第5話
単価が下がるのはクリエイターにとっての死活問題だった。分かってはいたものの、口頭でそう告げられた一ヶ月前の朝よりも、請求書を送った月末よりも、銀行口座を見たときのほうがショックは大きい。これに加えてインボイス制度だ。なんだ。死ねってか。
「ほら、見えてきたよ」
そもそも社会保障の負担が大きすぎる上に増税に次ぐ増税だ。経済に疎い私だって、これがいかに大変な状況なのかは十分に理解している。いっそ海外へ飛んでしまおうか。
「着いたらとりあえずお風呂に入って、その後に周りをぶらぶらしてみようか」
すぐに終わると思っていた戦争だって、もはやいつ終わるのか分からない。慣れは怖い。もはや戦争状態が日常になっているし、その影響で物価が上がっているのに声を上げる余力もない。こういう時にファシズムが台頭したって教科書に書いてあったっけ。
「源泉かけ流しってのもテンション上がるよな」
源泉。源泉徴収。あなファックなりけり。
「聞いてる?」
「うん。聞いてる」
「大丈夫? 調子悪い?」
「あのさ」
「うん?」
「今日は浩一に伝えたいこと、っていうか、見てほしいものがあって」
「珍しいな」運転しながらちらと視線を寄越す。「見てほしいものって何?」
「着いたら教える」
浩一はすぐに興味を失ったようで、軽い返事をするとまた独り言を呟き始めた。もしかしたら今のこれも、さっきまでのも、独り言じゃなくて私に話しかけているのかもしれなかった。私は興味を失っていたので返事をしなかった。
流石に温泉旅館にタブレット持参で訪れたのは初めてだった。旅館の中は冗談みたいに広くて、落ち着かない。ロビーで度数低めのウェルカムドリンクを飲んでいる間に、仲居さんが荷物を部屋へ運んでくれていた。ドリンクは味がしなかった。
またも冗談みたいに広い部屋に通される。恭しく、本当に恭しく頭を下げる仲居さんのつむじをまじまじと眺める権利が宿泊費の中に含まれていると思うと、温泉旅館の良さが途端に分からなくなる。今日はここで過ごすと思うと、いよいよ監禁されていることとの違いが分からなくなった。
部屋へ着くなりさっそく温泉へ行こうとしていた浩一を無理やり呼び止める。車内で話した伝えたいことと見せたいものを見せる、と伝えて座らせた。浩一はまだか、と言いたげな表情で、あ、今言った。私は持参したタブレットを浩一に向けた。怪訝な表情の浩一がディスプレイに顔を近づける。
「これ、美和子が?」
「そう。私がこれまで描いてきた、全部」
浩一に自分の絵を見せていく。フリーとしてようやく受注したアダルト絵から近年のアーティスト向けのものまで、年表のようになぞっていく。浩一は初めこそ「ほー」と興味深そうな眼差しを向けていたものの、途中からは違いが分からなくなったのか、退屈そうにしていた。お互い様だった。
「私が先月に話したこと、覚えてる?」
「先月?」
AIの台頭で単価が下がったことについての話、と補足すると、浩一は「あぁ」と得心した。
「すごいよな。時代の変化に改めてびっくりするよ」
「じゃあ、人はこれからどう変わってしまうと思う?」
「変わる?」
たかが絵で? と聞こえたのは幻聴だ。
浩一はフン、と鼻を鳴らして続けた。
「産業革命に数度の戦争、未知のウイルスが引き起こすパンデミック。変化ならその度にしてるし、今さら変化を恐れる理由が分からないな」
「そんな話をしてるんじゃなくてさ」
「美和子は自分の食い扶持がなくなるのが怖いんだろ。これまで続けてきたことがやっと結実したのに、横からいきなり仕事を奪われて。それで躍起になってるだけだ」
「本気で言ってる?」
「本気だよ。はっきり言うと、君が思っているほど周りは君にこだわっていないよ。SNSでいいねを押す一枚の画像が君の絵かロボットの絵かなんてところに興味はないんだ」
「ロボットじゃなくてAI」
「どっちでもいいさ。それくらいどうでもいいことなんだから」
ようやく気付いた。浩一は苛ついていた。私もだった。
「いい機会なんじゃない?」浩一は目を吊り上げる。「そもそもおかしかったんだよ、いい大人が絵を描いて金を貰うなんて馬鹿げてる。モネやダリやピカソじゃあるまいし、絵を描く人間なんて一握りの天才だけで良かったんだ」
不思議なことに、今の浩一が出会ってから今までの中で一番話しやすい。そう思った。
「美和子、いい加減に現実を見ろよ」
そう、口にした。浩一の目はみるみる赤く染まり、もともと大柄だった体躯はすでに人型を保てていない。広かったはずの和室が狭く感じるほどに膨張し、真っ黒な体毛で覆われた全身はふさふさとしているけれど、その一本いっぽんは針のように鋭く、ミサイルのように殺意に満ちていて、妖しく揺れる。私は、私の中に依然として煌めき続けているいくつかの宝石を守るように胸元でぎゅっと手を握る。
浩一が笑い、影みたいな手をその身体の何処かから伸ばすのが見えた。
細かく振動する真っ黒な微粒子が寄せ集まって手の形を模していた。すべてを掴みたがる異形の手。世界を均衡へと導く、見えざる手。
浩一の指先を構成する微粒子の末端の一粒が、まさに、私に触れる、その瞬間、私の身体に異変があった。視界がいつもより数段高い。私を見下ろしていた浩一を、今は私が見下ろしている。視線を身体に向けると、浩一によく似た体毛が身体を覆っている。
決定的な違いは、色だった。私を覆うのは、春風に乗って異国へ旅立つたんぽぽの綿毛みたいに温かな白色。何にも染まらず、その一方ですべてを内包した、光の色。対する浩一は全てを混ぜ込んだ、終わりの色。終わりが始まりに触れる。浩一の微粒子で出来た手が、私に触れる。痛い、とは思わなかった。こそばゆい、とも思わなかった。ただ触れるそばから浩一の見えざる手が霧散していく。大学時代に何故か受けた量子力学の講義で眺めた、光電効果のイメージ映像によく似ていた。
浩一は焦ったのか、私の宝石に向かってさらに手を伸ばした。胸元。衣服と皮膚とあばら骨で守られた肉体の奥深くには、この光の源泉が、宝石の正体が眠っている。浩一は自分の手が霧散するのも厭わずに指をめり込ませる。衣服が溶ける。皮膚が破れる。肉が裂ける。あばら骨が圧し折れる。進み、進み、ついに私の、私たちの源泉に真っ黒な手が触れた。浩一は肩を上下させて興奮していた。真っ赤な目は更に血走り、その瞳は鮮血のプールに浮かぶ黒い月みたいに見えた、その時、浩一の姿がふっ、と消えた。
カランと軽い音が鳴る。音がした足元にはマーブル模様の小石、いや、赤が混じった黒色の宝石が転がっていた。食欲に似た衝動が身体を震わせる。躊躇する間もなく、私はその宝石を丸呑みにした。味はしなかった。得も言われぬ充足感から喉を鳴らすと、白い怪物はみるみる萎んで、私は私に帰ってきた。
浩一はだくだくと血を流して死んでなんていなくて、もちろん生きていて、大学で学んだことを仕事に生かす意義について、鼻息荒くまくし立てていた。不思議なもので、今はもうこの部屋を監獄だとは思っていなかった。私はここに缶詰めになって、今すぐ浩一を部屋から追い出して、手に入れた新たな宝石の描き味を確かめたかった。さっきまでの恐怖も臆病さも、もうどこにも見つからない。
浩一、と名前を呼ぶ。荒い返事が聞こえた。
「これまで私は、表現と名の付くすべては、嘘をついてたと思う。嘘を嘘だと言い切らずに、その代わりどこまでもリアルに、現実に忠実に作られてきた。そこに私達は魂がつながる安心感を覚えていたはずだった」
「いきなり何を言い出すんだ」
「だから、魂を持たないAIがどれだけの傑作を作ったとしても、私達は魂がつながる安心感を覚えることはない。それこそが本当の嘘だって、嘘つきな私たちは知っているから」
「はぁ?」
「作品に宿る魂なんて本当はなくて、全ては見る側の一人相撲だって証明することになる。その程度で動く心を、心だなんて呼ばない。芸術だなんて、死んでも呼ばない」
「なぁ、何の話?」
「そういうものに価値を見出すのは、そっち側で嘘をつき続けているあなたたちの仕事でしょ。こっちに入る資格なんて持っていない、あなたたちの」
「資格? 入る? 頭がおかしくなったのか?」
「そうだよ」心から同意した。「私は何でも食べた。思い出した。両親が離婚した日の涙も失恋特有の恍惚も丸焦げにしたケーキの苦さも土も青草も全部食べて生み出してきた。浩一」
「なんだよ」
「あなたもとっくに食べてる。てか、食べ終わった。さっき最後の一口が終わった。本当にロクなモノ食ってこなかったんだね、もう何も感じない」
浩一の瞳には一瞬だけ畏怖の色が浮かんだ気がした。けれど次の瞬間には背を向けていて、何かを言いながら部屋を出ていった。背中を見送ることもせず、タブレットと付属のペンを手にテーブルへとかじりつく。
アプリが起動する間すら惜しい。脳内で構図を考え、モチーフを整える。
私は夢想する。今、私の背後で、小さく丸まった綿毛みたいな怪物が、立ち上るイグサの匂いに眉尻を下げ、欠伸を零して寝転がる姿を。窓から差し込む光に照らされた白色の体毛はキラキラと虹色を反射して、夢中で机に向かう私の背中に七色を投影する。衣服と身体を透過して届くその色を確かに受け取った心臓が、脈動し、血液さえ七色に染める。その色を丁寧に混ぜて、考えて、塗っては消してまた塗って、光となって別の誰かへ届くようにと、ペンを手に取った。
七色のばけもの 淡園オリハ @awazono_oriha
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