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――日陰璃里――
吸血鬼一族の末裔と思われる少女。いま現在、人を襲ったという記録は残されてはいないが、吸血鬼一族の力は人類にとって脅威となるため重要監視対象。日の光を苦手とせず、ニンニクや十字架も効果対象外。その力の全容は明らかになっていないが、影を操ることができるとの報告もある。驚くべき再生能力を有し、多少の外傷であればたちまち回復してしまう。新薬の開発に期待できるため生きたままの捕獲を目標とする。
「……へぇ、よくできてるな」
この番組はしっかりとディティールにこだわるタイプの番組のようだ。参加者が見るかどうかも分からないこんなファイルまで作成するとは手が込んでいるなと感心する。
とりあえずの課題はふたりの救出か。見取り図を確認し、ふたりが捕らえられている場所はひとつ下のフロアであることが理解できた。
しかし、これがもし謎解きゲームなのであれば、ミッションをクリアするためのヒントやアイテムがどこかに隠されているはずだ。
おれは部屋をもう一度見渡してみると、壁際にキーボックスを発見した。
「これか」
そのなかのひとつ「C-12」と記載された鍵を見つけポケットに入れる。
おれはゆっくりとドアを開け、誰もいないことを確認してから外に出て階段を探す。いまだにけたたましい警報音は鳴り響いている。ほどなく、明らかに非常口と分かるマークが描かれたドアを見つけ開けてみると、予想通り上下階に繋がる階段がそこにあった。
ひとつ下のフロアに降り、記憶した見取り図の通りに進むと「C-12」の部屋と思わしき場所の前に、ふたりの警備の人間が立っているのが見えた。さながら兵隊のようにそれぞれ小銃を小脇に抱えて、緊張感のある表情をしている。現代の日本でこれほどあからさまに小銃を持てるはずはないので、そこだけは世界観の作りこみが甘いなと感じる。
おれは見つからないように廊下の壁に隠れて様子を伺う。
「さて、どうしたものか」
そう思った瞬間、建物が揺れるほどの轟音が鳴り響いた。衝撃により天井からぱらぱらと埃が舞っている。
「お、おい。おれたちも加勢に行ったほうがいいんじゃないか」
「そ、そうだな」
警備のふたりがそんな会話をしたかと思うと、慌てた様子でおれのほうへ走ってくる。とっさに壁にへばりつきやり過ごすと、ふたりはおれに気付かずに非常口から出て行った。
「なんだ、いまのは?」
あまりにもタイミングが良すぎる気もするが、おそらくこれはシナリオ通りなのだろう。しかし警備担当の俳優たちの棒演技はどうにかならなかったのか。
ともかく、扉の前には誰もいなくなった。おれはポケットから鍵を取り出し扉のロックを解除した。
中に入ると、部屋の中央に猛獣が入れられるような檻があり、その中に璃里と雪、ふたりの姿があった。
「道間くん!」
璃里がおれに気付き目を見開く。
「助けにきてくれたのね!」
なにを白々しい。きみたちを助けるのがこの謎解きゲームの目的だろう。と口にしかけたが、ここまで来てゲームをぶち壊すような発言はやめておいた。乗りかかった船だ。こうなったら最後まで付き合ってやろうと思っていた。
「しかし」
ふたりが入っている檻にはあきらかに鍵がかかっていて、まわりを見渡してみてもそれらしきものはどこにもなかった。
「雪ちゃんが苦しそうなの。あいつらの銃弾がお腹に当たったみたいで」
見ると、たしかに雪はお腹のあたりを押さえながら苦しそうに息を継いでいる。額には脂汗がにじんでおり、腹部からは赤い血(おそらく血ノリだろう)がしたたり落ちていた。苦悶の表情を浮かべるその迫真の演技にはさすがのおれも賞賛を禁じ得ない。
「どうすればいい?」
檻をゆすってはみたものの、当然ながらびくともしなかった。
「道間くん、血をちょうだい」
璃里がまっすぐおれの目を見て言ってくる。
「血?」
「そう。人間の血を飲めば、わたしの力が覚醒してここを脱出できる」
「しかも、愛する人の血ならさらに効果は絶大、でしょ?」
璃里の言葉に雪が続ける。苦しそうではあるが、どこか楽しげな表情を見せた。
「ゆ、雪ちゃん! いまはそれ言わなくていいの!」
顔を真っ赤にした璃里が大きな声を出す。
なんて、――なんて親切な設定紹介なんだろうとおれは思った。
おそらくこれは視聴者にストーリーを分かりやすく伝えるための小芝居だ。彼女たちのいう通りにすることが次のステージへ進むための鍵なのだろう。
「でも、血なんてどうやって渡せば」
「この隙間から腕を入れてくれれば、あとはわたしが」
どこか恥ずかしそうに璃里が言う。
「わかった」
おれは袖をまくり、檻の隙間から腕を差し入れる。
璃里は緊張した面持ちでおれの腕を掴むと、一瞬だけおれと目を合わせてから、一気に齧りついた。
「いっだっ!」
あまりの痛みに思わず腕を引いてしまう。痛みの発生源に目を向けると、手の甲に犬に噛まれたような痕ができており、わずかに血もにじんでいた。
「ほ、本当に傷をつけるやつがいるかよ!」
不満を璃里にぶつけようと檻の中に目を向けると、璃里の身体から白い蒸気のようなものが漏れ出していた。
「ふふふ。この姿になるのは何年ぶりかしら」
璃里の身体から溢れた白いもやが一気に広がり、その風圧に思わず目をつぶってしまう。
「お、おい。なにが起きて」
次の瞬間、すさまじい衝撃音とともにいともたやすく内側から檻が破壊された。
一瞬驚いたが、状況を冷静に分析すれば分かることだ。
おそらくあの檻は一部分が発泡スチロールか何かで出来ていたのだろう。その場所を知っている璃里が蒸気のエフェクトとともに内側からその発泡スチロールでできた部分を壊しただけだ。
なるほど。演出を組み合わせることでこんな臨場感が産まれるのか。
おれは目の前の演出に少し感動すら覚えていた。
――しかし。
「き、きみはいったいだれ?」
檻の内側から出てきた少女は、おれの知ってる日陰璃里ではなかった。具体的に言えば痩せていた。いや、出るところは出ているので美しいプロポーションをしていると言ったほうが正しいのかもしれない。ともかく、先ほどまでおれと話していたぽっちゃりとした璃里とは似ても似つかぬ姿だった。
「だれって。璃里だけど?」
そんなはずがあるか。確かに顔に面影は残っているが、人はそんな簡単に太ったり痩せたりはしない。
そうか。あの煙のエフェクトは人の入れ替えを隠す効果もあったのか。
「わかった、君は……双子なんだな?」
おれの問いかけに璃里(と名乗る女)は首をひねった。ああ、そうか。世界観を壊すわけにはいかないもんな。
おれは仕方なく乗ってやることにした。
「ともかく、檻の問題は解決できた。あとはここから脱出するだけだな」
璃里とおれで雪の両脇を抱え、部屋を後にする。
しかし、廊下に出た瞬間、どこからともなく武装した集団が現れおれたちに立ち塞がった。みな統一された制服に身を包んでいて、さながらどこかの軍隊のようだ。
「動くな!」
全員の銃口がこちらを向く。
「ヤバくない?」
雪が脂汗を流しながらつぶやく。
「大丈夫」
璃里は自信満々に言うと一歩、おれたちの前へ進む。
「本当に撃つぞ!」
相手の引き金にかかった指に力がこもるのが分かった。
「ここは影が多いから」
璃里がおれと雪に視線だけ送りわずかに微笑むと、ゆっくりと右手を前に伸ばした。
「深淵の王、グスタフ・ジークムント・リリーアールが命ずる。闇の眷属よ、仇なす者を排除せよ」
璃里が謎の口上を述べると、辺りの影が意思を持つかのように蠢き始めた。それはやがてコウモリのかたちとなり、すごい速さで武装した集団に襲いかかった。
――これは。
「プロジェクションマッピングというやつか!」
プログラミングされた映像を壁などに投射してあたかも現実のものかのように見せる技術のことだ。
最近では都庁の壁面に施されたそれが話題にもなっていた。
この時になってようやくおれは気付いた。――この企画にはとても予算がかけられていることに。
プロジェクションマッピングなんて有名テーマパークのショーで使われるような大規模なものしかイメージがなかったが、こんな狭い空間で璃里の動きに合わせるように映像を当てるだなんてとても技術のいることだろう。
しかしどうしてそんな予算のかかった企画の参加者に素人の自分が選ばれたのか、それだけがどうにも分からなかった。やはりプロの俳優などを使ってしまうとリアクションの細部に違和感が生じてしまうからなのだろうか。
武装集団は四方から襲いかかってくる影に悲鳴を上げる。影に触れるたびにまるで本当に物理的な攻撃を受けているかのようにその身体を右へ左へと跳ねさせる。恐怖感を煽る見事な演技だ。
「ち、ちくしょう」
影にやられ、地面に倒れた男の一人が最後の力を振り絞るように拳銃を璃里に向ける。
「やらせないわよ」
おれに身体を預けている雪が最後の力を振り絞るように手を突き出すと、その手のひらから白い煙のようなものが吹き出した。それはただの煙ではなく、凍てつくような冷たさ持った細かい氷の結晶のように思えた。
その白煙に触れたとたん、銃を持った男の手がその白に浸食されるかのごとく凍り出した。
「すごい」
おれは思わず驚きの声を上げる。
これはなんだ、あれか、ドライアイスか。ドライアイスの噴射機を手に隠していた感じか。うん、きっとそうだ。それにしてもリアリティにこだわった演出だと感心する。
気が付くと、おれたちの行く手を阻んでいた武装集団は一人残らず床に倒れていた。
「ちょっと力を使いすぎたみたい」
そう呟いた璃里を見てみると、どことなく先ほどまで纏っていた覇気が失せ、身体つきも少し萎んでいるように見えた。
「とりあえず、出口へ急ごう」
早くこんなものクリアして家に帰らないと。あとどれだけのミッションが残されているかも分からないため、とにかく先に進むほかはない。
階段を上り、一階と思わしきフロアのドアまでたどり着くが、ドアの向こうでは明らかに激しい銃撃の音が鳴り響いている。
おれは雪の身体を璃里に預け、悟られないように慎重にドアの隙間から様子をうかがってみる。
まるでハリウッド映画かと思う程の火花と発砲音がそこかしこから聞こえてくる。しかしその中に混じって人の悲鳴のようなものもいくつか聞こえる。
発砲音、悲鳴、発砲音、悲鳴。どんなモンスターと戦っているのだろうかと背筋が少し寒くなってくる。そのうち、一人の男の身体がおれの目の前を横切った。いや、吹き飛んでいったというほうが正しいだろうか。
カツ、カツ、とハイヒールが床を打つ音が近づいてくる。無意識に身体がこわばってしまう。女の影らしきものがおれのそばで停止するのが分かった。姿はまだはっきりと見えない。おれがそっとドアを閉めようとしたその時だった。すさまじい勢いでドアが開き、衝撃で後ろにいた璃里たちとともに後ろへ吹き飛ばされた。
「あら、あなたたちここにいたの?」
場に似つかわしくない高いトーンで目の前の女が言う。胸元が大きく開いた黒いドレスに高めのハイヒール。腰まで届きそうな金色の髪は丁寧に手入れされているのか薄暗いなかでも輝きを放っていた。ただ、頭頂部に乗せられている黒いとんがり帽子だけはセンスを疑わざるをえない。
「ちょっとマリア! 危ないじゃない!」
璃里がマリアと呼ばれた女に向かって叫ぶ。その物言いは気心の知れた相手に対するそれだということが一瞬で理解できた。
「なによ、助けにきてあげたのに」
マリアが不服そうな顔を見せたあと、おれの存在に気付きすぐさま警戒するようにその手のひらをこちらに向けてきた。
「待ってマリア! この人はクラスメイトの道間くん、わたしたちを助けてくれたの」
「クラスメイト?」
マリアが訝しげな表情を見せる。しかし、すぐに合点がいったといわんばかりに手をぽんと叩いた。
「ああ、彼が例の」
――例の? 今回のドッキリのターゲットとでも言いたいのか。
「分かったわ。とりあえず早くここから脱出しましょう」
マリアが先導するように非常階段の踊り場から一階のフロアへと移動する。
まわりを見渡してみると、そこかしこに建物の残骸が散らばり、その周辺に何人もの武装した男たちが倒れていた。
「止まれ!」
突如聞こえた声に驚き立ち止まる。おれたちの左前方に銃を構えた男がいた。その手はえわずかに震えていて、引き金に添えられた指が今にも弾丸を発射しそうになっている。
「ほんと、ゴキブリみたいに湧いてくるわね」
マリアがため息を吐きながらその手を男に向ける。あたりに突風が吹いたかと思うと、男の身体がふわりと浮き上がり、そのまま天井に衝突した。
ぐえ、と短い声を発し、地面に叩きつけられた男はそのまま動かなくなった。
「いまのは?」
「簡単な魔法のひとつよ」
ふふふ、とマリアが笑う。
魔法――なるほど、そういう設定か。この世界観に慣れたおれにとってはもはや驚きはなかった。
おそらくワイヤーアクションの一種なのだろう。しかし、浮かび上がるタイミングやその動きなどにはリアリティがあり、やはりプロのスタントマンの技術は凄いんだなと思った。
それにしても、吸血鬼、雪女に魔法使いか。あまりに設定を詰め込みすぎてストーリーが破綻しないものなのかと余計な心配をしてしまいそうになる。
負傷した雪を支えながら、いよいよ出口と思わしき場所が見えてきたその時だった。
「ふっふっふ。逃がしませんよ」
声が聞こえたほうに目を向けると、白衣を着た四十代ほどの長身の男とスーツ姿のふたりの男女、男のほうはさきほどおれを尋問していた筋肉ムキムキのやつだ。女はショートカットで、少し背は低めだが細身の体型でパンツスーツが良く似合っている。
「あなたたちが黒幕ね」
マリアが三人に鋭い視線を送る。
「わたしたちが黒幕? ははは、馬鹿なことをおっしゃいますね。うちのトップはこんな現場には出てこないですよ」
少し小馬鹿にするように頭に手を当てて笑う白衣の男。両脇にいる男女はまったく隙を見せずにこちらを睨んでいる。
「しかし、派手にやってくれましたねぇ。いくらうちの組織に資金があろうと、今回の損害は高く付きますよぉ。……せめて、ファンタジアのひとりやふたり捕らえないとねぇ」
白衣の男が片方の口角だけを上げて言うやいなや、マリアがその手を突き出し三人に向けて魔法――というていの何かを放つ動きをみせた。しかし、何も起こらない。
「どうして」
マリアも納得がいかない顔で自身の手を見つめる。
「あなたの【魔法】のタネはもう分析済みなんですよぉ。魔法とはつまり振動、あなたがた魔法使いと呼ばれる種族は様々な振動を使って物理的事象を起こすんでしょう? ですが」
白衣の男がポケットから何かを取り出す。
「こちら。対魔法装置、とでも言いましょうか。あなたがたが引き起こす振動をすぐさま感知し、対なる周波数の振動を発生させることで魔法を無効化させることができます。つまり、いまのあなたはただのか弱い女性です」
「そ、そんな」
「わたしたちがなんのためにあなたがたを追い、捕らえ、研究していると思っているんですかぁ。人類の発展のためですよ。ファンタジアと名付けたあなたがた特異な能力を解析し、活用することで人類はさらなる発展を遂げ、平和な世界を構築するためですよぉ。そして」
白衣の男が手を上げ合図を出すと、両脇にいた男女がうなずき、懐から注射器のようなものを取り出した。
「これが研究の成果のひとつです」
白衣の男が言い終わると同時に、男と女は手に持った注射器を自身の首筋に押し当てた。
「うぉぉぉぉ」
「あぁぁぁぁ」
叫び声とともに男女の身体が変容していく。
男の身体は一回り大きくなり、上半身のスーツが弾け飛ぶ。筋肉が盛り上がり、それと同時に銀色の体毛が上半身を覆った。顔面は口元が不自然に伸び、その口内の牙が鋭く尖っていく。これはまるで。
「狼男?」
おれは目の前の男に起こった変化に驚きを隠せない。
最近の特殊メイクはここまで進化しているのか。その身体に生えた毛は本物としか思えないクオリティで、口元から垂れるよだれはどうやって加工しているのだろう。
女のほうは体長はそのままに髪だけが腰ほどまで急激に伸び、スーツが破れたかと思うとその背中からコウモリを思わせるような羽が生えていた。そんなことより、スーツが破れたせいで彼女の上半身は丸裸になっている。つまり、おっぱいが。――これは大丈夫なのだろうか。その、コンプライアンス的に。
ここでおれはひとつの結論に達した。
これは、――海外資本の番組だ。
最近はサブスク形式の動画サービスが人気だという話を耳にしたことがある。そしてそれぞれの動画サービスでオリジナルのコンテンツを作って競い合っているのだと。
日本のテレビ局などより潤沢な資金を使って作るオリジナルドラマやアニメなどはそのクオリティのおかげでたびたびネットを賑わしている。
だとしたらここまでのことにも説明がつく。マリアが魔法(という設定)を使って施設を好き勝手壊していたが、海外資本なのであればハリウッド映画さながらの映像を作り出すことも可能なのだろう。
しかしここで改めて思う。
――なんでそんなものの参加者におれが選ばれたのだ、と。
「ふふふ。なんだか気分がアガってきたわぁ」
おれが余計なことを考えていると、女がその背の羽をはばたかせて空中に浮かび上がった。なるほど、またしてもワイヤーアクションか。
「そこの可愛い坊や、こっちを見なさい」
おれを指さして言ってくるので顔を向けるが、いかんせんおっぱい丸出しの女がそこにいるので目のやり場に困ってしまう。
が、女の目を見たとたんおれの身体が金縛りにあったかのように動かなくなった。そして不思議なことにとある感情が高まっていることに気付いた。――性欲だ。
「ほら、目の前におあつらえ向きの女がいるわよ」
その声に導かれるように視線を動かす。目の前にはそう、マリアがいる。おれは自分の中に沸き上がる感情に支配されていた。
「道間くん! だめ!」
後ろで璃里の声が聞こえたような気がするが、この衝動には抗えない。おれは無意識のうちにマリアを押し倒し、後ろからそのふくよかな胸を揉みしだいた。
「ちょっと! やめなさい!」
「ち、違うんです! これはきっと、そう! 催眠術です!」
おれ自身は催眠術のたぐいは信じていなかったが、この状況はそうとしか説明がつかなかった。
どこかのタイミングで催眠術にかけられたに違いない。くそう。ここまでやるのか、この番組は。
「サキュバスの
女が楽しそうに笑う。
おれがマリアを押し倒し、その胸を揉みしだいている横を狼男がゆっくりと歩いて行く。その重量が伝わるほど、どしんどしんと大きな足音が響いている。向かう先には璃里と雪がいた。
「に、逃げろ!」
おれが声を上げるが璃里は腰が抜けたのかその場でへたり込んでいる。
「まずは雪女のほうから確保しなさい。怪我をしているから慎重にお願いしますよぉ」
白衣の男の指示に従うように、狼男が鋭い爪が生えたその手を璃里たちに伸ばす。
「だめ!」
雪を守るように立ち塞がった璃里に狼男が腕を振る。すさまじい力を持ったそれは璃里の身体をいともたやすく吹き飛ばした。璃里は近くの柱に打ち付けられ、悲鳴を上げ倒れ込む。
狼男はそのまま意識朦朧の雪の身体を掴み軽々と持ち上げた。お腹の傷が刺激されたのか、雪が苦しそうに声を漏らす。
「痛いですよねぇ。仕方のないことです。【痛みなくして成長なし】それが我が組織の理念ですから」
白衣の男が芝居じみた言い方で肩をすくめる。見ているだけで腹が立つ、まさに名演だ。きっと業界歴の長い名バイプレーヤーなのだろう。――そんなことより。
「このままじゃまずいぞ」
「胸を揉みながら言うセリフか!」
マリアが怒気を込めておれに言う。そんなこと言われてもおれは催眠術にかかって仕方なく胸を揉んでいるだけなのだ。文句ならどこかにいるプロデューサーに言ってくれ。
おれはマリアの胸を揉みながらも思考を巡らす。一見ピンチに思えるが、これが謎解きゲームなのであれば必ずどこかにヒントがあるはずだ。この窮地を脱するためのヒントが。
そのとき、おれの目の端に光るものが映った。むき身のまま落ちているそれは警備の人間が装備していたであろうサバイバルナイフだ。
――痛みなくして成長なし。
おれの脳内に、なぜか先ほどの白衣の男のセリフが甦ってきた。
「――そういうことか」
おれの推理が正しければあれがヒントだったのだ。しかし、それをするためにはまさしく「痛み」に耐えないといけない。だがこの状況を打開するため、もっというとこのゲームをクリアするためには必要なことなのだろう。
おれは覚悟を決めた。
「マリア、あそこにあるナイフを取れるか?」
おれはマリアのおっぱいを揉みながら言う。
「なによ突然。あっ、ん。あんなものであいつらに勝とうっていうの? ああん」
ときおりあえぎ声を漏らしながらマリアが言ってくる。
「やってみる価値はある。おれはこの通り手が離せないから、あんたが取るしかないんだ」
「そう言うならおっぱいを揉むのを、んっ、やめればいいじゃない、あっ」
「無理だ。無理なんだ」
自分の思考とは裏腹におれはマリアの胸を揉むのをやめられない。催眠術のせいだ。くそぅ、催眠術め。
「わかったわ。ああん。手を伸ばしてみるわね。はぁはぁ」
マリアの息も絶え絶えになっている。まさかおれがこんなにテクニシャンだったなんて、試す機会がなかったから気付かなかったぜ。ともかく、マリアが手を伸ばしてナイフを掴み取る。
「よし! それでおれの手を突き刺してくれ」
「あなた、なにを言ってるの? あっ、だめっ」
マリアが身体をくねらせ小さく震えている。残された時間はあとわずかだろう。
「いいから早く!」
「わかったわ。あっ、ああん。恨みっこなしよ」
なまめかしい吐息と共に、覚悟を決めたマリアがナイフを振り上げた。おれも目を閉じ歯を食いしばる。――が。
「いっでぇぇぇぇぇぇ!!」
あまりの痛みにその場でのたうち回る。痛みのおかげか催眠術も解けたようで身体は自然とマリアから離れていたが、右手を見るとその手のひらから甲にかけて、ぱっくりと傷が開き血が噴き出している。
「だれがここまでやれと!」
「知らないわよ! あなたがやれって言ったんでしょ!」
目の前の光景に白衣の男も残りのふたりもあっけにとられたかのようにフリーズしていた。
「なにをしているんだい?」
白衣の男が奇妙なものを見るような目をおれに向けてくる。
「あんたが言ったヒントの通りだよ。――痛みなくして成長なし、ってな」
いうやいなや、おれは後方の柱へ向かって駆け出す。
「その男を止めなさい!」
おれの思惑に気付いたのか、白衣の男が狼男へ指示を出す。狼男も確保していた雪をその場に下ろしおれのほうへと向かってくる。しかしそれよりも早くおれのほうが目的地へと辿り着いた。
「璃里!」
おれは血の噴き出す手を璃里へと突き出す。倒れていた璃里の目がそれを捕らえたかと思うと、大きな口を開けてその手をくわえ込んだ。
ジュルジュル、ペロペロ、チャプチャプ、チュパチュパ。
璃里がおれの身体から溢れ出る血を吸い上げる。血を吸うほどに璃里は恍惚の表情へと変わっていく。
ジュルジュル、じゅぽじゅぽ、レロレロ、チュパチュパ、じゅっぽんじゅっぽん、ジュルルルル、べろべろべろ。
――いや、あの。……長くない?
そう思っていた背後から狼男が腕を振り上げ、その鋭い爪を振り下ろそうとしていた。狼男の爪が風を切る音が聞こえてくる。
おれは思わず目をつぶった。
――だめか。
覚悟を決めたその時だった。おれの身体が柔らかいものに包まれた。
「
頭上から声が聞こえた気がして目線を上げると、そこに璃里の顔があった。覚醒した、例の美人のほうの璃里の顔だ。おれはどうやら璃里の胸元に押しつけられているらしい。
璃里は振り下ろされた狼男の腕をたやすく掴み、その動きを止めている。
狼男も抵抗しようと身をよじるが、璃里の力のほうが強いのかその腕は微動だにしていない。
璃里が軽く突き放すようにその腕を押すと、狼男は弾丸のように吹き飛び、すさまじい音と共に壁に衝突するとその場で倒れ込んだ。
「ま、まさかそんな。これが吸血鬼の力だとでもいうのですか!」
白衣の男が驚きの声を上げる。
璃里はおれを抱えたままゆっくりと立ち上がると、白衣の男に視線を向ける。
「わたし、すごく怒ってるからね」
ひっ、と短い悲鳴を上げた白衣の男は、すぐさまコウモリ女に指示を出す。
「な、なにをしてる! 早くどうにかしなさい!」
口をあんぐりと開けてあっけにとられていた女も我に返ったかのようにこちらに向かって飛んでくる。
「あなたもわたしの魅了にかかりなさい!」
女の目が怪しく光ったかと思うと、再びおれのなかの欲情が高まってくる、――が。
「跪きなさい」
璃里が低い声で一言そう発すると、「ひっ」という短い悲鳴と共にすぐさま女の顔色が変わり、地面に着地すると同時に土下座の格好になった。
女の身体が小刻みに震えている。
「サキュバスごときがわたしに刃向かおうと?」
土下座している女の頭上から璃里が問いかけると、女は必死に首を横に振った。恐怖のあまり、女は失禁している。それはあきらかに生物としての上下関係が示されたことが分かるものだった。
「ど、どういうことだ」
白衣の男も目の前の状況に腰を抜かしている。
「闇の王たるこのわたしに、こんなチンピラふたりで勝てるとでも思っていたの?」
「ち、チンピラって。お、狼男とサキュバスだぞ! ファンタジアの能力を付与した精鋭のエージェントたちだぞ!」
白衣の男が口の端を泡立てながら必死に反論する。
「たった一種の能力を得て、それで満足したつもり?」
「なに!」
「わたしたち一族が、なぜ血を飲むのか分かっていないようね」
璃里はまるで教師が出来の悪い生徒を諭すかのような口調で続ける。
「わたしたちは血を取り込むことでその生物の能力を体内に宿すのよ。人の生殖であればたった二つの遺伝子情報しか伝えられない。だけどわたしたちは取り込めば取り込んだ分だけ進化するの。さっきあなたたちがやってた注射器みたいなことを、わたしたちは千何百年。ずーっと続けてきたといえば理解できるかしら?」
璃里の言葉に白衣の男が目を見開く。
「い、いや、理解の範疇を越えている。そんなことが可能であればすでにこの世はお前たちに支配されているはずだ! そんな一族がなぜ絶滅しかけているというのだ!」
男の言葉に、璃里の表情が暗くなる。
「そんな種族だからこそ、かもしれないわね」
なにか悲しい過去があったのだろうか。うつむいた璃里の瞳は、暗い光を宿していた。
「ともかく、わたしたちの力を人間に悪用されることはごめんだわ」
そう言うと璃里は抱きしめていたおれの身体から手を離し、白衣の男へ近づいていく。
「ま、待ってくれ!」
男が命乞いをするかのように手を突き出す。
「ほんとは好きな人の血しか飲みたくないんだけど」
そう言うと璃里は大きな口を開けて白衣の男へ覆い被さった。
「うぎゃぁぁぁぁぁぁ!」
断末魔の悲鳴と共に男の身体がどんどんと痩せ細っていく。あっという間に男は空気の抜けた風船のようにぺらぺらになって動かなくなった。
「やっぱりまっずい」
そう言うと璃里はその場でぺっと唾を吐いた。
「……終わったのか?」
どこかから撮影隊の姿が現れることを期待しておれは周囲を見渡す。しかしそんな気配は一向にしない。
「とりあえず、帰りましょうか」
マリアが身体を起こして言う。
璃里は倒れ込む雪に近づくとその身体を抱え込み、そのままだっこするように持ち上げた。
「帰るって、どうやって?」
おれの問いかけに、マリアは指で上だけをさして笑った。
******
「どーなってんだ、これ」
おれはいまマリアと璃里に挟まれるような格好で空を飛んでいた。
マリアが乗ってきたというホウキに跨がって。雪は落ちないように璃里の身体にロープで縛り付けられている。
眼下には町の明かりが広がっていた。
「ヘリコプターでもないってことは、――そうか、ドローンか!」
頭上を見てもヘリコプターなどで吊っているような様子は見えない。ということはいまおれが乗っているものは単独で空を飛んでいることになる。つまりはドローンだ。ドローンの技術もどんどん上がり、人が乗れるものも開発されているという。これはその最新型なのだろう。冷たい夜の風が頬に当たり気持ちが良い。
「しかし、日陰璃里。きみがタレント活動をしていたとは驚きだよ」
後ろを振り向きながら言うが、璃里はなんのことかと首を傾げる。なるほど、まだ撮影は終わっていないのだと理解しておれはそれ以上追求するのをやめた。いまのシーンはカットされることだろう。
璃里の部屋に戻ったおれたちは、ようやくそこで一息ついた。
雪の怪我もマリアの魔法の薬がどうとかでかなり良くなったようだ。おれも手の傷に付けてもらったが、なるほど、瞬時に傷が塞がった。まったく、最新の特殊メイクはすごいな。
襲撃されたときに割られたはずの部屋の窓ガラスも、どういうわけかキレイに直っていた。
「これで終わりならおれは帰るよ」
とても長い一日だった。帰ってすぐさまベッドに倒れ込みたい気分だ。
「あ、道間くん」
帰ろうとしたおれを璃里が呼び止める。
「なに?」
「あの、今日のあったこと。わたしたちのこと、ほんとに秘密にしておいて欲しいんだけど」
分かっている。おれもここまできてそんな野暮なことをするような人間ではない。放送日までは秘密だってことだ。
「あ、そうそう。今日の番組の放送日はいつなんだ? どこの動画配信サービスでやるかも教えて欲しいんだけど」
それくらいは知る権利はあるだろうと聞いてみたが、三人はなぜか顔を合わせて「番組?」と言って首を傾げ、ともかく秘密にしてほしいと言うだけでそれ以上は答えてくれなかった。
******
あれから一カ月が経った。
自分のできる範囲で様々な番組についてアンテナを張っていたが、いまだに該当するような番組が放送された気配はない。
あれだけの大作だ。もしかしたら編集作業に時間がかかるのかもしれない。もしくはあまりに過激な企画だったため、どこかでストップがかかってしまったのかもしれないとも考える。おっぱい丸出しの女性が出てくるシーンなどは、今の時代にはそぐわないだろう。
――それとももしかして、おれがマリアの胸を揉む時間が長すぎたのか?
そんなことが一瞬頭をよぎるがそんなはずはないと首を横にぶんぶんと振る。それが原因だというならおれに催眠術をかけた人間に責任があるだろう。断じておれのせいではない。
自分が苦労して(いや、だまされて?)出演した番組が視聴できないのは残念ではあったが、下手に有名になりまわりのクラスメイトにからかわれるのもめんどくさかったので、これはこれでいいのかもしれない。
璃里はというと、以前と変わらず教室の隅でひとりでいることが多い。なにをどれだけ食べればそうなるのかは分からないが以前と同じようにぽっちゃりとした体型に戻っていた。
でもおれは知っている。彼女は役作りのためには痩せたり太ったりできる人間なのだと。
そういった意味では彼女の見る目が変わったと言えるだろう。おれは自分と同じく努力している人間が好きだからだ。
つまらない人生だ、と思っている人は人生にどんな期待をしているのだろう。
自らの人生がどれほど上等だと思っていればそんなセリフを吐けるのだろう。
おれはこの世界を冷静に見つめている。そして自分の人生に責任を持つために努力をしている。勉強に励み、名の通った大学へ進学し、そして安定した就職先を選ぶ。つまる、つまらないなんてもので人生を見てはいないのだ。
秘密組織に攫われるといったよく分からない企画に巻き込まれたことも、多少刺激的ではあったがそれは一過性のものだ。
人生を生きていくために必要なのはもっと地味な積み重ね。刺激的な体験を求めだすといつか破綻するときがくるだろう。
だからおれはこのままでいい。自分のできる努力をまっとうにしていくだけだ。
そんなことを考えていると、教室の隅で座っている璃里と目が合った。
璃里もおれの視線に気が付くと、少しはにかんだ笑顔を返してきた。
わずかに見えた彼女の歯が鋭く尖っているように見えたのも、きっとおれの気のせいだろう。
この世界に吸血鬼などいるはずがない。ましてや彼女のように――ぽっちゃりとした吸血鬼など。
道間慎之介の偏見 飛鳥休暇 @asuka-kyuka
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