第2話 豚キムチ その①

 王都オーディンヌの郊外に、その学院は在る。四方を石造りの外壁に囲まれ、正門を通り過ぎた学院内の敷地正面には樹木とガス灯と手入れの行き届いた芝生、そして石畳による庭園が設えられていた。学院内の建造物は、三階建ての校舎と学生寮と大講堂、そして教官棟と訓練棟と給仕棟の六区画に分けることができる。

 その日の朝、栗色髪の少年、ニコル・エルドナートは学生寮の一室で目を覚ました。二段ベッドの下段でそっと体を起こし、大きく伸びをする。上段にはルームメイトであり、友人になったばかりのグランツ・シュタイナーが眠っている。

 ニコルはグランツを起こさないように物音に注意しながらベッドを抜け出た。

 洗面所で顔を洗って歯を磨き、整髪を終えると再び自室に戻り制服に着替える。寝ぼすけのグランツはまだ夢の中にいるようだ。

 精霊学院に入学して一週間が経過した。学院生活にも少しは慣れてきたところだった。

「……とは言っても、自分のことは自分でしなきゃ、だもんな」

 ニコルは小声で独り言ち、食堂へと向かった。

 精霊学院に在籍する生徒は、寮住まいと実家通いとの二種類に分けることができる。寮住いの生徒の食事は、登校日の昼食を除いて基本的には生徒自身でまかなうことが義務づけられていた。大衆食堂の息子であるニコルにとっては特段の苦もないことであったが、他の生徒にとっては面倒この上ないことのようだった。夜は、門限まで学院近くの安酒場で食事を済ませるものが多い気がする。朝は硬くなった冷たいパンをかじって学び舎に向かうものがほとんどだ。ニコルのように寮内の調理場を朝から使う者はごくわずかだと言えた。

 ニコルは石窯の前に立つと、いくつかの薪を用意し、それらに指先を向けた。

「火霊サラマンデルの名のものに、塵は火に、火は風に乗り、我が眼前に――」

 人差し指で空中に印を描き、初級の火霊魔法を詠唱した。すると指先からわずかな火種が起こり、それは薪へと引火する。

「……ふう」

 正式な魔法士でなくとも初歩の精霊魔法を使えるものは多い。

 精霊魔法とは、世界に存在する四柱の大精霊——火のサラマンデル、水のウェンディヌス、風のシルフィ、土のノームル――に語りかけ、その強大な力の一部を貸与され放つという仕組みで成り立っている。そして、精霊より貸与される力は、術者のエーテルと呼ばれる魔法力によってその大小が決まることになる。修練を積んだ魔法士と一般市民の使う魔法との違いは、エーテルの絶対量——すなわち、魔法力そのものに比べものならないほどの差が生まれるところにあった。

 ニコルは、火を起こした石窯の上にフライパンを載せると、寮の裏側にある菜園と鶏小屋から、レタスを少々と卵を二個取って戻ってきた。慣れた手つきで卵を割り、油をひいたフライパンの上に中身を落とす。薄く切ったパンもフライパンに載せ、表面を焼きながら温める。ほどなくして食卓に用意してあった二枚の皿の上には、レタスを添えた目玉焼きとトーストが並べられた。

「うぁーあ、おはよーさん」

 タイミングよく、瞼を擦りながらルームメイトのグランツが食堂にやってくる。

「げっ、相変わらずうまそう、さすが王都一の食堂の跡取り息子だな」

「……あいにく、僕に家業を継ぐ気はないよ。それは妹のマインと、その将来の旦那に任せることにするよ」  

「へえ、妹っていくつだよ?」

「今年で十四になるね」

「可愛い? なんなら俺がその旦那になってやろうか?」

「食堂の朝は早いよ、君にそれが務まるの?」

 グランツは誤魔化すように口笛を吹いて食卓に着いた。ニコルよりも先にむしゃむしゃと朝食をかっ食らう。

「まったく……」

 苦笑しながらニコルも食卓に着き、利き手である右手にフォークを持った。

 そして、学院に入学してからまず最初に習った食事前のまじないを唱えることにする。

 両手を合わせて、

「イタダキ、マス」

「……………」

 フォークでレタスを刺そうとすると、グランツが怪訝そうな視線を向けていることに気が付いた。

「どうしたの?」

「いや、そのまじないってさ」

 バリバリとレタスをかじりながらグランツが言う。

「なんなんだろうな?」

「なんなんだろうって?」

「いや、なんか不思議な響きの言葉だよな、まるで異国の言葉みたいに」

「……………」

 それはニコルも思っていたことだった。

 王都で使われる公用語『イグニシュ』にはない響き……。

「一体どんな意味が込められてるんだろうな」

 グランツの言葉に、ニコルは首を傾げる。

「マリアベル先生に訊いてみたんだけどさ、教えてくれないんだよね」

 そして入学式典翌日の出来事を思い出した。午前中の授業が終わり、初めての給食を迎える直前の出来事だった。各々の机に食事が配膳されると、担任のマリアベルは次のようなことを言ったのだった。

 

 ——諸君に、食事前後にエーテルを高めるまじない言葉を教えよう。


「イタダキマス、に、ゴチソウサマデシタ」

 呟き、ニコルはまた笑みをこぼしてしまう。

「本当に不思議なまじないだよね。先生はこんな発音しにくい言葉をあんなに滑らかに言うんだから、すごいよね」

「すごいって言えば、お前知ってるか?」

 グランツは興奮気味に言葉を紡いだ。

「何を?」

「マリアベル先生だよ」

 ニコルはドキッとした。

 グランツは一体、あの美しく鍛えられた刀剣のように精悍な顔立ちの先生について、どんな新情報を仕入れたというんだろう?

 自然と、ルームメイトの言葉に耳を澄ませる。

「先生がこの学院に着任してから、成績優秀者が各段に増えたらしいぞ」

「……へぇ、そうなんだ」

「先生の手腕もさることながら、一番の要因は先生が起こした食事の改革、給食の導入にあるって、まことしやかに噂されてる」

「……それ、誰から聞いたの?」

「二回生のハンス先輩だよ」

「ふーん……」

 食事の改革、か。

 確かにニコルもこの学院にきて、昼時の過ごし方に驚きを隠せなかった。

 給仕棟で作られた料理を生徒が自分達で教室に運び、さらには皿に取り分けて配膳する――そんな経験は生まれて初めてだった。グランツ曰く、そもそも精霊学院では現給仕棟に学生食堂があり、もともとはそこに生徒が赴いて昼食を摂るというのが従来の食事スタイルだったらしい。現在の給食という仕組みを提唱した教官こそ、現担任のマリアベル・マレットだったらしく、なんでも食事のメニューに関しても彼女が監修を務めているのだとか。

「生徒の栄養面の管理だけじゃなく、まじない言葉や、東洋製のあの『ハシ』とかいう変わった食器の使用、俺たちがほとんど食べたことのなかった『ゴハン』とかいう食材の仕入れも先生の手によって行われたんだとか」

「……ゴハン」

 ニコルは思わず生唾を飲み込んだ。

 ゴハン……ああ、ゴハン!

 パンやジャガイモ以外の主食を、ここにきて初めて口にした。粘り気のある謎の白い穀物は噛めば噛むほどにほんのりとした甘みが口一杯に広がって――。

(ああ、今日の給食はなんだろう……?)

 うっとりとした気持ちで、ニコルは給食に思いを馳せた。

 正面にいるグランツも、先ほど起きたばかりだというのに夢見がちに目を細めていた。

「……ほんと、憧れちゃうよなあ、マリアベル先生……」

 そっちかい。と、思わずズッコケそうになった。

(まあ確かに、わからなくもないけど……)

 と、ニコルは思う。あれだけの美人で独特な雰囲気も漂わせている先生だ。異性としての魅力に惹かれる生徒も多いことだろう。だけど――、

(ちょっとだけ怖いんだよね、マリアベル先生……)

 それは恐怖というよりも畏怖の念に近い感情だった。

 あの鋭い瞳の奥には、底知れない何かが秘められているような気配がする。

 ニコルはマリアベルの顔を思い浮かべ、身震いしそうになりながらトーストをかじった。

 二人は早々に朝食を終えると、手早く食器を洗い、自室に戻った。一息つくと必要な教科書類を鞄に詰めて、寮からまだまだ通い慣れていない学び舎へと足を向けるのだった。

 

  

 

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精霊学院で給食を! 桜野 @masaki727sakurano

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