第2話

 今、まさに手に持っている一枚の便箋から立ち上る懐かしい記憶を大切に保管するつもりで、一緒に封入されていた返信用封筒の口に糊を付けた。世俗と離れて暮らす人間は冠婚葬祭とは縁がない。そんな私にもとうとう届いた結婚式の招待状。私に届いたこともそうだけれど、何より差出人に驚いた。

 それにしても、巷で目にする招待状に比べてどうにも様子がおかしかった気がする。白一色、装飾無し。あまりにシンプルなデザイン。仕舞いには出席・欠席の表記の横に付け加えられた『都合がつかない場合はご無理なさらないでください』の一言。招待状と呼ぶにはあまりに型破りだと思った。それでも、私にとって大切な手紙であることに変わりはない。なにしろ十数年の時を超えて、吉田先生の声を思い起こせたのだから。

 あの先生を好きになるなんて、いったいどんな人なのか気になるし、先生がどんな人を伴侶に選んだのかはもっと気になった。それはこの手紙からは分からない。ご無理をなさってでも行かなければという使命感に駆られた。迷わず出席に丸をして、装飾代わりにと簡単なお祝いの言葉やイラストも添えておいた。後はポストに出すだけだ。

 忘れないうちにと昨夜仕上げたばかりの画像データをクライアントに送り、鍵と財布、封筒だけ持って外に出る。日が昇る前の街は新鮮な空気で満ちていて、日中に比べればいくらか息がしやすかった。

 コンビニに着くとすぐにポストに封筒を入れて、レジで煙草を買って、吸いながら家に帰った。駅へ向かうのだろう、スーツ姿の男性とすれ違う度に、一つ、また一つと見えない距離が開いていく。

 あの春から数えて十二度目の春。二十八歳の私はイラストレーターになっていた。

 独立したのは六年前。大学を卒業してすぐのことだった。ありがちな理由で就活を諦めた私は、おめおめと地元へ逃げ帰り、これからの人生を考えるというこれまたありがちな言い訳を携えて散歩をしていた。それなりに神妙な顔だけ作って、その実何も考えていない、モラトリアムのロスタイムを謳歌していた。気の向くままに歩き続けていると、見慣れた景色が目に飛び込んできた。高校時代の通学路だった。導かれるように通学路を進むと、当たり前のように学校がそびえていて、私が居なくても学校は学校なんだなぁと深いんだか深くないんだかよく分からない感慨に耽っていた、その時。一本の桜の木が目に留まった。

 ハッとした。

 入学式の日に桜を描いてから今の今まで長い夢を見ていたような、それで、いきなり冷水を浴びせられて、ぱっちり目を覚ましたような、確かな衝撃を感じた。

 その日、私は絵で食べていくと決めた。イラストレーターになると決めた。決めるまでは良かった。なにせ絵のことは多少知っていても、社会のことなんて知らなかった。そう気付いたのは開業届に屋号を記載する必要があると知ったときだ。必要に駆られて慌てて作ったペンネームは我ながら適当で、好きな花と食べ物を組み合わせただけの安直なものだった。

 右も左も分からず検索窓に『イラスト 仕事』と打ち込んでは片っ端から仕事に応募し続け、そして落ち続けた。それでも桜が散る頃には『イラスト 案件』と打ち込んでは片っ端からポートフォリオを送れる程度には成長していた。

 それから紆余曲折を経て、なんとかかんとか食い繋ぎ、都内で賃貸マンションを借りられる程度には信用を積み、社会を知り、念願だったエンタメ分野の仕事も舞い込んでくるようになっていた。そこそこ有名なアーティストのPVや小説の表紙なんかも手掛けて、やっと好きなジャンルで名前が売れてきた。手応えを感じていた。

 その矢先、だった。

 煙草の匂いを引き連れて玄関のドアをくぐるとポケットの中でスマホが震えた。クライアントからチャットが届いている。こんな早朝に?

『本日どこかでお時間いただけますか?』

 修正の依頼だろうか。考えるだけで気が重い。納品後の身体の軽さはどこへやら、鷹匠の元に戻る鷹よろしく舞い戻ってきた憂鬱が無遠慮に肩に止まるせいで、思わずうなだれる。

 面倒なのですぐに済ませてしまいたい。そして少しばかり嫌味っぽく反抗したい。そう思って『十分後はどうですか』と提案すると、二つ返事で了承された。私には嫌味のセンスがないらしい。少しでも気を紛らわせようと一本吸い、もみ消したタイミングでビデオ通話が始まった。

「おはようございます二宮さん」

『佐倉先生、早くからすみませんね』

 二宮は私とそう変わらない年代の、溌剌とした男だった。ゲーム業界ということも関係しているのかもしれないけれど、黒い長髪を後ろで結び、少し長めの顎ひげと口ひげに黒縁の伊達眼鏡。典型的と言えば典型的な風貌で、かえって個性が薄かった。

『さっきはありがとうございました。内容確認しましたが、おおむねオッケーです』

「おおむね、ですか」

 こんな時間に打ち合わせを入れることなんて滅多にない。大幅かつ急ピッチの修正依頼かと身構えていたから、思わずつんのめる。心の中で、だけど。でも、それじゃあ、いったい。

「どんなご用でした?」

『それが、先生に折り入ってご相談がありまして』

「相談というのは?」

『大変心苦しいのですが、単価のご相談を』

 そこからのことは、やはり覚えていない。一つ言えるのは、心苦しいなんてレベルじゃない金額の単価交渉だった。なんとか「考えます」とだけ返事をし、早々に通話から抜けると一も二もなく煙草をくわえた。肺いっぱいに毒ガスを送り込んで、吐き出す。言葉にするとどうしようもないもやもやが、ふわりと大気を舞い、溶けあい、混ざり、霧散していく。

 こんな時こそ勇んでペンに向かっていったはずの右手はとうにかつての勢いを失い、ペンより煙草を持つ時間のほうが長いほどだ。

 ひげに包まれた二宮の口から飛び出したさっきの言葉が、胸の奥に刺さって抜けない。

『このご時世ですから、ウチもAIイラストを取り入れていこうって方針になりまして。クリエイターの皆さんにお伝えしているんですけど、今後の依頼については変わらずお願いできればと思うのですが、単価は、やはり下がってしまうと思います』

 何がエーアイだ。知るか。単価が下がってしまうんじゃなく、下げると決めたんだろうが。お前らが。だというのに「やむなし」みたいな顔を作れるのはどういうことだ。むしろどうにでもなれ。

 貪るように、自堕落に、自棄煙草をキメた。他にやることが思いつかなかった。

 買ったばかりの煙草も残すところあと半分となったところでようやく頭が回り始め、スマホのチャットアプリを開いた。真っ先に頭に浮かんだのは今後の生活について。

 もともと裕福な暮らしはしていないけれど、先を見据えて余分な支出は減らしておくに限る。事業を続けるコツは、稼ぐことじゃなく使わないこと。我ながらしょっぱすぎる経営哲学をもごもご口走りながら、文面を考える。

『来月の旅行は難しいかも』

 時刻は正午を少し回ったあたり。今頃はお昼休憩だろうか、と想像した瞬間に既読マークが付いた。デキる男は即レスが基本、みたいな本を読んでいるだけはある。

『なんかあった?』

 浩一らしい簡素な一文だ。きっとデキる男は一文で済ませる、とも書かれている。

 さっきの出来事をなるべく悲観的に見えないよう気を付けながら打ち込んでいく。やっぱり文章は苦手だ。たった数分の出来事をまとめるのに十分以上の時間を要し、ふぅと息を吐く間もなく浩一は即座に返事を寄越した。

『大変そうだし今夜会って話そう』

 会って話すことの効力を過大評価しているのか、そういう文化圏が普通なのか、やはり浩一は浩一だった。一年前、酔った勢いで登録したマッチングアプリで出会った彼はまさに私とは正反対の存在で、つむじからつま先まで社会性で出来ているような人だった。

 無意味と分かっていながら今夜も予定がないことをカレンダーアプリで確認し、同意を示すスタンプを送ってスマホを置いたとき、ふっと心の奥が熱くなって、次の瞬間には凍えるほど冷たくなった。

 冷静になったせいで、どうしようもなく、こわかった。

 世界がどれだけ変わったって変わるもんかと奮い立つ私と、これまで自分がしていたことはなんだったんだと落胆する私。両者真っ二つに割れ、両軍がぶつかり合うここはまさに天王山。私分け目の戦いの火蓋が切って落とされる。いや、天下分け目なら関ヶ原か。となれば、なおさら勝敗を付けねばなるまい。

 デスク上のマウスを滑らせてスリープモードのPCを叩き起こすと、さっきとは別のクライアントからの依頼内容を確認する。既にイメージ画像をもとにしたラフ画は送付済み。あとは線画と塗りを進めるだけ。

 英語のサイトにアクセスするのは生まれて初めてだった。黒い背景に浮かび上がる白いテキストは、大きなクジラの口内にぬらぬらと光る歯のように得体の知れない不気味さを放っている。

 脳内にあるイメージをなんとか言語化し、プロンプトと呼ばれる生成AIへの指示用語をググり、それぞれを組み合わせていく。幸いなことにPCのスペックは足りていたからか、特に待つことなく、AIは一分程度で一枚目の画像を吐く。それを見て、トイレに駆け込み、吐く。胃液の中から微かに青草と土の匂いが香った気がした。

 胃袋が痙攣する感覚を味わいながら、私は混乱していた。ただ一つ分かったことは、私は既にクジラの胃袋の中に呑まれ消化されゆくエサでしかないのだという、覆しようのない一つの真実。望むと望まざるとにかかわらず、私はいつの間にか生まれていた怪物に食べられていたし、この胃袋から抜け出す方法はもうどこにもないように思えた。関ヶ原で散らす火花も太陽フレアの前では火の粉同然。この大いなる変革は暴力的な便利さだ。そこで生まれたさざ波が増幅して、ついには私の生活まで押し流してしまった。デスクに戻ると人が数十年を捧げ、少なからず命を燃やしてようやく生み出せるようなクオリティのイラストを、怪物がゲップの気軽さで吐き出し続けていた。私を、人を嘲笑うようにデータを吐き続ける怪物は実に愉しそうで、無感情にも見えて、無機質な生成行為はどこまでもおぞましかった。

 普段なら死んでも望まない修正依頼をこの時ばかりは心から望んだ。

 怪物が吐き出したイラストの中から最もイメージに近いものを選び、少しだけ手直ししてクライアントに送信したのは、私なりの宣戦布告だった。著作権がらみの紛争やイメージダウンを恐れてAIの利用を認めていないクライアントも多い。この案件が、まさにそれだった。明らかな違反行為を犯した私を「何をバカなことをやっているんだ」と叱ってほしかった。それが贅沢な願いなら、リテイクが欲しい。「とても受け取れるレベルじゃない」と一蹴してほしかった。

 だから私はいよいよ落胆してしまう。

『こちらで納品とさせていただきます』

 新品だったはずの煙草の中身が即座に空になったのは言うまでもない。

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