七色のばけもの

淡園オリハ

第1話

 私が言葉を捨てたのは高校一年生の春の日だった。元来、人と話すのが苦手だった私が美術部に入ることになったのは偶然か、はたまた必然か。とにかく、震える手で入部届を顧問の吉田先生に手渡した日に、私は言葉を捨てた。

 入学式を終えた私は、後に知ることになる大学のサークル勧誘より遥かに薄い陣形の新入部員勧誘を得意の愛想笑いでやり過ごし、校庭に鎮座する、神木みたいに大きな桜の木から舞い落ちる桜花を眺めていた。まだ私の身体の凹凸を覚えていない制服がいやに窮屈だった。そしてそれは間違いだったと、三年後、同じ場所で知る。欺瞞に満ちた真っ白なブラウスも、忌まわしい紺色のブレザーもスカートも、とうに身体の凹凸を覚えているはずの卒業式の日に至るまで依然として窮屈なままだった。

 そんなことになるとはつゆ知らず、高校生活に微かな期待すら抱いていた当時の私は、きっと素朴だった。素朴な眼差しはそれからしばらくの間、柔らかな木漏れ日に照らされる桜吹雪に魅了され続けた。桜は絵を描くのと同じくらい好きだった。なんとかこの光景の美しさの、輪郭だけでもいいから目に焼き付けたいと桜を凝視する。

 すぐにでも家に帰って、この景色を忘れる前に真っ白なキャンバスに向かいたい。そう思って振り返った瞬間から、記憶は定かじゃない。

 次の記憶は、うす暗い校舎裏に切り替わる。さっきまで新品そのものだった制服のところどころに四月の青草がくっつき、腹部にはスタンプみたいにくっきりとローファー型の土が付着している。私をここに呼び出して、突き飛ばし、お腹に前蹴りを入れたのは同じ中学校の女子生徒だった。私は尻餅をついた体勢のまま、去っていく何人かの背中を見送る。思えばこの時、私は、既に言葉を捨て去る準備をほとんど完了していた。後はきっかけだけが必要だった。

 あるいは、彼女たちのほうが先に言葉を捨てていた。突き飛ばされたときと、蹴られたとき、その前に校舎裏へ呼び出されたときの合計三回は「どうして」と尋ねたけれど、返事として有効な言葉は一つとして受け取れなかった。その日から私は彼女たちから色々な嫌がらせを受けるのだけれど、不思議なことにその詳細についても覚えていない。記憶は気が利くやつなのだ。

 次の記憶は、美術室の引き戸を開ける瞬間に飛ぶ。前衛的なファッションとはギリギリ呼べない、青草と土を纏ってもはや事件性だけが匂い立っている私に奇異の目を向けるでもなく、慌てて事情を聞くでもなく、若い女の先生は平然と「入部希望?」と尋ねた。だから私は入部を決めた。

 場合によっては出す予定のなかった入部届をブレザーのポケットから取り出して手渡すと、先生は手近な椅子を指して掛けるように勧めた。

「今年もゼロかと思ってたから」ひらひらと入部届をはためかせる。「びっくりしちゃった」と冗談っぽく笑った。

「今年もゼロ?」

「去年は誰も入部しなかったから。三年生も受験前だからほとんど顔を出さないだろうし、割と自由に使っていいですよ」

 上品な顔立ちの人だ、と思った。そのくせ砕けた物言いをするものだから、さぞ生徒からの人望も厚いんだろう。遠い世界の他人として、ほどほどに上手くやろう、と無意識的に考えていたから、流石に私は驚いた。

 先生は「顧問の吉田です」と吐き捨てるように自己紹介を済ませると、いそいそとイーゼルを引っ張り出して「描いてく?」とぶっきらぼうな声を私に放った。放った、と言う他ないのは、返事を受け取る気がなさそうだったからで、きっと彼女も遠い昔に言葉を捨てていた。特有の匂いがした。

 それからまた少しばかり記憶が飛ぶ。今回は都合が悪いからでも、どうでもいいからでもない。夢中だったから、当時の私も今の私も、描いている最中のことを覚えていなかった。

 私に春の匂いを纏わせる青草も湿った土の感触も遠い昔のことみたいだった。今後三年は身体を縛る憂鬱な紺色さえ、霞んでいた。ただ、ただ、鮮やかな桃色がPサイズのキャンバス一面に浮かんでいた。それからしばらくの間は茫然として、大きな桜の絵を吉田先生と並んで眺めて、ようやくひと気のなくなった廊下に出た頃にはもう日が暮れかけていた。

「入学おめでとう」

 思い出したように先生が告げる。

「ありがとうございます」

 そう返したときには、先生は既に背を向けていた。

 カツ、カツと鳴る吉田先生の足音が校舎にこだまするのを聞きながら、私は家路についた。後にも先にも、あの日以上に言葉なんて要らないと思った日はなかったと、十二年経った今でも思う。


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