第4話

 ひと月が経ち春花も散った。公園の桜も街路樹も緑の化粧に身を包み、五月の陽気はひときわ軽い。私はと言えば、よく分からないままネット通販で買い揃えた薄いベージュのドレスに身を包んでいる。白い手持ちのパーティバッグの小ささはもはやバッグと呼ぶことすらおこがましく、入れられるのはリップと小さな財布程度のもので、持っている必要は結婚式の当日を迎えた今日も分からないままだった。困惑したまま、レセプションで促されたとおりに歩を進め、チャペルに足を踏み入れる。

 正直、気が重かった。この重さは先週から続いている。吉田先生の結婚式に合わせてドレスとバッグを注文した日、私は我に返った。当たり前だけれど、先生の結婚式に招待されているのは私だけじゃない。式場で吉田先生を先生と呼ぶのは私だけじゃないかもしれない。世代が違うならまだいい。けど、同級生に鉢合わせるのなら話は別だ。急激にやる気が無くなっていく。

 私は高校で友達と呼べる存在を一人も作れなかった。でも、今さら参加を断るのも失礼だ。欠席の理由を説明するにしたって、理由が「友達がいないから」なんて、まかり通るわけがない。それに、私は吉田先生に会いに行くだけだ。先生を好きになり、先生が好きになったお相手を見に行くだけだ。そこに誰がいても関係ない。

 とかなんとか自分を無理やり納得させたのが一週間前のこと。健気に自分を説得してなんとか会場までたどり着いたものの、すでにその決意は揺らぎ始めている。会場の中から漏れる楽し気な声が鼓膜を揺らすたび、足元から黒い影がぞぞぞ、と立ち上ってきて身体を硬直させていく。

 とうとうその場に立ち竦んで一歩も動けなくなった。歩く、という動作には意志が必要だったことを思い出した。今の私にはそれがない。進むも戻るも歩いていることには変わりなくて、どちらも同じくらい勇気のいる行動だった。勇気。生まれてこのかた、そんなものを持っていた時分はあったかしらと暇つぶしも兼ねて記憶を漁るも見当たらない。今こうして立ち止まっているのは、必然だった。私はただ、惰性と慣性に押し流されていただけのプランクトンに過ぎない。自分の意志で尾びれを動かし、海流に逆らって泳ぎ抜く力なんて持っていない。マグロになりたい。ある意味マグロか。できれば海中の王として堂々と振る舞うほうのマグロが良かった。意志と勇気を持たない私は、誰にも押されず、誰にも引かれず、相手にされずに放っておかれればこうして立ち止まっているしかない。きっと初めから、そうだった。

 誰かに肩をポン、と叩かれた。それが合図だった。身体を覆っていた黒い影が消え、身体が自由を取り戻す。振り向くと、今日の目的がそこに立っていた。

「お久しぶりね、みわちゃん」

「先生」

 私をみわちゃんと呼ぶのは先生を置いて他にない。きっとこの先も。それでよかったし、それがよかった。時の流れを感じさせない、この人は魔女かもしれないと本気で思う。先生は変わらず先生のままで、口元の皺が濃くなった気がするのは、先生も年老いていつかは死ぬ一介の人間に過ぎない存在だと信じたい私の意識が見せた錯覚だと言ってもいい。それくらい、一生に一度の晴れ舞台の日でさえも先生は先生のままだった。悔しいほどにあの日のままだった。隣に立ち、柔和に笑う女性に軽い会釈をすると、女性は楽しくてたまらないといった様子で先生の肩を叩いた。

「ねぇ、この子が噂の?」

「うん、そうだよ」

「やっと会えた!」

 先生を好きになり、先生が好きになったお相手は、いくつかの予想を裏切って私を驚かせた。なんとなくその驚きを顔に出すのは憚られたので平然を振る舞った。ここで驚くのは、先生とお相手が着ている純白のドレスに桂川の下流のドブ水をぶちまけて茶色く染めてしまうような罪深さだと思った。こっそり独白するけれど、私が驚いたのは先生が選んだ相手が楽しいとか嬉しいとか、そういうプラスの感情の塊みたいな人だったからだ。どうして、と尋ねようとして、万が一にもドブ水をぶちまけることがないよう慎重に、ゆっくりと唇を開く。

「こちらが、先生のお相手の方ですか」

「そう。驚いたでしょ」

「驚きました」努めて冷静に伝える。「どういうところに惹かれたんですか?」お相手の女性に向きなおると、目をぱちくりさせて硬直していた。

「みわちゃん、こういう子なの」

 先生は苦笑した。よく分からなかったけれど私も笑っておいた。お相手も笑った。あくびみたいだった。

「えっと、私が先に好きになってね、猛アプローチの末にようやく口説き落としたんだ」

「小田原城みたいな人ですもんね」

「おだわら……?」

「すみません、難攻不落って意味で」

「あ、あー! なるほど、ごめんね。なんか疎くて」

「みわちゃん、こういう子なの」

 微妙な空気が流れてから、やっと自分が緊張していることに気付く。こういうことは何度もあって、その数だけ仲良くなれたかもしれない人を失ってきたんだと思い出した。どれだけ注意してもドブ水をぶちまけることになりそうで、これ以上ここにいるのはマズイと思って、曖昧に笑ってその場を去る。つもりだった。

「みわちゃん、ちょっと話せる?」

「えと、はい」

 答えてから思い出す。先生は言葉を捨てているから、やっぱり放るだけで返事を聞く気はないようで、すでに横を向いていた。このぶっきらぼうな優しさが、どうしようもなく懐かしい。

「ごめん、先に控室に行っててくれる?」

「はーい」

 じゃね、と小さく手を振りながら、お相手の方は私の横をすり抜けて控室へと消えていった。ウエディングドレスの裾の白が見えなくなったのを確認すると、急に肩の力が抜ける。私の姿を見て先生は苦笑した。

「ちょっと歩こう。久しぶりの再会がこんな廊下じゃ息が詰まるよ」

「でも」

 式が、ともごもご口走ったときには先生は既に歩き出していた。その背を追って、私も歩く。廊下を抜けると広々とした中庭に出る。円形の庭の真ん中には立派なオリーブの木が植わっていて、ちょうどオリーブ目掛けて差し込む光が、この庭の主を示しているようだった。それを取り囲むようにゴシック様式の木製チェアが二脚一組でぱらぱらと点在していて、先生は一番近くにあったチェアを指差して「あそこに座ろうか」と放った。並んで座ると、視界の真ん中を陣取るオリーブの存在感がいっそう際立った。

「よく来てくれたね」

 表情は変えずに、でも心から嬉しそうな声音で先生が言った。

「本当は、帰ろうと思ってたんです」

 チャペルにいるからか、私は唐突に懺悔をした。返事になっていないけれど、一方で返事としてこの上ないほどぴったりと噛み合っている気もした。

「だろうね。私は先生だから、生徒は平等に扱わなくちゃいけない」

「それじゃ教え子全員に招待状を?」

 まさか、と先生は笑った。

「美術部の、それも交流のあった子だけね」

「交流関係広いですね」先生にしては、とは言わなかった。

「そうでもないでしょ」

「いいや、多いです。多いってことにしましょうよ。私が開いたら家族しか来ないんですから」

「あら」先生は口角を上げた。「私は呼んでくれないの?」

「……呼びます」

 満足げにほほ笑む先生からふい、と顔を背ける。オリーブと目が合い、正しい視線の置き場所が見つからずに俯いた。だから、目を合わせたままでは聞けなかったことを聞いてみることにした。

「先生はどうして、結婚式を?」

 数瞬の間が空いた。先生がどんな表情をしているのか分からなくて、私の身体がまた硬直する。数羽の雀が囀りながら羽ばたく。遠くに聞こえる出席者たちのざわめきは放課後の騒々しさによく似ている。

 次に聞こえたのは、懺悔に応答する司祭のような穏やかな声だった。

「みわちゃんが筆を持ったのと同じ。理由なんてありません」

「筆を持ったのと同じ?」

「好きに身体を動かしているだけのことでしょ。理由はないよ」

 顔を上げると、先生はこちらを向いていなかった。ただ無心にオリーブを見つめて、いや、見つめてはいない。その奥の平和をただ見ていた。

「絵を描くのは、楽しい?」

 はい、と言うべきか迷って、浩一が、クライアントの言葉が、がっしりとその言葉を掴んで離さないのを感じながら、曖昧な首肯を返した。それでも、言葉を捨てた先生だから、きっと言葉では追い付けない感情に追いつけるのだった。

「人が祈ることに理由なんてない。あるとすれば、神に成り損なった無力で半端な生物だから。それくらいしかやることがないってだけで、要するに全部暇つぶしじゃない」

「はい」浩一が、クライアントが、手を離した。

「生きてんだったら好きにやんな」

 そう言い放って、先生は立ち上がってすたすたと歩いて行った。今度の言葉はしっかり受け取ろうと、私はそれからしばらくオリーブとにらめっこを続けた。

 結局、式には出席しなかった。

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