17世紀(1)王室の歴史家「フランスの修復者=中興の祖」
スキピオン・デュプレクスは、ルイ十三世によってフランス史を編纂する歴史家に任命された。
デュプレクスは『フランス全史(Histoire générale de France)』の中で、前世紀の著名な歴史家エティエンヌ・パスキエの『フランスの研究(Récherches de la France)』で示されたシャルル七世批判に反論した。
(パスキエのシャルル七世批判は前回参照:https://kakuyomu.jp/works/16818093075033117831/episodes/16818093075047786915)
————————————
シャルル七世は「気が弱い」といわれるのはなぜだろうか。
王の策略によって、フランスをおびやかしていたブルゴーニュ無怖公ジャンを陥れ、さらに無怖公の息子で後継者のフィリップをイングランドから引き離した。それなのに、なぜ気が弱いといえるのか……?
善行と武力によって、ノルマンディーとギュイエンヌから外国人(イングランド人)を駆逐したのは誰か?
王国の自由を守るために、驚くべき摂理をもって国事詔書を制定したのは誰か?
これほど注意深く、用心深く、武装兵のために立派な規律を作ったのは誰か?
ヨーロッパのどの君主よりも大量の大砲と必要な道具一式を揃えたのは誰か?
再び勃興しつつあった教会分裂を終わらせるために、その権威によってサヴォワ公アメデに教皇職を放棄させたのは誰か?
その上、歴史によれば、シャルル七世は処刑裁判も参謀会議にも立ち会っていたというのに、なぜ王が成し遂げた栄光をまるまる奪って、部下の騎士たちに功績をすべて与えようとするのか?
————————————
しかし、後を継いで王室の歴史家となったフランソワ・ウード・ド・メズレは、すぐにデュプレクスの反論を忘れさせた。
メズレは『フランスの偉大な歴史(grande Histoire de France)』の中で、シャルル七世がいかにしてイングランド人を追放し、王国に秩序と繁栄を取り戻すことで「フランスに幸福を取り戻した」かを示し、教会、司法、軍隊に対する王の態度を称賛した後、次のような肖像画を描いている。
————————————
シャルル七世の武勇は、歴代国王に備わっている共通のものだ。
しばしば危険に身を投じ、王の経験と先見の明は決して裏切らなかった。
ブルゴーニュ公フィリップは、王の忠誠心を高く評価し、トルコ軍(異教徒)に対抗するつもりで自分の全領土を王に捧げようとした。
シャルル七世は冷静で、忍耐強く、自由で、立派で、愛想がよく、物静かで、民衆に対する優しさと愛情に満ちている。そして、侮辱されたことも親切にされたことも頓着せずに、すぐに忘れる。
一言で言えば、これらの美徳がすべて、自らを律することのできる強い精神に裏打ちされていれば、非常に偉大な王子だった。
しかし、シャルル七世は気が弱く、軽薄で、人を信じやすい(つまり騙されやすい)上に、自己評価が低かったため、これらの弱点につけこんで近づいてきた最初の人物の手に落ちてしまった……。墓に近づくにつれて寵臣の数は増え、ついに彼の手元には何も残らなくなり、死と隣り合わせの苦悩におちいった。
この弱点が、失脚するよりも早く、シャルル七世を淫蕩におとしめ、やがて女に鎖でつながれた。特にこの王は、自分よりも他人の方が格上だと考えていたのだから……。
そのため、仕事の合間に(女性関係を)娯楽として楽しんでいればいいものを、不誠実な習慣となり、正妻を蔑ろにし、身分を隷属させ、私生活も仕事も、かつての使用人たちも愛人の奴隷にするようになった。
————————————
しかし、メズレの最終的かつ決定的な歴史観は、上記の『フランスの偉大な歴史』よりも遥かに広く普及し、19刷以上重版されている『年代記の概要(Abrégé chronologique)』を参照するべきだろう。
長きにわたるフランス史の中で、特に偉大な17世紀において、もっとも輝かしい歴史家が、「フランスの修復者(le Restaurateur de la France)」と呼ばれるにふさわしい王を、最終的にどのように見ていたかがここに示されている。
————————————
これほど大きな困難に見舞われ、見事に克服した王子はいない。
王位をおびやかす者たちをフランスから追い出した後、シャルル七世は自分の家の中に命をおびやかす最大の危険人物を見つけた。もし別の父と別の息子がいれば、彼はもっと幸せになれたかもしれない。
シャルル七世は愛想がよく、上品で、自由で、公平だった。
民衆を慈しみ、できる限り節制し、仕える者には手厚く報い、王国の正義と治安のために細心の注意を払い、教会の改革に力を尽くし、信仰心が深く、教会に負担をかけようとしなかった。
しかし、かなり軟弱な気質の持ち主だったため、寵臣や愛人に支配されることを許しすぎた。そして晩年には、心配性、不信感、疑心暗鬼の極みに達した。
————————————
(※)本文では「フランスの修復者(le Restaurateur de la France)」としましたが、いわゆる「中興の祖」といった位置付けですね。
・le Restaurateur=修復者、復興者、再興者
もっとも知名度のある二つ名「勝利王」にちなむなら「修理王」でしょうか。語呂合わせw
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます