20世紀:レジーヌ・ペルヌー「復権裁判の重要性とシャルル七世が果たした役割」

 この歴史エッセイはすでに25話に達し、15〜19世紀の「歴史家たちのポジショントーク」を紹介してきた。


 なお、ここまで大いに頼ってきたガストン・ボークール著『シャルル七世の歴史(Histoire de Charles VII)』は1881年に刊行されたものだ。つまり、20世紀以降のシャルル七世評は、自力で調査しなければならない。


 つたないが、やれるだけやってみよう。





 当方の知る範囲で、シャルル七世のイメージは20〜21世紀になっても変わっていないように見える。


 実際、フェルナンド・バッサン(1922〜2008年)は、「わずかな例外を除いて、これらの資料は19世紀のものであり、20世紀初頭以降、研究者(学者)も文筆家(作家)もシャルル七世にほとんど関心を示してこなかった」と示唆している。


 残念ながら、ボークールをはじめ、これまで登場した歴史家たちが危惧していた「根拠に乏しい昔ながらの悪印象」がずっと続いている。シャルル七世の名誉回復は、いまだに道半ばである。


 20世紀の文献は「シャルル七世に関する新しい視座」を期待できない。

 ならば、時間を飛ばして議論を先に進めていいのかもしれない。


(ここでいう「先」とは現在のこと、すなわち21世紀)


 ただし、中世史とジャンヌ・ダルク研究で知られるレジーヌ・ペルヌー(1909〜1998年)だけは外せない。『ジャンヌ・ダルク復権裁判(Vie et Mort de Jeanne d'Arc, Les Temoignages du Proces de Rehabilitation)』から、シャルル七世のキャラクターがよく現れている部分を挙げてみようと思う。


 なぜなら、19世紀以前までの文献は、ペルヌーいわく「かなり不可解なことだが、歴史家たちのほとんどは復権裁判の重要性を認識してこなかった」からだ。


 20世紀の研究から、シャルル七世について語るべき内容があるとしたら、ここしかないだろう。




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 1449年12月10日、フランス国王シャルル七世は、30年にわたる外国人の支配から解放されたばかりのルーアンの町に、勝利者として入城を果たした。後に歴史家たちが「ノルマンディーの奪還」と呼ぶようになるこの重要な成果を称えて、フランス王国の至るところで祝福の鐘が打ち鳴らされた。


 勝利を手にしてこの町に入城してしばらくたつと、シャルル七世は側近の一人で、元パリ大学総代のノワイヨン司教教会参事会員のギヨーム・ブイエ師にあてて、次のような主旨の書簡を記している。


「かつてジャンヌ・ラ・ピュセルは、我らの仇敵イングランド人の手に捕らえられ、このルーアンの町に連行された。彼らはジャンヌを、自分たちが任命し、自分たちの意のままになる人々の手によって裁きにかけた。こうした審理の経緯と、彼らがジャンヌに抱いていた憎悪を考えれば当然のことながら、彼らは数々の過誤を犯し、不正にも、理性に背いて、ジャンヌをきわめて残虐な刑に処した。このゆえに、余は当該裁判の事実と審理の運用の実態を明らかにしたいと考え、貴下に対し、以上の件について慎重な調査を尽くし、報告することを、強く望み、命ずるものである。貴下がこの調査を果たした上は、遅滞なく余および余の部下たちに報告すること……。余は本書状によって貴下に本件に関する全権限を付与する……。ルーアンにて、西暦1450年2月15日……」


------(中略)------


 それゆえ、ジャンヌの歴史の中でも最後の、またもっとも重要な場面でもあったルーアンの町に入るとすぐに、フランス国王が命じたことが贖罪の儀式でも、謝罪の行動でもなく、調査であったことは重要な意味を持っている。


 もちろんシャルル七世自身の意見ははっきりしていたし、それは彼の書簡の前置きにも明瞭に記されている。


 すなわち、ジャンヌは「仇敵ども」の犠牲にされたのだ、と。


 しかしながら、自分のためにも、また世論に対しても、何よりもシャルル七世自身が望んだことは真相が明らかになること、「前記の裁判の真実を知ること」であった。ルーアンが敵の手にとどまっている限り、効果的な手は打てなかったのだ。


 国王の望みは、いままで猜疑心をこめて眺めるにすぎなかった裁判の真の内容を、天下に公開することであった。


------(中略)------


 シャルル七世はこれ以後、かつての裁判に密接に関わった7人の人物の証言という形で、ジャンヌの処刑裁判を無効とするために必要なすべての材料を手にしたことになる。


 だが、計画が果たされるにはまだ長い時間が必要であった。


 差し当たって、国王には処刑裁判の判決を公式に無効にする何の力もなかった。教会裁判が仕組んだ結果を廃棄する権限は、国王配下の裁判所にはなかった。判決を拭い去ることができるのは教会だけだった。


 それゆえ、シャルル七世の指示による1450年の調査はまったく非公式のもので、何ら実際の効果を伴うものではなかった。


 だがそれは、世論を動かし、果てしない戦争のさなかにあって、きわめて特異なこの事件に人々の注意を引きつけて、本格的な復権裁判への道を開く役割を果たした。

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 一部の歴史家たちは、この裁判について(教会主導にせよ、シャルル七世主導にせよ)巧みに仕組まれた陰謀劇、ご都合主義の喜劇だと主張する。


 しかし、「ルーアン入城から復権裁判まで7年におよぶ労力をかけて(もし、火刑時点からジャンヌの名誉回復を計画していたならなんと25年がかり!)、フランス全土を巻き込んですべての身分の人々を動員したこの裁判の経過」を、真摯かつ公正・詳細にたどる努力を惜しまないなら、大袈裟ななどという考えは思い浮かばないだろう。


 また、シャルル七世は「心もなければ能力もなく、家臣と幸運に恵まれていただけ」だとか「偉大な人間に嫉妬し、人間不信と猜疑心にまみれていた」など、陰険な暗君をイメージさせる説には、次の引用をもって反論したい。




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 確かに、シャルル七世は裁判の費用を自分で負担した。だが、そんなことは取るに足らぬことだ。


 国王は、審理が都合よく展開するように圧力をかけたのか?

 遠方からにせよ尋問を「誘導」し、判事たちに影響を及ぼしたのか?


 あえていえば、シャルル七世の行動は、イングランド王の有力な家臣でルーアンの支配者だったウォリックのような人物が、処刑裁判の判事たちにおこなった強圧的行動とはまったく比べ物にならない。


 シャルル七世の場合、むしろ効率の悪さに驚かざるを得ない。

 三ヶ月かけて検討・執行された判決を再検討させるのに、どうして6年以上の年月が必要だったのか。


 また、教会当局に関していえば、シャルル七世の意向に沿うように裁判の進行を「促した」印象はまったく残っていない。むしろ、驚くほど遅いという印象すら受ける。


------(中略)------


 また、シャルル七世が、復権裁判の調査員や判事たちに、それぞれの良心に背かぬ自由な意見の表明を許していたことも、正しい措置だったと認めてやるべきだろう。

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(※)フェルナンド・バッサンは文学、レジーヌ・ペルヌーは歴史学の研究者です。



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