オガイモゴイ ❹

 そろそろランチタイムが終了し、午後からの競技が始まるところだった。

 優輝とコウスケくんを呼びに行こうと、お砂場の方を向いた。

 

 優輝は、ボーッとしていた。

 竹馬の待ち時間の時、不意に見せたあの時の感じと同じだった。

 

 虚ろな目。

 まるで。自分を消失しているかのような、普段の優輝が見せることのない、輝きを失った目。

 さっきまでコウスケくんと一緒に砂の穴を作って遊んでいたのに、今はコウスケくんが一人で砂を作って遊んでいた。

 優輝は遊ぶコウスケくんを眺めているわけでもなさそうだった。

 優輝の目線の先にコウスケくんがいてもいなくても、関係はなさそうだった。

 何かへ吸い込まれるような優輝が、そこにはいたのだ。


 私は「二人呼んでくるね」と言い置いて、ランチシートから立った。そして一直線にお砂場へ向かった。

 

「もうすぐだよー」

 私はそう言いながらしゃがんで、優輝の顔を見た。


 まるで、優輝ではないようだった。

 その虚ろな目の奥に、何者かが住み着いているような、異様としか言いようのない雰囲気が、自分の息子である優輝から放たれていた。

 その異様な雰囲気を放つ息子に、この世のものではない禍々しさを受け取り、私の体内に何億匹ものうじ虫が忍び込んでくるような気持ちの悪さを感じた。

 

 そもそも、優輝の近くの空間が、もうおかしかった。

 どこかが歪んでいるような、まるでこの世の一部分ではない。

 ここは、保育園のお砂場ではないと悟った。

 

「優輝」

 体に入り込んでくる気持ちの悪いものを押し殺して、私は優輝を呼んだ。

 やっぱりボーッとして、おかしかった。

 普段ならばいくら呆けていようが眠そうにしていようが、一度声を掛ければ返事をしてくれる子なのだ。

 絶対に、どこかが異常なのだ。

 

「優輝、ねえ優輝」

 私は優輝の肩を揺さぶって、語気を強めて語り掛ける。

 反応がない。

 目がずっと同じ調子だった。

 焦点がずっと同じで、少しも眼球が動いていない。

 

 優輝がどこかへ行ってしまう。

 私の手の届かないところへ。

 不意にそんなことを考えてしまった。

 一度そう思ったら、もう止まらなかった。

「優輝……! 優輝っ!」

 私は優輝の顔を両手で覆って、自分の顔を近づけた。そして、ひたすらに優輝の名前を連呼した。

 優輝が何者かへ連れ去られているのだとしたら、私が引き止めてあげないと、優輝は手の届かないところにまで行ってしまう。

 それだけは絶対に、どう足掻いても阻止しなければならなかった。

「……まい」

 依然として虚ろな目をする優輝の口が動いた。

 私は何かを言おうとしている優輝をじーっと見つめながら、「なんて、もう一回」と懇願するように優輝に言う。

「……まい……いまいも……まい……」

 優輝はぶつぶつ何かを言っているが、その意味を感じ取ることはできなかった。何度もそんなことを言っている。

「優輝……っ。お願い……っ」

 茫然自失とした様子から放たれる訳の分からない言葉の呟きに、私は胸が締め付けられるような思いだった。

 私は優輝が元に戻ってくれと祈ることしかできなかった。

 母親ながら、無力である私ができるのは、それくらいだった。

「まい…………まい……おま……」

 私は優輝を抱きしめた。

 私の息子である優輝を、私は精一杯に、胸いっぱいに抱きしめた。

 私の耳元で、まだ優輝がぶつぶつ言っている。

 私には、もう抱きしめることしかできなかった。

 

 "この子は、私の子なのよ。誰にも渡さないんだから"


 優輝の中に何者かがいるのであれば、私はその何者かに、心の中で一喝を与えた。

 誰がお前なんかに渡すものか。

 怖くありながらも、そんな強気な姿勢も崩さなかった。

 この思いがへし折られたら、優輝どころか、私まで連れ去られてしまいそうだった。

 だから、必死に耐えた。

 この異様な、歪曲した、絶対にこの世のものではない空気を聢と感じ取りながら、私はただ一人の息子を守るために、ひたすらに優輝を抱きしめ続けた。


 すると、私の腕の付け根が異常なまでに痛くなった。

 優輝が私のその部分を、手のひらで握り潰すように掴んできたのだ。

 信じられない痛みに、私は動揺を隠しきれなかった。

 こんなに小さくて白い手から、優輝の顔くらいに大きな手を持つ大男並の握力を感じた。

 

「優輝……っ」

 だからって、優輝から離れようとは思わなかった。

 私は優輝へしがみつくように、依然として抱きしめ続けた。

 優輝の中にいる何者かの仕業に違いない。

 ここで挫けたらどうなるのか、もう予想は着いた。

 私にはただただ、耐えることしかできなかった。

 

「まい……も……お……まい」

 優輝の呟きに、明確さが帯びてきていることが分かった。

 最初はぶつぶつとして何を言っているのか分からなかったが、段々とその呟きが、まともに形を成してきている。

 何者かが優輝の声を使って、語気を強めながら謎の言葉を発している。

「もぅ……こい……お……まい……もぅ」

 そんな調子がずっと続いた。

 私が抱きしめている間、ずっと続いた。

 まともな時間を計測できるだけの余裕などなかった。

 ただ、かなりの長い時間、そんな感じのままだった。


 すると、鳩の鳴き声のように、ピタリと優輝のその意味不明な呟きが止んだ。

 もう大丈夫なのかなと思い一瞬気が緩んだが、しばらくの間、私はぎゅっと目を瞑って優輝を抱きしめ続けた。

 

 抱きしめてしばらくが経った頃、さすがに私は優輝の顔が見たくてたまらなかった。

 あの虚ろな目は、もう消え去ったのか。

 謎の呟きが収まった今、優輝の中に居座る何者かが去っている可能性があった。


 私は優輝を抱きしめることから退いて、優輝の顔を見た。

 

 虚ろな目は、全く変わっていなかった。

 依然としてそのままであった。


 優輝が首をゆっくりと、私をしっかり認識しているように向いてくる。

 さっきまで私がいくら話しかけようが無反応の状態でぶつぶつ言っていたのに、ぶつぶつが止んだと思ったら、優輝は意識的にこちらを向いてきた。

 虚ろな目で、こっちを見てきたのである。

「優輝……」

 私は優輝が意識的にこっちを向いてくれたとは思えなかった。

 到底こんな目をする者が、たとえどれほど優輝の見た目をしていても、私の最愛の息子である優輝だとは思えなかった。

 だから私は、お願い、帰ってきて、優輝、といった願望の意味合いを込めて、優輝の名前を思わず呟いた。

 

 すると、優輝がおもむろに私の腕を掴んできた。

 優しい感じがした。


 しかし、それは最初の一瞬のみだった。


 優輝は絶対に優輝が出せないような力を出して、私を無理やり引っ張った。

 凄まじい力で腕を引かれた私は、優輝の口元辺りへ急激に顔を近づける。

 

 あまりにも痛かった。

 骨が折れたんじゃないかと本気で思うくらいに、私は優輝によった激痛を呼び起こされた。

 痛みがあんまり過ぎるものだから、痛いという声すら出ないし、優輝に引かれた瞬間は何が起きたのか理解ができなかった。


 

 すると、口元で言葉が聞こえた。


  

 それは優輝の声ではなかった。

 男性と女性の声が合わさったような、破裂するような声だった。

 強烈なまでに叫んでいるようで、耳が耐えられそうにもなかった。

 悲痛な声を腹の底から押し出しているような、憎しみや恨みで完膚なきまでに満たされている、どす黒い声だった。


 だが、私はその声がなんと発したのか、聞き取った。

 聞き取った瞬間、私はその禍々しさで溢れ出た声を、一生忘れることはないのだろうなと思った。




「 お 前 も 来 い 」




 □□□□□


 私が必死に訴えかけても、園はお砂場を封鎖してくれることはなかった。

 園児が困ってしまいますのでとしか返してくれなかった。

 あれほどの経験をして、優輝を保育園へ通わせ続けることなどできるわけがなかった。

 優輝はしばらくの間、保育園を休んだ。正確には、私が休ませた。


 あの後、私は一瞬意識を失った。

 優輝ではない者、人ならざる者にあの言葉を言われて、目先が突如として、電源が切られたみたいに真っ暗闇になった。

 

 そして気づけば、まるで何事もなかったかのように優輝へ「ママどうしたの」と首を傾げられていた。

 私は以前のまま、しゃがんだ状態だった。

 

 どういうわけか、あれほどのことが起きたのに、優輝は何も覚えていない様子だった。

 私が問いただしても終始ぽかんとしており、その後はなんら支障もなく運動会を頑張ってくれた。

 子どもの晴れ舞台だと言うのに、私は別のことで頭がいっぱいだった。


 人ならざるものが私へ言ってきた言葉がなんであるのか、はたまた、なんでそれが達成されなかったのか。

 保育園のグラウンドの下は、はるか昔、数多くの死体を遺棄する場所として使われていたという。

 その死体が私を、或いは優輝を、連れ去ろうとした。

 そんなことが考えられるから、容易に優輝を保育園へ通わせることが不可能だった。


 それと、その人ならざる者へ言われた時、一瞬、ほんの一瞬だけ、優輝の体が、よく分からないものに変わった気がした。

 優輝が粘土で作った、あのうねうねした物体が。


 そのうねうねとした部分は全て、人間の死体であった気がした。

 土へ埋められる際、ぎゅうぎゅう詰めになってしまい、絡まり合って潰し合った死体の、集合体であるのだろうか。

 そんなことを考えると、あまりにも怖くてたまらなかった。

 これからお祓いをしてくれるお寺へ、優輝と一緒に赴こうと思う。

 この先放ったらかしにして、何かがあってはならない。

 優輝が作ったあの粘土も、多少忍びなかったが、捨てた。

 子どもが作ったものを不純なものとして扱うのは、心が苦しかった


 残しておいてはいけない。

 優輝にはどれだけ説明しても納得してくれなかったが、やはりその使命感に寄った恐怖には抗えなかった。

 

 ただ、子どもながらに駄々をこねることや拗ねることの少ない優輝が、あの粘土を捨てた時に限って、妙なまでの腑に落ちなさを抱えていた。

 なんで捨てたの、と度々言ってくる。

 優輝が物に執着するのは、稀だった。

 優輝はその後もずっと、あの粘土のことを、オガイモゴイのことを、求め続けている。







オガイモゴイ __ 〈完〉

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想像力は、裏目に出る。 ウツボカズラ @UTSUBOKAZURA-24

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