19世紀後半:イポリット・ダンシン「救いがたい王」
この歴史家アンリ・マルタンの批評については、エミール・シャスルやネットマンの他にも、ジェヌーデ、アメデ・ガブール、ピエロ神父、オーギュスト・トログノンらの著書であったり、さまざまな短評があるが、ここでは省略する。
あと注目すべき著者は、以下の三人だけだ。
イポリット・ダンシン(Hippolyte Dansin)
アントワーヌ・ダレスト(Antoine Dareste)
オーギュスト・ヴァレ・ド・ヴィリヴィル(Auguste Vallet de Viriville)
*
イポリット・ダンシンは、ストラスブールの高等学校で歴史教師をしていたが、文学部の歴史学教授に任命されたカーンで早すぎる死を迎えた。
アンリ・マルタンの新しい『フランス史』第6巻が出版されたばかりの1856年10月、博士論文を執筆してソルボンヌ大学で発表。二年後に少し加筆してから出版している。
著書の中で、シャルル七世の政府がおこなったことに新たなスポットを当て、ダンシンはこの王を厳しく批判しているが、鋭い見解をいくつか引き出している。
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この王子に少しでも魅力を感じるのは愚かなことだ。
無関心、不信感、利己主義が、シャルル七世の性格の根底にあった。人生のどの段階でも、幸運に翻弄されたさまざまな状況でも、彼を支配し続けた。
シャルル七世を過小評価する根拠となっている「道徳的資質」を見いだし、彼の治世が果たしたすばらしい「政治的措置」のすべてを、シャルル七世の自発的な活動と精神性に由来すると考える動きがある。
シャルル七世の復権を、まじめに追求する人たちにとっては残念なことだが、この王子の生涯と行動に関する現代の文献は、彼の性格が「不治の病」に冒されており、救いようがないことを間違いなく示している。
彼の人生は、嘆かわしい失敗の連続にすぎない……。
当時の年代記を読めば、シャルル七世は30歳になるまで、誰かに必要とされることもなければ、どこかに帰属することもなかったことに納得がいくのではないだろうか? 成熟した男性に、過剰な純潔性(純粋性)を見出すべきなのだろうか?
この時期、シャルル七世の性格が、わずかながら力強さと活力を取り戻しているように見えることは否定できないが、残念なことに、こうしたエネルギーの輝きは、彼の道徳的本性の根幹にある救いがたい無気力によって、すぐに消えてしまった……。
当然ながら、シャルル七世の晩年に、青年期から中年期に欠けていた道徳的な活力や不屈の精神性が回復することはなかった……。
彼の人生を占めているのは、少年時代を荒廃させた疑惑と恐怖である。
恐ろしい悩みにさいなまれ、彼は民衆の目を避け、愛されていた都市さえ避けた。城の奥深くに身を隠し、彼が死んだとき、国政にその名を与えてからすでに長い年月が経っていた……。
シャルル七世は政務にほとんど関与せず、治世の後半を飾った改革の多くは、シャルル七世が知らないうちに行われた可能性が高い。
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