最終章 ドアを開ければ、幸せは待つ

 机の上のそれを見付けた。ドキリとした。

(砂羽に違いない。あいつは、この中を見ただろうか)

 どこに落として来たのか、砂羽の部屋が一番怪しいと思いながら、そこではないことを祈っていた。

 ペンダントは、自分を誤魔化すための小道具に過ぎなかった。

 だからどうせなら、雨降りのアスファルトの上にでもポトリと落ちて、泥水の中で人々に踏まれれば良かったんだ。

 最後には、ダンプトラックにでも轢かれ、ドロドロの、ボロボロになって、誰の写真かなんて解らないくらいに、粉々にされれば良かったんだ。

 あちらこちらに飛び散り、消えてしまえば、良かったのに!

(大切な物でしょう?)とでも言いた気に、机の上にそっと置かれているのを目にした時は、心臓を鷲掴みにされたみたいだった。

 以前の砂羽なら、こんな粋な返しかたをしない。

「お兄ちゃん、私の部屋に、落としてったよ! ロケットペンダントって言うのでしょう? お兄ちゃんって、意外と乙女チックだったんだね。驚いた!」

 だいたいそんな風に、人の気も知らないで、ずけずけ勝手なことを、臆病そうに呟くんだよ。

 そのくせ、いかにも見透かすみたいに、人の目を下から悪戯っぽく覘き込む。

 僕の手の中に握らせる時には、心に寄り添い、大事な物は丁寧に、優しく握らせるんだよ。

 遠慮なんか、まるでなさそうで、大事なところは、とても優しいんだから。

 自分の姿も見せないで、物だけを置いて行くなんて、粋な返し方をされたら、砂羽は、案外ちゃんと、知ってしまったのではないかって、疑うじゃないか。

 ずっと砂羽には会えないでいる。

 もう、会わないのが、いいんだよ。

 ロケットペンダントの蓋を開く。愛羅が笑う。

「愛羅、僕はちゃんと、愛羅を好きだったよ。だけど、安蘭に嫉妬するほどに、愛羅を愛していたなんて、生きている内は気付けなかった。皮肉だよね」

 愛羅に語り掛ける。写真の愛羅に、睨まれた気がする。

(ねえ、鱗ちゃん、まだ誤魔化すの? 愛羅は鱗ちゃんにとって、ただの隠れ蓑に過ぎなかったのでしょう?)

 見透かされている。

 ペンダントの中の、愛羅の笑顔の写真を、人差し指で撫でる。そっと。大切に。

 写真に爪を立て、ペンダントの窪みから、一気に引き抜いた。

 愛羅の写真はくしゃくしゃになり、下から現れた顔が、僕をまっすぐに見る。

(僕の最愛の人は、この人だ……)

 最愛でも、なんの問題もないと思ってた。少し大人になるまでは。

 自分の愛情は、母性のような物と思っていた。

 振りをしていたわけじゃない。娘みたいに可愛かった。

 いつでも、何をする時でも、僕の後ろを頼りなく付いて来る彼女。決して失いたくない存在だった。

 誰にも見せたくない。傷つけたくない。穢したくない。

 真綿にくるみ、いつも大事に、ポケットに入れて置きたいくらいだった。

 彼女は、僕の存在価値そのものだった。

〝そこに、砂羽が生きている〟

 それが、僕の生きる意味だった。

 ロケットペンダントの窪みには、情けない顔の……まるで子泣き爺みたいな顔の、砂羽の写真が嵌め込まれている。

 僕の、誰より愛する人だ。

(兄の、妹に抱く感情だ。母の、娘に抱く感情と一緒だ)

 ずっと、誤魔化し続けたかった。だからこその最愛なら、許されるからと、自分の感情が母性であることを、切に願った。

 でも、砂羽の成長と共に、砂羽を見詰める自分の中に、獣のような何かがあるのを、認めざるを得なくなった。それは、砂羽を自分の物にしたいと願う、雄、特有の欲望と知った。

 その瞬間から、自分こそが砂羽を穢す物となった。

 僕の思いは、決して叶えてはならない思いだ。叶えようとした瞬間、僕は砂羽を失う。それは僕の死を意味した。

 砂羽を僕から遠避けなければ、危険だと思った。

 そんな折だった。砂羽が、自殺なんかしでかしたのは。

 僕はもう本当に、どうなってもいいから、砂羽を自分の側に置いて、何者の目にも触れさせず、砂羽を抱き締めて過ごそうかと思った。

「これから先も、僕はずっと砂羽の傍にいる。僕の宝だ。僕の存在そのものだ。だから、ただ僕の近くに、生きていてくれればいい」

 思いの丈を口にしそうで、もう、ブレーキが効かなくなりそうで、理性なんかぶっ飛びそうで、やっとの思いで砂羽を遠避けた。

 なのにあいつは、僕を慕って、新しい僕の住まいにのこのこやって来た。兄と慕って、やって来た。

(母親代わりなのでしょう? だったら側にいなさいよ)

 純粋な目で、僕を容赦なく、まっすぐに見る。

 最愛の人だ。無理して遠避けた。なのに、綺麗なままに、疑いもなく遣って来る砂羽を追い返せるほど、僕は強くない。

 でも、歯止めの効かない僕が、砂羽を母性と偽り抱き締めれば、母や兄の愛情とは違う物だと、きっと砂羽に知れる。どんなに鈍感な砂羽でも。

 そうなれば、僕はもう、兄としても、砂羽と関われなくなる。

 砂羽に恐れられたり、侮蔑の目で見られたりしたら、僕は、生きられない。

 彼女を作った。妻になるべき人を用意した。

 ただの策だった。でも愛羅は、とても素敵な人だった。

 気付けば僕は、愛羅に惹かれていた。大切にしようと思った。

 砂羽が、愛羅に懐いた。ますます、僕は、愛羅の魅力を知った。

 二人を見ていると、不思議な幸福感に包まれた。僕は、僕の幸せを、形として見た気がした。

(きっとうまく遣って行かれる。叶うはずのない夢は、違う形で叶えられる)

 幸せの形は一つじゃない。誰もが、少しくらいの蟠りがあっても、寄り添って遣って行くのだから。

「僕は、愛羅を好きだ。大好きだ」

 未来にようやく陽が射した。

 なのに、愛羅は僕を裏切った。

 僕は、誰より愛羅を信じていた。そう、砂羽よりも、ずっと。

 僕の力になってくれる人。僕に足りない物を与えてくれる人。僕と寄り添い、歩いてくれる人。僕の信じていい人。

 長い年月を掛けて、夫婦となる。愛羅となら、なれる。

 そう思い始めていたのに。

 よりにもよって、相手が安蘭とは。

 僕にはやはり、信用とか、信頼なんて言葉は似合わないのだと思い知った。

 だいたい、誰より外道は、この僕なのだから。

 親譲りか。外道は。父親を裏切るような母親から生まれた外道は、妻から裏切られる定めなのか。

 誰かに寄り掛かろうとする。誰かを頼ろうとする。だから人は弱く、悲しい思いをする。嘆かなくてはいけなくなる。自分より弱い相手を守っているほうが、ずっといい。自分が、自分さえ、裏切らなければいいのだから。

 愛羅は、僕の最愛が砂羽であると、気付いていたのだろうか。

 愛羅は愛羅で、僕に裏切られたとでも、思っていたのだろうか。

「鱗ちゃん、愛してもいないのに、私を抱けるのね?」

 いつか愛羅は、行為の済んだ後、綺麗な背中を僕に向け、咎める声を放った。

 小さな声だったし、聞き間違いで済ませ、返事なんかしなかった。

 僕に向けた綺麗な背中は、いつまでも震えていた。きっと、泣いていたのだろう。

(僕のせいだ。僕が、愛羅を泣かせている)

 ずっと、心のどこかで、自分を責めていた。

 ところが愛羅に、「安蘭と一線を越えた」と聞かされた時、僕の感情が、「ああ、そう」では済まない物なのだと、初めて知らされる羽目になる。

 僕は、激怒した。愛羅を憎んだ。

 怒りの熱が冷めるまで、自分のしんの感情になんか気付けない。だから、僕が実は、自分の思うよりずっと、愛羅に惚れていたのだと気付けたのは、ずっと後になってからだった。

 愛羅を好きだと感じるのには鈍かったのに、憎悪は恐ろしいほどだった。

 妊娠が解った時、愛羅は、疑う僕に、安蘭との関係をあっさりと否定した。

「愛羅とのこと? 嘘に決まってるでしょう。鱗ちゃんのことで、相談に乗ってもらっただけだよ。お腹の子は、鱗ちゃんの子だよ。ただ、鱗ちゃんの気持ちを確かめたかった。知りたかった。鱗ちゃんが、私を好きだって、どうしても自信が持てなかったから」

 僕には、理解できなかった。愛羅が、まるで知らない、異星人に見えた。

 どれが嘘なのか、どう、なにを信じたらいいのか、僕は、なにを確かめればいいのか……

 でも、気付いた。僕が愛羅に振り回されていることにだけ。

 砂羽にでなく、愛羅に。紛れもなく、僕の、愛羅への気持ちの表れだ。

 愛羅は、すでに、僕の妻になっていた。いかなる理由でも、僕の選んだ配偶者だ。

「愛羅と共に、お腹の子を育てよう」

 腹を括った。

 でも、一度持った疑いってのは、どうやっても、すっきりとは晴れない。元々、一度は、愛羅が認めた事実だから。

「相談していただけ? 身体の関係には?」

「……なったよ」

 時が経っても、何度も僕の中で反響する。どうしても、忘れられない。

 幾度尋ねたところで、どうしようもないのに、僕は、繰り返し尋ねた。

 愛羅は始めは、尋ねる度に、激昂したり号泣したりした。

「だから! 嘘だって! 何度も言ったじゃん! 鱗ちゃんの気持ちを知りたかったの! 安蘭とは、そういう行為はないの! お腹の子は、鱗ちゃんの子よ」

 不甲斐ない僕は、その都度、安心した。

 なのに、直ぐに疑いは、首を擡げる。

 何度繰り返し尋ねたところで、一緒なのだと気付いたから、僕は、尋ねるのを止めた。彼女も、答えることがなくなった。

 会話も、なくなった。

 お互い、冗談が通じなくなった。

 しょっちゅう、諍いは起きる。

 あんなに笑っていた愛羅から、笑顔が消えた。

 自分勝手で、図々しくて、でも、優しくて、面白くて……愛羅の魅力の全てが、影を潜めた。

 なぜ笑わない。なぜ隠れて泣く。なぜ暗い顔をする。なぜ意地悪する。

 僕の聞きたいことは、変わっていたのに、口から出る言葉は違っていた。

「もういい! どっちの子でも構わない。僕は、きちんと、愛羅と育てるって、決めたんだから!」

 その時の愛羅の顔つきから、僕は愛羅は安堵したと読んだ。

 でも、失望も見えた気がした。諦めと悲しみすら、見えた気がした。

 でも、失望と諦めと悲しみに蓋をして、愛羅は安堵したのだと思うことにした。

 羅伊太は生まれた。元気に生まれた。

 生まれたばかりの羅伊太に、僕は正直、愛情など、微塵も感じなかった。

(お前は誰の子だ?)

 心の中から聞こえる声は、それだった。

 そんな嫌な僕の、すぐ横で。砂羽は、純粋なキラキラした瞳で、羅伊太を見詰めていた。

 濁りのない、愛しさ溢れる眼差し。気付かずに綻ぶ口元。

 僕は砂羽を、心の底から美しいと思った。純粋無垢な砂羽を!

 ますます、己に嫌悪感を抱いた。己の罪深さに、深く胸を抉られた。

 誰にも悟られないように、何もかもに無関心の振りをした。

 自分の化けの皮が剥がれ落ちないように気を遣うのに手一杯で、羅伊太を生んだ愛羅が、孤独に潰れそうなのにも、気付けなかった。

 羅伊太が生まれてからの半年間を、僕は、ほとんど思い出せない。

 ある日、仕事から帰ったら、愛羅が天井からぶら下がっていた。冷たくなって。

「やっぱり、安蘭の子だったのだろう!」

 冷たくなった愛羅に、唾と一緒に吐き出す言葉に、己を腐っていると、吐き気がした。

 愛羅が亡くなった実感さえ、湧かなかった。

 感情に蓋をして、泣く羅伊太にミルクを作り、おむつを替え、風呂に入れ……これでは仕事に行かれないと気付き、愛羅の両親に電話した。

「僕には、育てられません。僕の子供じゃあないからです。羅伊太を、迎えに来てください。愛羅の子には、違いないですから」

 僕の部屋から、愛羅も、羅伊太も消え、ようやく僕は、仮面を脱ぎ捨て、化けの皮を剥がした。

「やっと、ありのままの自分でいられる。好きは好き。嫌いは嫌い。もう、誤魔化す必要はない」

 でも、自ら化けの皮を剥がした僕には、確かなものなど、もう、何も残ってはいなかった。

 砂羽を、一人の女性として好きであるのは変わらないだろう。

 でも、愛羅がもういない。愛羅を失った。その現実が、ただどうにもたまらなかった。

「なんで愛羅がいないのだろう」

 とても不思議な気もした。

 好きも嫌いも、愛しいも憎いも、どの感情も不確かだ。

 化けの皮でも、母親役でも、夫の振りでも、なんでもいい。自分の周囲に存在した人たちが、楽しそうだった時間に戻れるなら、それでいい。

 でも、もう、戻れない。

 僕の心が、〝あの頃には戻れない〟という現実で占められた時、鏡に映る僕の顔は、能面のようだった。

 プラスっチックででもできているかに、皺も弛みもない。浮き出る血管も見当たらない。肌の動きすらない。

 死人だ。屍だ。

 しばらく、まるで血の通わない、感情の伴わない自分を、鏡の向こうに見ていた。

 つーっと一筋、忘れてでもいたように、目の穴から、涙が顔面を滑る。

 途端に、堰を斬ったように、涙が顔面を滑り始めた。

 僕はようやく、声を上げて泣いた。顔を覆って、泣き崩れた。

「愛羅、どうして死んだ! どうして! 僕を残して、どうして死んだ!」

 愛羅が憎かった。信じ切れなくさせた愛羅が、憎かった。

 それほど、好きだった。

 疑いようのないのは、己の感情だ。

 大事だった。大切だった。愛羅の笑顔を、もう一度見たかった。

 意地悪そうな顔でもいい。砂羽に冷たい愛羅でもいい。激昂しようが号泣しようが、なんでもいい。動きのある愛羅に会いたい! 会いたい! 会いたい! 

 生きていて欲しかった。疑いなく笑えた、あの頃にはもう戻れなくても、いつか、そういう日もあったねと、含みのある笑みを浮かべられる日まで、生きていて欲しかった。

 愛羅は、僕の、大切な人だったんだ。未来への時間を共に生きたい、大切な人だった。

〝妻〟だったんだ。

(羅伊太は、どうしているだろう)

 僕はつくづく、酷い男だ。愛羅の形見が生きて存在しているのを、ようやく思い出した。

 愛羅に似た子になっているだろうか。愛羅を映したかのように、笑うのだろうか。

(僕の子でも、安蘭の子でも、どちらでもいい。愛羅の子だ)

 初めて、心の底から思えた。

 愛羅の子だ。それで、十分だ。愛羅の遺伝子を引き継いでいる。大切な人は、羅伊太の中に、生き続けているに違いない。

 部屋の天井を見る。

 天井の梁には、ロープが引っ掛かっている。

 自分の存在が、し崩しになって、死んでしまおうかと思った。

「死んだらいけない! 愛羅の遺伝子を引き継いだ、羅伊太がいるじゃないか! 小さな羅伊太を、安蘭に託して、僕だけが不幸ぶって、愛羅を追うは……違う! 死者より辛いのは、残された生者かもしれないのに……僕が死に逃げれば、また、残されて苦しむ者が……」

 梁からロープを引き抜いた。

 でももう、淋しくて、苦しくて、どうにもならない。

 助けて! 

 僕も、強がっていただけ。誰かに縋りたい。誰かを頼りたい。弱虫なんだよ。

「助けて!」

 誰もいない部屋で、小さな声で呟く。


 ピンポーン


 チャイムが鳴る。誰だろう。

「おーい、鱗太。いるだろ? 俺だよ、安蘭だよ! おい、生きてるかー?」 

 安蘭か?

「おーい。りんたー、いるだろー。おれだよー、あらんだよ! 生きてるかー」

 可愛い子供の声だ。

 羅伊太か?

「違うだろ! あなたは羅伊太!」

 砂羽か?

「お前は、羅伊太! 愛羅と鱗太の子!」

 今、なんて?

 閉まったドアの向こう側を透視したくて、じっとドアを見詰める。

 僕の、子供?

「お兄ちゃん、いるよね? ずっとなんにも言って来ないで! 生きてるかー」

 砂羽だ。

 僕の最愛の、の、砂羽!

「鱗太、お前を救いに来たぞ」

「りんた、おまえをすくいにきたぞー! ぱおーん!」

「なんで、今、象?」

 ドアの向こうから響く、可愛らしい声に、砂羽が突っ込む。

 ドアの向こうに、明るい世界が広がる。

 僕は、泣いてぐしゃぐしゃになった自分が、笑っているのに気付く。

 僕は、笑っていた。

「鱗太ー、俺、お前に話さなきゃいけないことがある。お前の大事な妹の砂羽ちゃんに、お兄ちゃんを助けてって、頼まれちゃった! 俺、お前のこと、苛めちゃった! ねえ、早く開けてよ~」

「はやくあけてよ~」

「お前、ちゃんと羅伊太のお父さんなのよ。まあ、中に入れろって。複雑な話はそれから! 入れないと、このドア、蹴るぞ! ぎゃははははは」

「入れろー。入れないと、蹴るぞー! けるぞう? ぱおーん! あれ? 象さん! ぎゃはははは」

「ぎゃはははは。それ、違う!」

 ガコッ

「おい、羅伊太、本当に蹴るな!」

「いいよ、いいよ。どうせ、お兄ちゃんの家だから。蹴っちゃえ、蹴っちゃえ! お兄ちゃん、なにぐずぐずしてんのさ! 開けろって言ってんだろ! 私も、蹴ってやる!」

 ガコッ ガコッ

(砂羽が? 砂羽が、ドアを蹴ってる……あの、子泣き爺みてえな砂羽が?)

 ふふふっ、ふふっ、あははっ! 

 僕の笑いが、少しずつ、音となる。

「いやだわ~、砂羽ちゃん。いつからそんな、凶暴なキャラになったのかしら~。いや~ん、安蘭は~、凶暴な砂羽ちゃんが~、す、き!」

「やめろ! 公共の場所で、愛の告白すな! 安蘭はとっとと、お兄ちゃんを救え!お兄ちゃん、開けろって! こっちは、鍵がねえんだよ! あの、不細工な愛羅が、鍵、変えやがったからよ! 私は本当は、こんな汚ねえ言葉じゃなかったんだけどさあ、ガラ悪くなっちゃって! 蹴るぞ!」

 ガコッ

 僕の時間が止まっている間にも、周りの時計は、しっかりと進んでいたようだ。

 僕は一人、孤独の砂を噛んでいたのか……違うな。

 僕は、逃げていただけだ。いい風景のある、過去へ。

 だから、時が止まった。

 空気が、ゆっくり、暖かく、溶けゆく。

 過去に逃げていた自分の時と、ドアの向こうの、未来へ向かう時が、融合する。

 悪くない。

 次第に、僕の中に、生きるエネルギーのような物が沸いて来るのを感じる。

「入れろー、象さんだぞうー。パオーン!」

「だから、象さん、関係ないってば」

「象の真似なら、砂羽だわな」

「いえいえ、なーにをおっしゃる。私はシャイなので……」

「さい? さいさん? どういう風に鳴く? ねえ。鳴いて、砂羽ちゃん!」

「ほら、砂羽、やれよ」

「犀? 犀はまだ、勉強しておりません! サイサイ―!」

「ぎゃはははは。なにそれ? アホちゃう?」

「アホ言うな!」

「アホ、言うな。言うな。サイサイ―!」

「ちげーよ、羅伊太。サイは、サイサイ―とは鳴かないの!」


 ガチャ ガチャガチャ

 ギー


「お前ら、人の家の前で、うるせーよ」

 ドアを開けたら、僕の会いたかった人たちが、揃って立っていた。

 もう会えない一人は、羅伊太の中に、生き続ける。

「ようやく開けたか。おっせーよ、鱗太。なーにやってんだよ。まさか、死のうと思ってたわけじゃあ、ないわよね~?」

 安蘭が、僕の目の奥を覘き込む。

「うるせーわ。ドア、蹴るなよ」

「僕じゃないわ~! 一番蹴ってたのは、砂羽ちゃんよ~! あ、お宅の息子さんかもしれないわ~。大事な息子さん、お預かりしてるわよ~」

 安蘭がにんまり笑う。

「凶暴なのは、お宅の血筋? 嫌だわ~、僕、砂羽ちゃんとお付き合いするのよ~。凶暴じゃあ、苛められそう! 苛められるのも、あんがい快感かしら~?」

「おたくのちすじじゃ~ないかしら? お父さん、開いて良かったね!」

 羅伊太が、僕のズボンを、小さな手で握り、引っ張る。

 僕を見上げ、僕をお父さんと呼ぶ?

「お父さん、僕、お父さんが二人いるんだって。僕、お父さんと、お父さんを助けに来た!」

 羅伊太は、さっさと靴を脱ぐ。

 玄関に、靴を揃えると、まるで勝手を知っているように、部屋の奥へと入って行く。

「さあ、なに、ぐずぐずしてるのよー。みんな、入って入って! みんなで遊ぼーよ。そうだ!」

 奥の部屋の中央に立った羅伊太が、玄関の僕等を振り返る。不器用に手を叩く。

 未来が、そこに、立っているみたいだった。

「〝しあわせなら〟のお歌、みんなで歌おうよ。みんなで、手を叩こうよ!」


 僕たちは、泥水の中で、口をパクパクさせながらも、必死で泳ぐ、金魚たちだ。


                              おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

泥水の中の金魚たち 四十万胡蝶 @40kochou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ