二 鯉、夕焼け


 風に押されて池に落ちてしまったけど、怖くない。冷たい水のはずなのに、全然寒くない。息ができる。僕は泳げないはずなのに、自由に手足を動かせる。

「こっちよ」

「うん」

 着物の女の人も、僕と同じように水中でも息ができて動けるようだ。水に黒髪を揺らして優しく笑う顔は、さっきより美人に見える。

「あの鯉よ。あなたのこと気に入ったみたい」

「友達になれるかな?」

 僕には友達がいない。おしゃべりが苦手で顔に痣があるから、誰も近寄ってこない。女の人が指差す方には、赤い鯉が泳いでいる。

「そうね、なれるわ……あ、ほら、近付いてきた」

 鯉は、僕の周りをゆらゆらと泳ぎ始めた。近くで見ると一層大きくてきれいだ。体をしならせるたびに鱗がきらめく。日が当たると少しだけ紫色に光る。僕はうっとりして、見とれてしまった。

「体、触ってもいい?」

 僕がそう言うと、僕の腕より太くて長い体の鯉が、右手あたりで泳ぎ回るのをやめた。恐る恐る側面の鱗を触ってみる。堅い手触りが、手の平に気持ちよく伝わってくる。

「ありがとう。とても立派な体だね」

 人間みたいに表情が変わるわけではないけれど、僕には鯉が喜んでいるのがわかった。友達になれたからかもしれないと思うと、うれしくて心が踊る。

「ねえ、上を見て」

 女の人が、赤い花を描いた袖をはためかせて上を指した。

「わあ、黄色の絨毯みたい。あの赤い花びらは牡丹かな」

 うっすら赤みを帯びた黄色の小さな花は、きっと風が強く吹いた時に散った連翹れんぎょうだ。水面を埋め尽くす黄色の中に真紅の花びらが混ざっていて、その周りの連翹の花がオレンジ色に見える。まるで夕焼けみたいだ。水の中で夕焼けを見ることになるなんて、思ってもみなかった。息をするのを忘れてしまいそうになる。

「なんてきれいなんだろう。ずっと見ていたいな」

「ふふっ、きれいだなんて。ありがとう」

「あ、おねえさんもすごくきれいだよ。僕の痣のこと花びらって言ってくれたの、うれしかった」

 女の人は、一旦間をおいてからもう一度「ふふっ」と笑った。鯉はまだ僕のそばを泳いでいる。きれいなおねえさん、きれいな鯉、きれいな水面。ずっと見ていたい、ずっとここにいたい。

「……僕、眠くなってきちゃった」

「そう、眠るといいわ」

「おねえさんも、友達になってくれる?」

「ええ。目が覚めても友達よ」

 目が覚めたら、僕はゼッケンを体操服に付けなければいけない。晩ご飯の準備もしないといけない。冷蔵庫に何が入っているのか、まだ確かめていない。もしかしたら買い物にも行かないといけないかもしれない。

 明日になったら、学校に行かないといけない。誰も、先生も話しかけてこない学校に。そうして学校が終わる時間になれば家に帰って、お母さんの言うことで胸が苦しくなって、おなかいっぱい食べることもできなくて――

 暖かな日差しが届く水中で、温かな会話で眠くなる。幸せってこういうことなのかな。図鑑も動画も見ることはできないけど、僕はここにいたい。

「ここに、ずっと、いたいな」

「いるといいわ。わたしはまた来年も来るから」

「来年も……? うん……」

 重いまぶたの隙間から、僕の顔の上を赤い花びらが一枚、水面へ向かってふわふわと昇っていくのが見える。

 女の人の優しい「おやすみなさい」という言葉を聞いて、僕は完全に目を閉じた。

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花落つ水面 祐里(猫部) @yukie_miumiu

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