中立主義のススメ

六野みさお

第1話 中立主義のススメ

 大谷翔平の通訳が違法賭博を行なっていたことが話題になっている。その通訳は大谷の金を使って賭博をしていたらしい。今のところ、すべての罪は通訳にあり、大谷は何も知らない被害者にすぎなかったようである。しかし、私はこの一連のニュースを見て、日本人の中立性の低さについて考えざるを得なかった。


 一連の報道が始まった当初、一般に公開されている情報には『大谷が違法賭博を行なっている』という疑いが混じっていた。もちろん、この疑いは保身を図った通訳の謀略だったわけだが、この時点ですら日本のメディア(特にテレビを中心とするマスメディア)は、大谷が罪に問われる可能性についてあまり言及しなかった。それどころか、それよりも先に大谷の野球生活への影響について心配するような報道が行われていたのである。


 私は大谷を非難する気はないし、彼は素晴らしい野球選手であると思っている。大谷本人に法的措置が取られることがないであろうことは理解できるし、もちろん自分の関係者、右腕ともいえる人物の悪事に気づけなかったことには一定の責任があるが、これは会社で不祥事を犯した部下のために上司が被る不利益のようなものである。しかし、その点を差し置いたとしても、国内の大谷に関する報道は、あまりに擁護的ではなかっただろうか。


 そもそも大谷が野球選手として生活しているアメリカでは、日本よりかなり大谷について批判的な論調が多かった。大谷本人に違法賭博の可能性があるときは大谷が訴追される可能性を真剣に話していたし、大谷の会見に対しても、記者の質問時間を設けなかったことへの批判がみられた。あくまで大谷を一人の優秀な野球選手として扱い、それに対するスキャンダルとして報道していたのである。


 なぜこのような報道を日本人はしないのかといえば、これは大谷個人が『神格化』されているかのようになっていることが原因である。お昼のワイドショーは大谷の試合だけで1時間を消費するし、大谷の活躍に天皇や首相までもが言及し、日本の誇りであると言う。『暗いニュースが多い中、大谷は日本人の希望である』とまで言われる。まるで大谷は敵国から国を救った英雄か、もしくは魔王を倒した勇者のようである。大谷はただ棒でボールを飛ばすゲームをしているだけなのに。


 日本人が大谷にシンパシーを感じ、大谷の活躍を自分のことのように喜ぶのは、大谷が日本人だからである。大谷はすごい→大谷は日本人だ→私も日本人だ→私もすごい、という論法で、大谷に自分自身を重ね合わせて自己肯定感を上げようとしているだけなのである。我々は、本来中立的であるべきなニュースですら、この日本人中心の考え方に毒されていることを知るべきである。


 大谷の通訳と大谷の関係は、政治の世界の裏金問題に置き換えて考えると、裏金疑惑をかけられた政治家とその秘書に似ている。政治家たちは裏金問題は秘書のせいであると主張しているが、誰もそれを信じない。ましてや、裏金問題のせいで政治家の調子が悪くなることを心配する人などいない。確かに政治家としての人気は落ちるのだから調子が悪いのだろうが、議会での弁舌が鈍ることに同情する人はいない。


 もちろんこの政治家たちは客観的に見ても大谷よりはるかに疑惑が大きいのだが、しかしながら、この政治家たちが日本人だけでなかったらどうだろう。たとえば、日本人と韓国人と北朝鮮人と中国人と台湾人で『東洋議会』を行っているとする。それぞれの国の政治家に裏金問題が持ち上がった。このとき、どの国の政治家も同じようなことをやっていた場合、自然と日本人が一番悪くないように感じそうになってしまうのではないだろうか。これがナショナリズムの真実である。


 我々は気がつかないうちに、自然と自分と同じ国の人、自分と同じ都道府県や市区町村の人、もしくは自分と同じ職業の人など、自分に少しでも関係する人に親近感を感じ、応援したくなる。これは人間であれば当然の心の動きである。しかし、このような感情は、論理的に物事を判断する力を奪う危険がある。私はオリンピックが開催される今年であるからこそ、中立主義を勧めたいと思う。


 中立主義は私の造語で、ここでの定義は『特定の人や集団を応援することをやめ、勝負を一人の傍観者として見る考え方』とする。わかりやすく言えば、聞いたこともない海外のサッカーチームの試合を見ているようなものである。二つのチームはあなたが全く知らないもので、どちらかに日本選手が所属しているというわけでもない。この場合だと、あなたは純粋にサッカーを観戦し、選手たちの技術の高さに感心することができるし、試合が終われば自然な気持ちで勝者を讃え、敗者に心を寄せられるのである。


 前回のサッカーワールドカップの決勝戦、アルゼンチン対フランスは、まさしく中立主義の実践に最適だったといえる。一般的な日本人は、どちらの国も応援する理由がない。しかし、これは多くの人が同意することであると思うが、一進一退の試合展開、スター選手たちの凄技、延長にPKと最後まで手に汗握る試合であった。激闘の果てにアルゼンチンが優勝を決めたとき、思わずガッツポーズをしたり、涙を流したりした人もいるだろう。このように、どちらかの側を応援していないとしても、スポーツで感動することはできるのだ。


 確かに我々は日本人であり、私自身も日本選手を応援したくなる気持ちはわかる。私もテレビで大谷がホームランを打ったニュースが流れると、つい目を向けてしまう。では、なぜ私があえて中立主義を勧めるのかというと、それは過度な応援が対立を生み、正常な判断力を失わせるからである。


 ご存知の方も多いかと思うが、サッカーでは国際試合に負けた国が勝った国に軍事侵攻した例まである。スポーツを見るとき、人間は自然と自分の応援していない側が悪であるという錯覚を抱いてしまう。特に国際試合の場合は、知らず知らずのうちに相手の国を下に見る感情が芽生える。サッカーや野球で過度に韓国下げが展開されたり、卓球で隙あらば中国下げのニュースが書かれるのはその最たる例である。もちろんこれは向こうから日本に向かっても然りである。しかし、こういう争いを西洋人が見れば、実は単なるマウントの取り合いにすぎないのである。


 よく『スポーツは平和な戦争である』という主張を見かける。それが事実であることは否定しないが、別の言い方をすれば、スポーツは戦争の下位互換にすぎない。選ばれた人間が訓練を行い、ある集団の期待を背負って敵と戦うという点では、スポーツは戦争と同じである。


 とはいえ、スポーツは人間の身体の上手な使い方を研究するという面では素晴らしいものである。言い換えれば、スポーツは科学の研究と似ているともいえる。それと同時に、一部のスポーツに見られる論理的に考えて相手を出し抜くという点では、スポーツは将棋やチェスなどのボードゲーム、もしくは単なる人同士の議論にも通ずるところがある。


 私はスポーツそのものを否定するわけではない。あくまで過度にスポーツ選手に入れ込むことに警鐘を鳴らしているだけである。さらにマクロに言えば、人を推すこと自体の危険性の提唱ということだ。自分の推すアイドルにスキャンダルが発覚したのにそのアイドルを擁護するような行為は、推しによって正常な判断力が失われているといえる。


 人を好きになり、応援すること自体は良いことである。しかし、その対象を推すあまり周りが見えなくなってしまうと、人を傷つけてしまったり、社会的な信頼を失ったりする場合がある。私たちはなるべくマクロな視点で客観的に物事を見るべきなのだ。今のところ宇宙人の存在は確認されていないから、地球に住む人間全体、もしくは人間以外の生物も含めた地球の生命体全体のために、自分の役割を考えるべきである。


 中立主義は意外と楽しいものである。難しいことは必要ない。スポーツ観戦なら、いっぱしの評論家のような気持ちで(別に専門的知識が少なくてもいいから)場面を観察し、そして自分の応援しているのと反対側の選手、またはそちらを応援する人たちが何を考えているのかを常に意識することが重要である。相手を尊重する気持ちということだ。これを実践すれば、たとえ自分の推しが負けたとしても、素直に勝った側を祝福することができるのではないだろうか。その境地に達すれば、あなたの生活に新しい扉が開かれるはずだ。

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