第3話

 夜、浩一と会う時間になっても、納品完了のメールが頭から離れない。喉に突き刺さった魚の小骨みたいにつっかえて、取れなくて、味覚を奪っていく。機械的にパスタを巻いては口に運ぶ。どれだけ噛みしめても味がしない。今食べているアサリのボンゴレもいずれ怪物の胃袋に取り込まれていくらでも再現可能になって、砂抜きも、フライパンを振るって乳化させる必要もなくなって、私たちの食事が単なる作業だったとバレてしまう日が来るのかもしれない。

 そんなことをぼんやり考えていると、向かいに座る浩一が笑いかけた。

「今日はえらくご機嫌斜めだね」

「斜めどころか直角だよ」

 浩一にはすでに今日起きたことをかいつまんで伝えていたけれど、さして気に留めている様子もない。私の不満と不安を闘牛士のように軽くいなすと、来月に行く予定だった箱根への旅行は決行するときっぱり言い張った。もともとお金を出すと言っていた浩一を説得して割り勘にしたのは私だった。浩一は旅行費用を出したがっていた。

 浩一は心ここにあらずといった様子の私を見かねて話を戻す。本当はこんな話に興味はないんだろうな、と少しだけ申し訳なく思った。同時に、興味が無いなら話さないでくれとも。

「俺にはよくわからない。けど、便利になるのはいいことだろう? それこそ、美和子みたいな一部の才能ある人にしかできなかったことができるようになって、これまでも社会は発展してきたんだし」

 これまでの社会の発展と、私が感じた気持ち悪さにどんな関係があるのかは判然としなかったけれど、きっと浩一は正しい。私には怪物に見えたあいつも、浩一から見れば人類の英知の結晶として燦然と輝いていて、それが世界の共通認識だ。水際でいくら異を唱えても世論は変わらない。安全圏で冷静に物事を考えられた人間の声が優先されるのは世の常だし、熊の駆除に反対する動物愛護団体の拠点はいつだって東北の山中じゃなくて、都会のビルの中だ。

 浩一に反論することは、社会に、世界の総意に反旗を翻すことのように思えて、開いた口は言葉を発する代わりに大人しくパスタを咀嚼する作業に移った。その姿に満足したのか、浩一は目配せでウェイターを呼ぶと長ったらしい呪文みたいなワインの名前を口にした。普段お酒を飲まない浩一が今日は軽く酔っぱらっていた。私は味のしないパスタを食べながら、あいつもこんな気持ちで食べているのかな、と怪物を思った。食事を終え、浩一がカードを財布にしまうのを見届けると、彼は一歩半後ろに立つ私を振り返って、わざわざ店員に聞こえる声量で「箱根の旅費も自分が出すからね」と念を押した。

「よく頑張ったね」

 黙って頷く私の頭を優しく撫でる浩一の顔が揺れて、一瞬だけ怪物の歯が見えた気がした。


 湯船に張った、四十度のお湯がすっかり冷え切ってしまうほどの長風呂を済ませて浴室を後にする。冷めていくお湯に熱を奪われたせいか、身体が妙にすっきりとしていた。腰を痛めないようにと数年前に始めたストレッチ。両足を床に開いて上半身を倒していくと、ある角度に差し掛かったあたりから股関節がびりびりと心地よい痛みを伝えた。全身を伸ばしながら、セットで行っている日課のSNS巡回をこなしていると、『#AI術師』なるタグが目に留まった。

『自分でやってみれば分かるけど、出力したい絵から逆算して言語に落とすのって高度な技術なんだわ。それに加えて適切なプロンプトを選んで、適切な順番で配置しなくちゃならない。一つでも間違ったら狙い通りのポーズを描かせることもできないんだから、AI術師の苦労も知らずに批判するのはやめてくれ』

 もともと荒れやすいイラストレーター界隈。同業のイラストレーター経由で回ってきた、絶賛炎上中の投稿に付いているタグだった。引っ付いている返信を眺め、初めて見た言葉を調べ、ようやく文脈を理解していく。

 絵師になぞらえてか、どうやらAIを使ってイラストを生成する人をAI術師と呼ぶらしい。ほら、どこからかほら貝の音色が聞こえてきたような気がする。どうやら今日はネット上にも関ヶ原が広がっている。

 私が今日まさに踏んだ手順を突き詰めていけば、それは創作の域であり、絵師とは異なるクリエイター『AI術師』である、というのが主張だった。何か到底認めがたいものを目の当たりにしている気がして、忘れていた吐き気を催した。

 今に始まったことじゃない。もともと目には入っていた。毎日のようにSNSにアップされるAIイラストを見るたび、無意識的に別の何かだと切り分けてシャットアウトしていただけで、それは確かに、この世界にしれっと存在していた。

 ダイナマイトや原子力爆弾が生まれたときも、多くの人はその存在をぼんやりと、しかし確実に把握していたはずだ。今の私のように、タイムラインを眺める気楽さで。だって生活にはもっと煩雑な、公共料金の支払いだとか、今月使える食費の計算だとか、余ったお金で買いたい服を探したりだとか、そういう差し迫った事情が満ちている。遠い世界の誰かの悲鳴に割く余裕なんてどこにもなかっただろう。それに、地表を焼き、魚卵を潰すように容易く生命を奪うための発明も、その文脈で行使されるまでは偉大な妄想の域を出ない。それがひとたび行使され、効果が実証されれば、ついに妄想は偉大な人類の進化として歴史に刻まれる。人は歴史になったものと、生活に混ざってきたものしか分からないように出来ている。

 この時、私は、見えない壁を確かに食い破り、生活に侵食してきた異物の存在をついに認めることになった。それと同時に、自分が身を置いている場所を冷静に見つめる必要に迫られた。芸術、商業、経済、社会。その延長線上でペンを握ることは、幼く、甘美な、自己中心的な世界に浸り続ける贅沢を許さない。否応なしに競争に巻き込まれ、負ければ呑まれる。どれだけ世の理から離れた場所に居るつもりでも、握るものが銃でなくとも、戦いは避けられない。そして私は負けた。私の世界にぶち込まれた、AIという新種の核ミサイルに。

 しばらくネットの海を漂ってみると、私と同じような意見を書き込んでいる絵描きをたくさん見つけた。一見すれば正しいことを言っているようにも見えるのだけれど、透けて見える嘘が妙にいやらしい。それっぽい理由を書き連ねて倫理的な問題に発展させようとしているものの、その実、皆一様に恐れているだけだということはすぐに分かった。私だって絵描きの端くれだ。自分の努力が水泡に帰さないことと、明日も変わらず競争に勝てる環境を継続したいという望みはあるし、その考えを否定するつもりもない。だからといって加勢する気にもなれなかったのは、なぜだろう。分からなかった。絵描き達は最後の頼みの綱である著作権を握りしめ、劣勢ながらも声を上げている。結果は火を見るよりも明らかだ。世界では便利なもの、安いもの、早いものが勝つ。いずれ、そう遠くないうちにこの声もかき消されてしまうんだろう。

 残さなくちゃいけない。そう思った。

 自分よりももっと大きな何かに急き立てられる。神託とか使命とか、そういう類のものだった。ネット上のデモクラシーに参加するよりも、世界の行く末を案じるよりも、何よりも、描きたいものがあった。居ても立っても居られずにペンを手に取り液タブに向かった。無心で線を引く。消す。引く。日常生活では感じない、思考と運動のラグに気付く。それが次第に消えていく。呼吸さえ忘れ、溶け、私は一つの色に染まる。絵を構成する、無数の色の一つとなる。あっちを塗ったら次はこっち、こっちを描いたら次はあっち、戻ってここにも描き足して、全体を見て、バランスを取る。私は白いキャンバスの中で縦横無尽に旅をした。

 別の存在が乗り移って、この身体を依り代に使って、その存在が見た景色を再現しているだけ。この状態は、そう説明する他ない。描かれる絵と、絵になる前の何かを繋ぐ橋渡し役だ。橋であることにただ徹するだけで、気付けば描かれるべきだった絵が完成している。

 私がペンを置いたのと、身体の主導権が私に戻ってきたのはほとんど同時だった。小鳥のさえずりで意識が覚醒する。夜は更けるどころか明けていた。早朝特有の白みがかった薄い青空がぼんやり広がる。ふっと気を抜いた瞬間、唐突に訪れた重力が私の身体を襲う。力なく、背中を椅子に預けた。指先や足先が死体のように冷たい。身体は限界を訴えている。なのに頭は冴えていた。試しにベッドに潜り込んだ瞬間、私の意識はずるずると暗闇へ引きずられて、どこまでも落ちていった。微睡みのなかで、夢を見た。明晰夢というやつだった。人生も所詮は脳内物質が見せる夢に過ぎないけれどその中でもとびきりの夢だった。胡蝶の鱗粉には毒があった。それはときに劣化ウランで、デパスで、反出生主義で、空飛ぶスパゲティモンスター教で、自転車の補助輪の形で、私の前に現れて私を燃やし、犯し、殺し、嘲り、愛した。遅効性で、じわりじわりと、人の、人としての活動を阻害していく。葉脈みたいに張り巡らされた模様を見せつけて、毒の蝶がふわりふわりと美しく羽ばたく。きらきら舞った金色の小さな粒が、柔らかな月光を一身に浴びて、湖のほとりで寛ぐ私たちに降り注ぐ。頭上を胡蝶が羽ばたくたび、一つまた一つと増える光の粒を、私たちは気付かないうちに吸い込んでしまう。飲み込んでしまう。毒粉に、冒されてしまう。反応と思考の間にあったはずの自我はすでに錆びて、軋んだ音を立てながら朽ちている最中だとも気付かずに。

 私はただひとり、湖の畔で立ち尽くして叫ぶ。

 ひとがひとに、草に、野良犬に、木星に、ピアノに、筆跡を示す色付きの線を絵と呼ばずに、ついに何かを想うことさえなくなったとしたら、そのとき地球の青さは何も変わらないけれど、それがどうしようもなく、たまらなく悲しいと感じてしまうのは、私が私であり、人としてこの世に生まれたからなのです。と。


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