道間慎之介の偏見

飛鳥休暇

 つまらない人生だ、と思っている人は人生にどんな期待をしているのだろう。

 自らの人生がどれほど上等だと思っていればそんなセリフを吐けるのだろう。

 おれはこの世界を冷静に見つめている。そして自分の人生に責任を持つために努力をしている。勉強に励み、名の通った大学へ進学し、そして安定した就職先を選ぶ。つまる、つまらないなんてもので人生を見てはいないのだ。

 でも、それがわからない人間がこの世にはあまりにも多すぎる。

 何者かになるため。なれると思っているため。流行りを追いかけ、スーパースターに憧れ、動画配信サービスで肌を過剰に露出して踊ってみたり、企業に迷惑をかけるようなバカな行為を撮影して炎上したりするのだ。


 一瞬にして成功するなどといったことはファンタジーの一種だと言っていいだろう。一見、突如として成り上がったかに見える人も、それはきっとそれまでの努力の賜物だ。そこを見ずにガワだけを真似する人間は痛い目をみる。

 おれは自分を客観視できている。冷静にこの世界を見つめている。

 この世にファンタジーなど存在しないのだ。あるのはもっと、地味で地道な努力の積み重ねだけ。熱くならず、冷静に判断することだけ。


 だからこそ、いま目の前にいる高校のクラスメイトの日陰璃里ひかげりりが口のまわりいっぱいに血を付けた姿を見ても、おれは冷静でいることができるのだ。

 璃里の足元にはハトの死骸があり、彼女の口に付いている血はそのハトのものだろうという推測ができた。

 人に見られることを想定していなかったのだろう。璃里りりはおれの顔を見てハトが豆鉄砲をくらったような顔をしている。本物のハトはそこで死んではいるが。


「いや、あの、これは」


 璃里が誤魔化すように言葉を紡ごうとするが、どう説明してよいものか分からないといった様子だ。

 別におれは説明を求めてはいない。遅くなった塾の帰り道の公園でたまたま物音がしたので茂みを覗いただけだ。そこにハトの血を口につけたクラスメイトがいたとしても、そういう趣味の人間もいるのだろうと思うだけだ。


「わ、わたし、吸血鬼なの」


 その言葉を聞いたときにはさすがに眉をひそめた。言うに事欠いてそんな言い訳を。それなら正直に「ハトの血を飲むのが好きなの」と言ってもらったほうがまだマシだった。

 そもそも、彼女が吸血鬼なはずはない。なぜなら彼女はぽっちゃりしているからだ。顔立ちは確かに整っているが、太っている吸血鬼などいるはずがない。いにしえから伝わる吸血鬼の姿で太っているものを見たことがあるか? いや、ないだろう。だから、彼女の言っていることは嘘だと判断できる。


「そう。じゃあ」

 そう言ってその場を立ち去ろうとしたおれの手を璃里が掴む。

「ま、待って」


 そしていま、なぜかおれは璃里の家に連れてこられた。拉致られたといって差し支えのない勢いだったので仕方が無い。

 しかし、璃里に連れてこられた家というのが集合団地の一室だったため、おれはなおさらさきほどの言葉――璃里が吸血鬼だという言葉が嘘だったことを確信した。

 吸血鬼というのは大きな屋敷に住んでいるものだ。こんな寂れた団地に住んでいる吸血鬼などいるはずがない。つまり、彼女は吸血鬼ではない。


「厚かましいお願いかもしれないけど、秘密にしておいてほしいの」

 小さな丸テーブルを挟んで向かいに座った璃里が目を伏せながらそう言ってきた。

「なにを?」

「なにをって、その、わたしが、……吸血鬼だってこと」

「ああ、それか」


 そんなくだらないことを言うためにわざわざ家まで連れてきたのかと呆れてしまう。

「わかったよ。それじゃあ」

 そう言って腰を上げたおれの手を再び璃里が掴む。

「ほんとに?」

 上目遣いのようなかたちで璃里が見つめてくるが、おれにはなぜ彼女がここまで必死になっているかが分からない。人には誰にも知られたくない秘密のひとつやふたつはあるものだ。特に性癖はその最たるものだろう。だから彼女が夜な夜なハトの血をすすって楽しんでいるような人間だとしても、おれにとってはなんの驚きもない。


 この世界には「ケモナー」と呼ばれるような動物に興奮するやつや、ドラゴンと車というシチュエーションに性的なものを見出すわけのわからない人間もいるという。なので今回の璃里に対してもそういう人間もいるか、と思うくらいだ。

 そもそもおれにはこんなエピソードを笑って話すような友人はいない。クラスメイトが教室で大きな声を出して笑っているのを冷ややかな目で見ているような側だ。


「本当だ。それともなにか? 約束を破ったらおれの血を吸うとでも言うのか?」

「そ、そんなことできないよぉ」

 なぜか璃里が顔を赤らめて否定する。よく分からない女だ。


 そういえばいつだったか、おれは彼女に勉強を教えていた時期がある。

 テスト期間中に図書室で勉強しようとしていたときに先に座っていた彼女は、今から卵でも産むのではないかと思えるほど苦悶の表情を浮かべていた。そしておれの存在に気が付くと、恐る恐る声をかけてきたのだ。数学を教えて欲しい、と。

 それはきっとおれが常に学年で一位の成績を取っていることを知っていたからだろう。おれに誇れるものといえば努力の積み重ねによるその成績くらいのものだ。

 仕方なくおれは少しの時間、彼女に付き合ってやることにした。下心がなかったわけではない。でもその下心とは男女の関係だとかそういうことではなく、人に勉強を教えることは、かえって自分の理解度の向上に繋がるからという下心だった。

 結果、その後のテストにおいて、璃里は平均点を越える点数を取り、その時ばかりは嬉しそうに「道間どうまくんのおかげだよ!」と言ってきた。


 その後、彼女となにかあったわけではない。たまに勉強でわからないところがあると質問されるくらいだ。彼女も学校ではあまり友人がいないようで、いつも教室の隅でひとり大人しく座っているような人間だ。だからこそなのか、一時はクラスのなかで「あいつら付き合ってるんじゃないか」と小馬鹿にするような噂が流れて迷惑に感じていたほどだ。

 どうしてこの年代の人間はそんなにも人の恋愛事情とやらに興味があるのだろうか。

 誰かと誰かが付き合ったらしい。誰々はあの子のことが好きらしい。そんな話題が誇張抜きに毎日教室のなかを飛び交っている。彼氏に振られただとかで授業中に泣き出す女子もいるくらいだ。

 金銭的にも独立していないような人間たちが恋人関係になったとして、そこになんのメリットがあるのだろうか。

 人の本能として子を成したいというのであれば、もっと責任の取れる立場になってから考えるべきものではないのだろうか。


 なのでおれは異性と交際するのであれば、成人し、安定した就職先を決めて、経済的にも落ち着いてからだと考えていた。なので学生のうちはガールフレンドを作りたいだとかそんなことを思ったことは一度も無かった。

 傍から言わせればおれの考えのほうがおかしいと言われるだろうが。


 そんなことを考えていると、玄関が開く音が聞こえた。璃里の親御さんが帰ってきたとしたら面倒だなと思った。年頃の男女がこんな時間に家にいるというのはあまり健全ではないだろう。たとえおれにその気が無かったとしても信じてもらうには骨が折れそうだ。

 しかし、入ってきたのは二十歳そこそこであろう若い女性だった。


 季節は秋から冬に差し掛かろうとしているにも関わらず、白いタンクトップにジーパンという軽装だ。その肌は毎日海にでも行っているかのように綺麗な小麦色をしていた。半面、髪色はおそろしくキレイにブリーチをしているかのような白銀で、肌との対比が目立っている。


「ただいま――って、だれ?」


 女性は入ってくるなりおれの姿を見て驚く。


ゆきちゃん、ごめん。わたしが血を吸ってるところを彼に見られちゃって」

「ええ!」


 アニメの登場人物さながらの大きなリアクションを伴って雪と呼ばれた女性が驚きの声を上げる。


「でも、誰にも言わないって約束してくれたから」


 へへへ、と照れ笑いをしながら璃里が言う。しかし、雪はするどい視線をおれに向けてきた。


「アンタ、ほんとに誰にも言わないか?」


 ぐいっと近づいてきた雪の胸がわずかにおれの腕に当たる。しかし、そんなことで動揺するおれではない。胸とはいわば脂肪のかたまりだ。そんなものが当たったところでなにが嬉しいというのだろう。――想像していたよりは柔らかかったが。


「道間くんは信用できるよ」

「なんでそんなこと断言できるのよ」

「それは」

 璃里が再び顔を赤らめる。きっと恥ずかしがり屋なのだろう。

「はあ。……まあ、いいわ。誰かにしゃべったら、わたしがただじゃおかないから」


 おれの目を見てすごむ雪だが、男と女ではそもそもの腕力が違う。こう見えておれは毎朝ランニングと筋トレに励んでいる。いくら脅してこようとも身体的差を埋めることはできないだろう。しかしそれを口にするほどおれは性格が悪いわけではない。


「雪ちゃんは雪女だから、怒ったら怖いんだよぉ」

「あ! 璃里! あんたなんでわたしのことまでバラすのよ!」


 雪の怒りの矛先が璃里に向き、拳を振り上げる素振りを見せるが、璃里はえへへと笑って意に介さない。はたから見るとただふたりがいちゃついているようにしか見えない。


 おれは心の中で嘆息する。

 目の前の女が雪女? そんなことがあるはず無いだろう。なぜなら雪の肌はサーファーよろしく綺麗な小麦色をしている。日焼けした雪女など存在するはずが無い。きっと彼女たちはストレスがたまっているのだ。日々のストレスから逃れたいがために、吸血鬼やら雪女やら、存在しない架空のものに自分を当てはめてロールプレイングを楽しんでいるのだろう。そんなものにおれを巻き込まないでほしい。


「そういえばマリアは?」

「わかんない。またパチンコでも行ってるんじゃないの?」

 おれのことを無視するかのようにふたりは会話を交わす。


 なるほど。この家にはもうひとり同居人がいて、そいつがギャンブル依存症なのだろう。そのせいでこの家庭は貧乏で、その境遇を直視しないように、ふたりは吸血鬼やら雪女やらにならざるを得なかったのだ。

 確かにそのことは同情できるが、だからといって人前でそんな振る舞いをするのはやめたほうがいい。ここはひとつ助言しておくか。


「あの――」


 おれがふたりに声をかけようとしたその時だった。窓ガラスの割れる音が聞こえたかと思うと、すさまじい爆発音とともに視界が真っ白になる。ひどい耳鳴りのなかでかすかに複数人の足音と思われるものが聞こえ、そこでおれは気を失った。


******


「おい、起きろ」

 目を覚ますと、ぼやけた視界の向こうにひとりの男の姿があった。三十代くらいに見えるその男はスーツ姿で、太い眉毛の下で光る目は異常に鋭い。スーツ越しにも分かるほど筋骨隆々の体型をしていて、一見して普通の仕事ではないことが推測される。そんな男がオフィスデスクを挟んでおれと向き合っている。

 覚醒したばかりの瞳に部屋の照明が突き刺さる。妙に明るく感じるのは部屋一面が真っ白な壁に囲まれているからか。


「ここは? あなたは?」


 状況がよく掴めないまま目の前の男に問いかける。

「道間慎之介。君の名前に間違いはないか?」

 男の手にはカバンに入れていたはずの学生証が握られていた。


「そうですけど。なんなんです?」

「あいつらとの関係は?」

「あいつら?」

 おれは問いかけの意味が分からず首をひねる。

「あの化け物たちのことだ。同じ部屋にいただろう」

 同じ部屋。まさか璃里と雪のことを指しているのか。

「あのふたりのことなら、ひとりはクラスメイトで、もうひとりは今日初めて会いましたけど」

「本当か?」

「本当ですよ。いったいなんなんですか」

 そう言った瞬間、おれは全てを理解した。


 これは、――ドッキリというやつだ。


 そうでなければ善良な一般市民のおれがこんな場所で尋問されるわけがない。

 テレビ番組などでこういう企画があるというのを聞いたことがある。テレビなどというくだらないものは普段からあまり観ないため、うろ覚えではあるが、一般人を騙して、その様子をみて笑うという低俗なものだということは知っている。

 それに気付いたおれは大きくため息を吐く。

 どうしてこのおれがそんなものに付き合わないといけないのだ。そもそも璃里と遭遇したところからこの企画は始まっていたのだろう。そして吸血鬼だの雪女だのという存在しないものを匂わせて、その反応を観ていたのだ。

 まったく、どこのテレビ局かは分からないが、あとで苦情を言ってやろう。

そんなことを考えていたその時だ。突如としてけたたましい警報音が部屋に鳴り響いた。


「仲間の襲撃か! きみはしばらくここで待っていなさい」


 そう言うと男はおれを残して部屋を出て行ってしまった。

 ひとり残されたおれはいったん部屋を見渡してみる。どこかにカメラが仕込まれているのだろう。しかし、目視ではカメラらしきものは見当たらない。最新のカメラは高性能になっており、蟻の穴ほどの大きさでも撮影することが可能なのだというのは聞いたことがある。


「あのー、いつまでここにいればいいんです?」

 どこかで観ているはずの撮影隊に向けて声をかける。しかしどこからも反応はない。

 ――仕方ない。

 おれは座っていたイスから立ち上がり、男が出て行ったドアに手をかける。ドアノブをひねると、いともたやすくそれは開いた。しかし、ドアの先にもうひとつ小部屋のようなものがあり、その先の扉の横には明らかにパスワードを入力するような端末が壁に備え付けられていた。

 おれはすぐに理解した。

 これは「ドッキリ」と「謎解き」を合わせた企画だということに。

 ほとんど観ないテレビ番組の中で、おれが唯一と言っていいほど視聴するのが「クイズ」と「謎解き」関係の番組だ。

 それは自らの知識と頭の回転を試すための良い機会になるためという理由だ。


 きっと筋書きはこうだ。

 吸血鬼のクラスメイトが謎の組織に捕らえられ、そこにたまたま居合わせたクラスメイトが彼女を助けるために奮闘する、そういった趣旨の企画なのだろう。

「まったく」

 そうでなくとも今日は塾で帰りが遅くなったのに、さらにこんな低俗な番組に付き合わされることになるなんて。

 しかし、どうすれば終わりがくるかも分からないため、とにかくここを脱出するほかない。

 パスワードを打ち込む端末を見ると、どうやら四桁の数字を打ち込むタイプのようだ。

 四桁の数字ということは組み合わせは一万通り。一から試していくとそれだけで日が暮れてしまうだろう。

 こういうものはだいたい後ろのほうの数字が設定されているはずだ。おれは試しに「8892」と打ってみる。しかしドアが開く気配はない。

 ならばとその小部屋を見渡してみる。これが謎解きであるなら、どこかにヒントがあるはずだ。


「――まさか」


 おれは思わず目を疑った。

 小部屋の隅に一枚の付箋が落ちているのが目に入った。元々壁に貼り付けていたものが落ちたのか、それとも誰かの手帳などから落ちたのかはわからないが、そこには手書きで「PW6674」と書かれている。

 せめて謎解きの形式を取るのであればもう少し解きがいのある問題を出して欲しいものだ。まさかこんなものが本当に。

 端末に「6674」と打ち込むと、甲高い機械音と共にライトがグリーンに発光しロックが解除された。


「おいおい、嘘だろ」


 この番組のスタッフは参加者を馬鹿にしているのか、それとも本当に馬鹿なのか。こんなガバガバの難易度でどうやっておもしろい番組を作ろうとしているのだろうか。

 ともかく、ドアのロックは解除された。おれはゆっくりとドアを開けてみる。ドアの先には廊下が続いていた。人気は無いようだ。

 不思議な建物だと思った。一見、オフィスビルのフロアのようにも思えるが、廊下は下部に備え付けられた照明で照らされ、オシャレに振り切ったデザイナーズマンションの様相を呈している。反面、飾り気の無い無機質な壁面が異質な空気感を放っていた。

 どこかのスタジオに建てられたものだとしたら大道具さんは大変だな、なんてことを思いながら廊下を歩く。


 しばらくすると、いくつかのドアがあった。そのうちひとつが開いている。恐る恐るそこを覗くと、小さなモニタールームのような部屋があった。中ではいまだ警報音が鳴り響いており、おそらくここにいた人物はその対処にあたっている。――そういう設定なのだろう。

 おれは壁一面に備え付けられているモニターを見てみる。いくつかの場所の監視カメラのような映像が流れており、入り口付近と思われる大きなドアのある場所には複数の武装した人間が手に持った銃を扉に向けていた。いったいどんな脅威に備えているのだろうか。


 そして監視カメラの映像――「C-12」と表示されているところに、檻のような場所に閉じ込められた璃里と雪の姿があった。雪は体調が悪いのか寝そべっており、璃里は不安げな表情をして雪に寄り添っている。

 モニターにはこの建物の見取り図のようなものもあり、そのなかに「C-12」という場所もあった。

「なんてわかりやすい」

 おそらくこれがこの謎解きゲームのミッションなのだろう。捕らえられた仲間を救え、とかなんとか。

 ふと、デスクに置かれていたパソコンの画面に目を向けると、ひとつのフォルダが表示されていた。


「ファンタジア?」


 英語で【Fantasia】と書かれたそのフォルダにはいくつかのファイルが保存されており、そのうちのひとつに「日陰璃里」の名前があったのでクリックしてみる。

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