04:カフェでのとある一幕
「ひ、ひぇぇ…………」
もはや何か声を発そうなどとは一切意識していないというのに、体の内側から無理やり押し出されるようにして、空気——いや、かすれて小さな音量になってこそいが、確かな悲鳴が漏れる。
内側から私のことを蝕み、大して強いわけでもない精神力をガリガリと削り続けるその正体は、恐怖。
「も、もう帰りたいですってぇ……! いや、というかもう帰らせてくださいよぉ……ぐすっ」
先ほどから絶え間なく鼓膜へと届く発砲音に、何かが爆発するような地響き。
恐らくそれは、一時間ほど前に近くで発生し、今もなお続行中である小競り合いによるもの。
幸いにも、この場からは離れた場所が戦火の中心になっているようで、今のところ直接的な被害は及んでいない。だが度々近くで大きな音がしたりする都度、いつこっちにも流れ弾が来るかへの心配で、否応が無しに胃から酸っぱいものがこみ上げてくる。
そんな精神状況が続けば、よわよわお豆腐メンタルはあっという間に疲弊し、結果すっかり怯えきってしまった私は——しかしその場から逃げ出すこともできずに半ベソをかいていた。
「でも、今もし帰っちゃったらバイト代がぁ……。うぅぅっ…………」
——苦悩と恐怖に顔を歪める少女が留まり続けていたのは、今日やっとオープンしたばかりの、とある喫茶店。
つい最近完成したばかりなのだろうか、綺麗かつ機能性を感じさせるモダンな内装の店内には、埃ひとつ落ちていない。光を外から取り込む窓の枠や、ゆったりとしたペースで回転する
ジャズの落ち着いたBGMが流れているのも相まって、居心地の良い空間が目論見通りに演出された店内には、さぞ多くの客が優雅な時を過ごしているのだろう——と、そう思われたが。
「すぐ隣の道で
——現実には、カウンター席やテーブル席といった多くの席が用意されている店内に、客らしき人影はひとつもない。
唯一そこにある人の姿といえば、涙目で鼻をすすりながらも、健気にテーブルを拭く手だけは先ほどから止めない、カフェスタッフのエプロンを身に着けた少女の姿だった。
「帰りたい帰りたい帰りたい帰りたいぃ……!」
壊れたレコードのようにひたすら繰り返される言葉——それに呼応するようにして、彼女が磨いていたテーブルがみるみるうちに光沢を取り戻していく。
目にも止まらぬ神速の布巾捌きによって、気付けば店内に備え付けられた席やテーブルは、さながら新品の鏡ばりのツルピカ仕上げとなっていた。
——当のカフェ店員の少女は、涙目になりながらうわごとのように帰宅願望を呟き続ける、といった状態ではあったが。
「う、ううううう…………!」
恐怖と葛藤による涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに——現状客がいないとはいえ、接客業にあるまじき醜態を晒す少女を——だが、非情にも。
……ズドドドドドドドドドドドドド——!!
まるで運命が彼女をあざ笑うかのように、狙ったかのようなタイミングで——今度は直前まで彼女を震え上がらせてきたものとは比べ物にならないほどの、大規模な地鳴りが響き始める。
「————ひっ!?」
単なる崩落やら爆発といったものとは明らかに異なる、規模のケタが違う轟音。それによって、さながらこの大地が何らかの意思を持つ生物であり、それが腹の底から断末魔の叫びを上げているかのような錯覚すら覚える。
思わず耳を塞いでも全く意味をなさず、鼓膜を貫通して直接脳を激しく揺さぶる膨大な聴覚情報は、咄嗟にテーブルの下へと隠れていた彼女の残り少ない
新しい建物であっても、ともすれば崩れてしまうのではないかと危惧されるほどの揺れの中で——ついには精神が耐えられるストレスの閾値を超えてしまった少女は、頭を抱えながら自問していた。
——なんで私がこんな目に。なんでこんなバイトを選んじゃったんでしょうか。というか、ただのカフェのオープニングスタッフだったんじゃなかったんですか。
——近くで起こった戦いのせいでお客さんも来ないし、なんならそのせいで、いつ飛んでくるかもわからない流れ弾に神経をすり減らさなければいけないですし……。
——こうなるレベルの人気って知ってたら、まだ他のバイト先を選んだかもしれないのに。
——ああ……どうして、どうしていつもこんな目に……。
私もう辞世の句でも読んどいたほうがいいですかねぇ——などと、挙句の果てには光を失った目で自暴自棄になっていた少女は、しかし気づく。
自分を恐怖のどん底に陥れていた地鳴りが、まるでそれが真っ赤な嘘だったかのように——綺麗さっぱりと収まっていたことに。
「…………あれ? と、止まった……? も、もしかして私、助かったんですかぁ……?」
ビビってガチ泣きしていた証拠——目元を赤く腫らしてぽつりと呟く少女は、少し落ち着きを取り戻してか、テーブルの陰から店内の様子を見回し始めた。
大きな揺れを経た店内は、幸運にも——いや、お店としては不幸なのだが——客が全く入っていなかったおかげでそもそも散らかるようなものがなく、地鳴り以前の様相とほぼ変わらなかった。
一部の椅子など、ただ配置されていただけの物品は定位置から少しズレているか、いくつか横倒しにはなっていたものの、見た感じで特に壊れていそうなものはない。
「よ、よかったぁ……また生き延びたみたいですねぇ。ほっ……」
それにお店の備品が壊れてたら、バイト代に響くかもしれなかったですし……と。
二重の意味を込めて安堵の息を吐いた少女は、まだどこかふらふらとはしているものの、テーブルの陰からゆっくりと姿を現す。
落ち着いてもなお早鐘を打っていた少女の心蔵も、騒音が掻き消えた店内に相も変わらず流れ続けるジャズのゆったりとした曲調へと、少しずつシンクロしていく。
「……とはいえ、流石にもうこんな状況でお店に立ち続けるのは、やっぱり私には無理ですよぉ……」
初日の時点でこんなズタボロなのだ、こんなの毎日繰り返してたら身が持たない——冷静になったうえで改めて、そう判断を下して。
彼女はうん、と頷くと、未だ人っ子ひとり入ってこないカフェの入り口へと向き直る。
「ちょっと外の様子を確認したら、お店閉めちゃいましょうかぁ。ついでに……退職願の準備ですねぇ」
また別の仕事を探さなければならないけれど……背に腹は代えられない。なかなか長続きする仕事というのは見つからないものだ。
正直なところ迷いはあるが、今の職場を辞めたい気持ちの方が現状大きいのだから仕方ない、と。
「雇用主さんには契約違反だとかで、きっと怒られちゃうでしょうけどぉ……まあ仕方ないですよねぇ」
——脳裏によぎるは、やたらと自身に満ち溢れた奇行……もとい振る舞いと、サングラスをかけた特徴的な外見をしていた人物の姿。
このバイトの面接で、『う~ん、あんまりパッとしない見た目だけど……ま、スイーツたちが引き立つから問題なし。採用で』などと、微妙に失礼なことを言われながら雇われたことがついでに思い出されるが。
それでも、どこかすっきりとしたような表情を顔に浮かべた少女は、手に持っていたダスターをテーブル上に放置して、外からの光が差し込む入口の方へ————
「ついたっ! すみませんっ! げんていっ! スイーツ!! まだありますかぁぁっ!?」
「ひきゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!?」
————と、一歩踏み出すモーションに入った瞬間、向かおうとした場所から逆に、「バァンッ!」と勢いよく何かが飛び込んでくる。
入り口上部のドアが一気に開き、客の到来を告げるはずのベルがけたたましく鳴る音と共に起きたその侵入は、私にとって全くの意識外の出来事で。
一難去って完全に安心していた隙を突かれた私は、これまではどうにか抑えていた悲鳴を思いっきり上げてしまった。
「いやぁぁぁぁぁ! もうダメ、終わりです死にますぅぅぅ! 終わった、私の人生終わりましたぁぁぁぁぁあ」
「うわぁっ!? な、ななななになに!? ど、どういうことっ!?」
「————ぁぁぁ、あ……? え?」
私が半狂乱に陥り、恐怖をもたらす周囲の状況から少しでも感覚を遮断するべく泣き叫び、喚き散らかしている中。
自分の悲鳴に半ばかき消されかけた少女の声らしきものを認識した私は、喉の奥から自動再生される叫び声を一時停止。
今にも大粒の涙をその端から零そうと閉じられていた瞼を開き、眼前の状況を確認する。
「あっ、も、もしかしなくても……びっくりさせちゃった感じっ、だよね、わたし」
「へ…………ひ、ひと……?」
「もはや、ひ、人とすら認識されてなかったっ……!? わたし、なにと、勘違いされてたの……っ!?」
「そ、その、おっきな砲弾かなにかだとぉ……」
そこには、今さっき店内に飛び込んできた何かの正体らしき——白い制服を着て、白い肌に覆われた身体の頂点からさらに白い髪を伸ばした、全身真っ白な女の子の姿があった。
よく見ると、その白さの一端を構成する肌は上気して仄かに赤みを帯びているうえ、言葉の端々が途切れがちになっている。
恐らく入って来た時の勢いを見るに、ここまで相当な勢いで走ってきたようだ。
「ほ、砲弾って……。と、とにかくまずは、驚かせてごめんなさい。いくらなんでも、マナー違反だったよね」
「ほっ……い、いえ、どうかお気になさらず……でも、良かったですぅ。びっくりしちゃいましたけど、ただのお客さんだったんですねぇ。こちらこそ、し、失礼な対応をしてしまってごめんなさいぃ……」
「OPEN」の看板をまだ裏返していない以上、カフェは営業中。つまりはまだ勤務時間内ということ。いくらバイトを辞めると決めたとしても、働いている間はきっちり職務を果たさなければならない。
ということで私は、不安定そのものだったメンタルを覆い隠すように笑顔のメッキを貼り付け、なんとか接客モードの体勢に入る。
「お外の様子が、その……あれでしたから、今日はほとんど入客もなかったものでしてぇ……。私もちょっと、気を抜いていたところはありますからぁ。へへへ……」
「そ、そうなんですねー。た、大変そうだ~……」
情緒不安定からの接客スマイル——訂正、不自然に引きつりヘラヘラした笑顔に加えて、コミュ障丸出しの会話の切り出し。
会話の下手さ、ここに極まれり。初見のお客さんに店の不況を伝えるという、反応しにくさMAXの話題を振ってしまう。
……いくらなんでも接客が下手過ぎませんか私。お客さん若干気を使ってるじゃないですか。
ああほら、困ってる。困ってますって。お客さんの目が泳いでますってどうにかしてくださいな私ぃ!
「…………」
「…………あ、あの——」
開口一番から漂い始める気まずさを打開しようと、恥やら緊張で震える口からなんとか単語を絞り出そうとしたとき、横に泳いでいたお客さんの視線が——ふ、と止まる。
その向く先がいつの間にか自分に向けられていた、と私が気づいた瞬間。
「って! それはつまり、まだ結構スイーツ残ってるってことでは……!?」
「え? あ……は、はい、そうですねぇ……。確か今のところ、売り切れのスイーツはなかっt——」
「ならっ、カフェ『ドルチェ・ド・ルーチェ』新店オープン記念期間限定特製スイーツの在庫もまだあるってことっ!?」
「ふぇあぁ!? え、あ、えっ? な、なんて!?」
バッ————!! と。
私たちの間にあった距離を刹那の間に詰め、早口で何事かをまくしたてながら、キラキラとその青い瞳(と、口からこぼれる涎)を輝かせるお客さん。
入店時の勢いさながらに超食い気味で詰め寄るその顔に気圧されて、紡ごうとした言葉はまたも吹っ飛び、ほとんど意味を成した単語が出てこない。
だがその後すぐに、至近距離に迫った瞳は理性の光を取り戻して。
ほぼ密着の間合いからすっと離れたお客さんは、慌てて深々と頭を下げた。
「はっ————ご、ごめんなさい! わたしったら、またやっちゃった……」
「い、いいえ! どうかお気になさらないでくださいぃ」
ころころと表情が変わるお客さんを前に振り回されっぱなしの私は、目を瞬かせながらどうにか反応を返すことしかできない。
今のように落ち着いているときの様子と、さっきから時おり顔を覗かせる——前のめりにグイグイ来るときの雰囲気とでかなりギャップがある。
どうやらこの人は、一度スイッチが入ってしまうと周りが見えなくなってしまうタイプみたいだ。
「いつも気を付けてるんだけど……やっぱり、ここのスイーツが楽しみで仕方なくて、ついつい前のめりになっちゃったというか。えへへ……」
「す、すごい熱意をお持ちなんですねぇ……」
とんでもない勢いで
思えばさっきから暴走気味になるのは、この店のスイーツに関して質問をしようとしていたときだった。
「——そ、それはそうと、お客さん……で、いいんですよねぇ」
「あっ、うん。じゃなかった……はい、そうですっ」
ピッと背筋と腕を伸ばし、畏まった態度を繕う眼前の少女。
なぜに敬語に……と地味にツッコみたくなるのは心中に留め置いて、私は改めて、停滞していた本来の業務に戻る。
「えっとぉ……そうしましたら、ご注文を伺ってもよろしいでしょうかぁ……?」
「待ってましたーっ! じゃあまずは————」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「うぅぅ……もうだいぶお金使っちゃったけど、スイーツのためなら仕方ないっ! ぽちっ!」
「……あ、あはは……。はい、決済の確認がとれましたぁ。そ、それでは、すぐに限定スイーツとお持ち帰り用の箱をご用意しますねぇ。えっとたしか……」
そう若干引きつった笑みを浮かべながら告げて、いそいそとお店のバックヤードへと戻っていく背を見送ったわたしは。
——ぃよしっ!! と、固く右拳を握りしめて小さくガッツポーズをしていた。
「朝からもう色々とハプニング続きだったけど、無事に限定スイーツがゲットできてよかった~! ついでに他のメニューも買えちゃったし、今日はやっぱりラッキーデーかも?」
……電子決済のアプリ上で残高を示す無慈悲な3ケタの表示は、いったん見なかったことにして。
ともかく、朝寝坊から始まる様々な苦難を乗り越え、無事にお目当てのスイーツをゲットしたことで、わたしは笑み(と涎)が口から零れるのを抑えきれなかった。
「いや~、ショーケースに並んでるどのスイーツもすっごく美味しそうだなぁ~! 今回の限定スイーツだけは、たしかここには並べてないんだよね」
聞いたところによると、オープン記念スイーツだけは他の商品のように店頭には並べていないのだという。曰く、「買ってからのお楽しみ」だそうで。
さらにはスイーツ自体も、特製の箱に入れて厳重に隠した状態で出てくるという徹底っぷり。ここまで秘密にされて期待感が煽られない者などいないだろう。
そしてその「お楽しみ」の答えを、紆余曲折を経てついに手にしたのだから、喜びも一塩というもので。
思わず財布の紐が緩んで、本来なら今日買うはずのなかったその他のスイーツにまで、あれこれと手が伸びてしまったというわけだ。
「とっても待ち遠しい時間だけど……こうしてドキドキして待ってるのもすごく楽しいんだよね~♪」
注文したスイーツが運ばれてくるまでの時間を、スイーツに対する妄想と期待を膨らませたマキナが、ニヤつきの止まらない顔で待っていると。
「お待たせしましたぁ……」という声とともに、バックヤードから足音が戻ってくる。
「わかりやすいところに置いてあってよかったですぅ……。あ、えっと……商品は二つに分けてお渡ししますねぇ」
「わーい! 待ってました~っ!」
「あ、あはは……楽しみにしていただいてありがとうございますぅ。それで、ですねぇ——」
と、カフェ店員の少女が、厚紙製らしき二つの箱をガラスのショーケースの上に置く。彼女が慎重な手つきで運んできたのは、片やシンプルなデザインでやや大きめな箱。そしてもう片方は、装飾のような柄があしらわれた小さめの箱だった。
箱をもってきた二つの手はそのまま、大きめの方の箱上部を開放し、その中に隠れていたスイーツの姿を露わにした。
「ま、まずこっちの箱に、お客様が注文されたスイーツのほとんどが入ってますぅ……。一度こちらでも確認はしてますがぁ……その、ね、念のため、お間違いがないか、どうかご確認をぉ……」
「はいは~い」
中身をのぞき込んだわたしの瞳に映り込んだのは、大きめな箱の容積のほとんどを埋め尽くし、ぎちぎちに敷き詰められた色とりどりのスイーツたち。
フルーツケーキやショートケーキといった王道の面々に加え、モンブランやザッハトルテを筆頭としたちょっぴり高貴な印象のスイーツから、みんな大好きシュークリームやチュロスまでよりどりみどり。
見るからに甘美で美味しそう、かつお洒落な見た目のデザートたちが織りなす、砂糖と生クリームまみれの退廃的楽園。
————……じゅるっ
「…………」
「あ、あのぉ……お客さん」
「はっ、え、あ、なんですかっ?」
「……その…………垂れてます。色々とぉ……」
どうやらまたやってしまったらしい。足元を見れば確かに、お店の床の一部が変なテカりを帯びてぬるぬるしている。
マズい、流石に直さないとその内どこかの店で出禁にされる——と。
湿った床を持参したハンカチで、大惨事になっている口元は服の袖でそれぞれ拭う。
「……だ、大丈夫ですよぉ、お客さん。こっちで掃除しますのでぇ」
「いや、そういうわけには。ほんとにごめんなさい反省してますので出禁だけはどうかご勘弁を」
「もはやいろいろ喋り方がおかしくなってますしぃ……。いや、ほ、ほんとうに大丈夫ですからぁ……!」
慌てて制止する声にも構わず、ひたすらぺこぺこ頭を下げるマキナ。
客に謝罪され、あまつさえ清掃までさせているという状況をあわあわと見ているしかできない店員の少女は、どうにか強引に話題を変えようと——ショーケース上に置かれていた、もう一つの箱に手を伸ばした。
「そ、それでですねぇ、こっちの箱なんですがぁ……!」
「いやほんとうにごめんなさ——あ、え?」
「こ、こっち! こっちには開店記念の限定スイーツが入ってますぅ! こちら内容は購入者のみが知る秘密ということになってますのでSNS等への掲載や道中での開封は避けてどうかご自宅にて開けてくださいお願いしまぁすっ! ではどぞぉっ!」
なんとか気を引けたのか、お客さんが一瞬固まっているうちに間髪入れず、一息で限定スイーツを渡す際の台詞を、研修で教わった通りにまくし立てる。
さらには有無も言わせず箱を二つとも押し付けるとほぼ同時、その凄まじい勢いを保ったままに腰を30度ほど折り曲げ——
「ありがとうございましたぁっ! あっ、あ……『あなたとドルチェの出会った素晴らしきこの日が、どうか甘美なものでありますよう』——っっ!!」
……絶妙にダサいというか、語呂が悪いというか。
やたらにクセの強い挨拶を、最初こそ言い淀んだ店員の少女は——しかしすぐに、まるでショートケーキのイチゴのように真っ赤になった顔で言い切った。
(うぅぅぅぅ……)
顔全体にかぁっと熱が集まっていくのを鮮明に感じるが、お辞儀の姿勢で顔を伏せ続けることでひたすら耐える。
まるで拷問——そうだ、まさしく拷問だ。果たしてこれが辱めでなければ、一体なんだというのか。研修で習った頭のおかしい台詞を吐かされ、さらには反応すら返されないまま沈黙に耐えるなどという——この地獄が。
(うううう……やっぱり無理ですってこんなのぉ……っ!!)
……いや、というかずっと思ってたんですけど、一体なんなんですか、このめちゃくちゃな台詞。あの人から
ただただ恥ずかしいやつじゃないですか!? なんでこんな変な言葉を考えつくんですか!?なんでこんなの言わなくちゃいけないんですかぁ!?
「————」
「…………」
死にたくなるレベルの恥ずかしさを、諸悪の根源に対する悪態と愚痴によってだましだまし誤魔化すが。
それでもなお、頭を下げた状態で——よく見ればぷるぷると小刻みに震えている、店員の少女。彼女の周りを包むのは、背景で静かに鳴り続ける、悲し気なジャズの音色のみ。
ついには哀愁どころか、いよいよ虚しさまで漂い始めた周囲の空気に限界を迎え、少女がまだ赤みの残るその顔を恐る恐る上げると——そこには。
「————っ! こ、これが……! この箱に、あの限定スイーツが……!」
「……あ、あれ?」
——自分のことになど一切目もくれず、限定スイーツの入った箱に釘付けとなって、きらきらと瞳を輝かせている少女の姿があった。
……とりあえずさっきのアレは見られていなかったらしいが、これに関しては良かったと言うべきだろうか。
「いろいろと準備してくれて、ありがとうございますっ! 大事に食べますっ!!」
「うえぇ!? そ、その……」
お客さんが急にこちらの方を振り返ったと思えば、ずいっと距離を詰め、流れるように私の手のひらを両手で握りしめてきた。
暖かな感触に突如として包まれた右手の感覚と、目の前で咲く花のような笑顔に、反射的に身体がビクッと反応するが。
(……不思議と、嫌な感じは、しないですねぇ……)
——そういえばこの人がお店に飛び込んできたときも、最初は驚かされこそしたが、不快な感じはしなかった。
彼女が店にやって来たその時点から、ひそかに私を包んでいた奇妙な感覚。
それが一体なんなのか、まるで靄がかかるかのように私の頭を取り巻く疑念は——しかしその時その場においては、振り払うことができず。
「あ、あはは……どうもありがとうございますぅ。そ、それではひとまず、店頭までお送りしますねぇ」
何が何だか分からないまま——それでも、また少し顔が熱くなったのを自覚して。
照れくささを隠すようにお礼の言葉を口にしつつ、お客さんに柔らかく拘束されていた右手をさりげなく脱出させる。
そして私は、お目当ての物をゲットしてか、幸せそうな笑顔に頬を緩めるお客さんと二人、ゆっくりとカフェの出入り口の方へと歩いていった。
やがてそこまでたどり着き、お客さんが通れるように私がカフェの少し重い扉を開けると、微かにドア上の鈴が鳴る。
スイーツの箱を大事そうに抱えながら歩いていたお客さんは、私と共にお店の外へ出たところで軽く一礼する。そして「また来ますねっ!」なんて弾けるような明るい笑顔で言ってくれるものだから、ついこちらも「お、お待ちしてますねぇ」などと返してしまった。
——気づけば、自然と口角まで上がっている。
「はぁ……丁度さっきまで、ここのバイトをやめようとしてたところなんですけどねぇ……」
それなのに、まるであのお客さんの来訪を待っているかのような口ぶりで返事をしてしまった。
テンションが高めでスイーツに目がない、少し変なお客さんだったが——彼女が纏っていた、あの不思議な雰囲気に流されてしまったみたいだ。
これが、いわゆるカリスマ……みたいなものなんだろうか。 いや、むしろコミュ力とでも言うべき……?
小躍りするかのような足取りの後ろ姿が小さくなっていく様子——そこから何故か、目が離せないままに。
ほんの短い一幕でしかないやり取りの中で、あっという間に強烈な印象を残していった、不思議な少女のことをぼんやりと考えていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「————ふ~むふむふむ、私の理想にかな~り近いエキストラの集まり具合、配置、それにロケーションだ。んじ~つに良いねぇ? ではでは、今のベストなコンディションが保たれているうちに……さっそく始めるとしようか?」
——カウントダウン、五秒前!
——4、3、……、…………
————カチンッ……
ゼロイチ:スペクトル あおいぬ @aoinus2306
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ゼロイチ:スペクトルの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます