水面に落ちる
祐里
一 牡丹、連翹
「お子さんどもりもあるし痣もあるし大変ねなんて、お母さん肩身狭かったのよ。痣は生まれつきだからしょうがないけど……」
お母さんは仕事から帰ってきてすぐ、僕に言った。
「ご、ご、ご、ごめんなさい」
僕の口の右側には、直径三センチくらいのひしゃげた丸のような赤い痣がある。近所の商店街で買い物をした時に肩身が狭かったという話をされるのは、今回で三回目だ。大きくため息をつくお母さんに謝る時は、いつも胸がきゅっと痛くなる。
「体操服にゼッケン付けるのって明後日までだっけ?
「……で、で、でで、でできるよ」
僕は、上手にしゃべること以外なら何でもできる。裁縫は学校の家庭科で教わったし、大きい掃除機も少し重いけど使える。本を見ながらなら料理だってできる。
「なら、自分で付けて。学年が変わるたびに付け直すなんて面倒なのよね」
こくりとうなずく。
「じゃあ晩ご飯の支度お願いね。お母さん病院に行かないといけないから。あ、つまみ食いも間食もしたらだめよ」
また僕がこくりとうなずくと、お母さんはばたばたと玄関を出ていった。体が弱い二歳下の弟が入院しているから。面会時間は午後七時まで。きっと七時半頃までは帰ってこない。
「はぁ……」
今日はなぜか、謝った時の胸の痛みがなかなか消えない。ゼッケンの縫い付けなんかする気になれず、かといって動画や本を見る気にもなれず、ダイニングの椅子で背中を丸める。お母さんが車のエンジンをかける音が聞こえる。エンジン音がだんだん遠くなっていく。
家にいると気が滅入ってしまう。麦茶が入ったオレンジ色の水筒と家の鍵を持って、僕は玄関を出た。
◇
十五分くらい歩いて到着した大きな公園の奥には、小さな池がある。自然にできた池で、水底からぼこぼこと水が湧き出しているのが外側からでもよくわかる。公園が大きくなる前は、池の周りの春に咲く花を見に来る人がたくさんいたらしい。今は他の場所に作られた人工の池の方に人が行くようになった。小さな噴水が五箇所あって、すぐそばのイギリス式の庭には豪華な花をつけるバラが植えられている。おしゃれなベンチもある。だから人が集まりやすいのだろう。
僕は人工の池より、奥の小さな池の方が好きだ。鬱蒼と茂った周囲の木々の葉が落ちているけれど、澄んだ水の中には鯉がすいすいと泳ぐ姿を見せてくれる。誰も来なくて一人になれるし、古い木のベンチだって僕くらい体重が軽ければ余裕で座れる。
日が当たりやすい池の端に、いくつもの大きな赤い花が咲いているのを見つける。牡丹だ。確か去年も人々から忘れられたこの場所で堂々と咲いていて、家に帰ってから図鑑で調べたのだ。そのことを思い出して、今年も僕を迎えてくれたのかな、なんて勝手なことを思う。
牡丹の他にも、
「麦茶、半分くらい残ってる。よかった」
左手を上下に動かしながらだと、上手に話すことができる。誰かに見られるとおかしな動作だと思われてしまうから、一人の時にしかできない。今日はちょっと動かすのが億劫だけど。
「……身長、また伸びてるかな……」
もうすぐ行われる身体測定のことを思い出したら憂鬱な気分になってしまった。お母さんは女の子が欲しかったと言って、僕がたくさん食べることを嫌がる。一度、まだおなかいっぱいじゃないからもっと食べたいと言ったらすごく叱られてしまった。だから仕方なく、お父さんもお母さんもあまり手を付けないレタスときゅうりとトマトのサラダを最後に全部引き受けることにしている。
だるい体を木のベンチに預けてぼうっと水面を見ていると、眠くなってきてしまった。晩ご飯の準備をしないといけないのに。できるだけ目を大きく開いて眠気を追い出そうとしても、脳に水が詰め込まれたような重い感覚が抜けない。頭を振ったらぽちゃぽちゃと音がしそうだ。
今にも落ちそうなまぶたを手でこすっていると、赤い鯉がすいっと池の縁に寄ってきた。どうしても近くで見たくなった僕はふらふらと池に吸い寄せられていく。
「きれいな鯉」
少し紫がかった赤が、僕の目を刺すように射抜く。なんて美しいのだろう。優雅にひらひらと動く
「何を見ているの?」
「……えっ?」
立ち尽くして鯉を見ていると、不意に話しかけられた。振り向いた先には花柄の着物姿の女の人が立っている。肌は白く、長く垂らした髪は真っ黒だ。すごい美人で顔立ちはきつそうに見えるけど、声はとても優しい。
「池を見るのは楽しい?」
「うん。きれいな鯉が……」
「鯉を見ていたのね」
「あの真っ赤な鯉だよ」
「そうね、きれいだわ」
「いいな、あんなにきれいで立派な体で自由に泳げて」
知らない人と話してはいけないと言われているのに、話してしまった。でも、悪い人には見えない。それに僕は今、左手を動かさなくても上手に話すことができている。誰かとおしゃべりするのがこんなに楽しいなんて。
「牡丹はどう?」
「あの赤い牡丹? すごくきれいな」
「きれいかしら」
「うん。花が散ると寂しいけど」
僕がそう言うと、女の人は赤い唇の端を持ち上げて笑った。
「あなたの顔の牡丹は散らないわね」
「顔の……、痣のこと?」
「口の横の。きれいな花びらだわ」
僕は驚いた。痣のことをきれいな花びらと言われるなんて。
「そうかな」
「花びらがいつも顔を飾ってるなんて、素敵だわ。……ああ、鯉が褒められて喜んでる」
「本当?」
赤い鯉が、ぴちゃりと尾鰭で水面を叩いた。
「ええ。確かめに行ってみる?」
「確かめに? どうやって?」
「少しだけ勇気を出せばいいの。ほら、こうやって」
女の人の言葉が終わるとざあっと一陣の風が吹き、僕の体は足から水面へと吸い込まれていった。
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