそう呼ばれるのは嫌がっているけれど。
「収穫、手伝います」
そろそろ、ごぼうやさつまいもが取れる時期だ。僕が畑に入ろうとすると、洋介さんは手で制した。
「いいよ、哲己。収穫は僕がやるから夕里亜のところにいってあげて。あの調子じゃ夕飯を作るのもままならないだろう」
「あー確かに、そっちの方が困りますね」
僕も洋介さんも、料理がまるで出来なかった。情けないことに僕たちの食事はいつも夕里亜頼みなのである。
「哲己が行けば元気になるさ」
「だと、いいんですけど」
僕は軽く頭を下げてから、家に入っていった。
この家に母親はいなかった。夕里亜の母は極度に身体が弱かったらしく、子どもを生む体力は無かったのだがどうしても子どもを欲し、夕里亜が生まれてすぐに亡くなってしまったらしい。僕にとっても、夕里亜にとっても彼女の母親は写真でしか知らない存在だった。
一階のリビングやキッチンに夕里亜の姿はない。そうなると、やはり自室だろう。
僕は階段を上がって、一つの部屋の前に立つ。
ノックを三回。
「夕里亜、入るよ」
特に返事はなかったが、扉を開けた。
ダメなときはダメという子なので律儀に返事を待つ必要はなかった。
それに、ここは僕の部屋でもある。
部屋に入ると、夕里亜は制服のままでベッドにうつ伏せに倒れていた。
「スカート、皺になるよ」
僕は上着を脱いで、ハンガーに掛ける。ついでに床に落ちていた夕里亜のコートも隣りに掛けた。
元々、この部屋は洋介さんの書斎として使っていた場所で十畳以上の広さがあるから、二人で使うには充分な場所だった。僕がこの家にやってきたことで、書斎は僕と夕里亜の自室になったわけである。
僕は海で助けられてから一年ほど身体がほとんど動かなかった。
人の手を借りなければ立てず、周期的に全身が弾けたのではと錯覚するほどの激痛が襲った。全身が熱くなって何度も嘔吐する僕をつきっきりで看病してくれたのは夕里亜だった。
自分が何者かわからない恐怖と死を突き付けられる苦痛に耐えられたのは、夕里亜のおかげだった。彼女がいなければ僕はやはり、あのまま死んでいたのだと思う。
だからだろうか。
僕がようやく人としての生活を一人で送れるようになったとき、夕里亜は自分の部屋があったのに、僕と同じ部屋がいいと断じて譲らなかった。
大体、夕里亜は十五歳くらい。僕の年齢は定かではないのだけど、多分同じくらいだろうと夕里亜と同い年だということになったのであまり良いことではなかった、僕たちは兄妹ではないのだから。兄妹だったとしても部屋が余りあるのなら同じ部屋にはならないだろう。
それでも夕里亜は僕のそばにいることを譲らなかった。その心にどんな意味があったのかは僕にはわからない。でも洋介さんは、最初から反対せずに容認した。それが当然だというような態度に僕は少し疑問を抱いた覚えがある。
それからは、僕と夕里亜はほとんど生活を共にしていた。
登下校はもちろん、休み時間も。学校で別々になるのはトイレと男女別の体育くらいだ。最初の頃は僕を女子トイレや女子更衣室にまで連れて行こうとするからまいったものだった。
夕里亜はいつだって僕を自分の目の届く範囲に置く。
さすがに風呂は一緒に入らないけれど、お互いが出るまでそれぞれ脱衣所の外で待っているほどだった。
これを聞くと、夕里亜に対して引いてしまう人はいると思う。けれど、僕は素直に嬉しかった。記憶も居場所もなかった僕にとって、彼女がそばにいることはこの世界にいてもいいのだという存在証明をもらえている気がしたからだ。
けれど、それはもう終わらせるべきだった。夕里亜のためにも。
「佐久間さんはからかってるだけだよ」
からかってる内容から、僕がフォローするのもおかしな話だけど。
すると、夕里亜はうつ伏せのまま顔をこちらに向けてきた。
「哲己は、他の子に告白されたらどうするの?」
「どうもしないよ。ありがとうっていうだけ」
「それで終わり?」
「終わり。というかそんなことあり得ないって。みんな僕の事は避けてるじゃないか」
佐久間さんは、みんな僕と話したい、仲良くしたいと思ってると言っていたけど信じることができなかった。僕はよそ者だし、いまだって違う町から来たスパイだっていう大人がいることも知っていた。
「哲己は、町を出る気なんでしょ」
「……」
その問いに沈黙が落ちる。もう決めていたことだった。
佐久間さんにはあのように言われても、自分はここにいてはいけないという気持ちが強かった。それが仮にクラスメイトや町の大人が好意的だったとしても変わらなかったと思う。
僕は常日頃からこの世界に居場所はないと何かに刃を突き付けられているような脅迫めいたものを感じていた。
夕里亜がそばにいたおかげで眼を逸らせるときがあったけれど、その圧迫感は消えることなく、ずっと僕の隣りにいて離れることはなかった。
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