19世紀半ば(1)経済学者シスモンディ「最大の功績は戦争に持ち込んだあるモノ」

 ここまでの本作において、大いに参考にしているガストン・ボークール(1833〜1902年)が生きていた時代に突入する。


 まずは、自由主義の経済学者ジャン=シャルル=レオナール・ド・シスモンディから取り上げよう。

 著書『ヒストワール・デ・フランセ(Histoire des Français)』で示したこまやかな観察力と洞察力、しばしば独立した判断力を見過ごすことはできない。

 しかし、シスモンディは、真の歴史家の特権である「高尚な見解」と「重厚さ」に欠けている。それはシャルル七世の描写を見れば明らかだ。




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 父王が亡くなった時、シャルル七世は19歳9カ月だった。

 もし、精力的な人格と精神に恵まれていたら、彼は王太子の継承権を支持する勢力を率いることができただろう。


 しかし、シャルル六世と息苦しいイザボーの息子は、両親から怠惰で軟弱な性格を受け継ぎ、快楽(plaisir)を愛した。勇敢さを持ち合わせながら、戦争に興味を示さなかった。戦争は心と体が疲れるので好きではなかった。


 シャルル七世は、慈悲深い人柄だった。

 その長い治世の間、彼の愛情と思いやりが個人から大衆へ広まる機会があり、その恩恵は身近な廷臣から末端の民衆にまで及んだ。しかし、シャルル七世の優しさは、弱さと淡白さから生じていた。友情というより習慣のようなもので、一部の寵臣に言われるがまま、何一つ拒むことをしない。さらに、その寵臣を失っても一日たりとも後悔しなかった。


 パリから追放されたシャルル七世は、首都を他の都市に変えようとしなかった。貴族や市民や兵士たちの目を避けて、どこかの城、どこかの田舎に滞在し、愛人とともに身を隠して、公的な問題や王国の騒乱を忘れようとした……。


 この享楽的(plaisir)な趣味と怠惰に加え、シャルル七世は年齢を重ねるにつれて、自分の権威を非常に疎ましく思うようになり、他人と敵対することも共有することも嫌って、すべてを自分のものにしたいと願った。

 しかし、シャルル七世は自分のために勉強することはなく、したがって政府を支配する力もほとんどなかった。自分の意志を行使したのは、大臣や使用人を選ぶときだけだった。


 シャルル七世は優れた洞察力を持っていた。

 プラグリーの乱で勝利を収めると、非常に幸運なことに、自分の周囲を有能な人物だけで固めることに成功した。

 しかし、シャルル七世は、彼ら(臣下それぞれ)が理解していると思われる分野だけを許し、彼らの施策に反対はしなかったものの、彼らに対する絶え間ない不信感は変わらなかった。

 自分の権威や人格に対する陰謀を簡単に信じ、王の寵愛を受けた人間の中で、数年以上信用を保った人はいなかった……。


 シャルル七世の最大の功績は、過去の世代が模範を示さなかった「敗者に対する優しさ、礼儀正しさ、思いやり」を戦争の現場に持ち込んだことだろう。

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