中毒者

@haenotataki23

第1話

 渋滞している車の向きと反対に男が歩いている。10メートルほど距離があるはずなのに、私の存在に気が付いているようだった。マフラーに顔をうずめて、気まずそうに下を向いて歩いている。


 私は庇の陰に身を寄せると、焦点の合わない黒目がこちらを向く瞬間を期待して、十数秒間、意識をその顔に集中させた。しかし、その瞬間は訪れなかった。「ちっ」と舌打ちを打ちそうになったころには、もう既にその歩道に、人はいなかった。ただ湿っただけの冬の空気は、その男の後ろをつけるように、ヌルっと吹き抜けた。


「美里ちゃん、お先。休憩行ってきなよ。」


 橋口さんが黄色い歯を見せて笑った。


「じゃあ休憩いただきます。」


「はーい、いってらっしゃい。」


 荷物を置いたロッカーから弁当袋を取り出し、狭い机に広げる。


 私は、あの人の恋人になりたいとは一度も思ったことがない。現に今も思ってはいないのだ。ただ、こう思うのは、はしたないように思えるが、セックスがしたい。ただ一度だけでいいから、というよりも、たった一度だけ、本当に一度だけ、先生とセックスがしたい。したかった。


 できなかった。もう少しで、先生と繋がれたのに。数か月前までは、その希望があったのに。


 この感情には、適する名前が付けられないでいる。恋愛感情ではない。かといって、単純な性欲で片づけてしまっていいものなのか分からない。


 ただ、一番近しい表現をするのであれば、「麻薬」だろうか。使えば使うほど、ずぶずぶと沼に引きずり寄せられて、身動きが取れなくなる。そんな感覚だった。


 しかし、その麻薬は、もう手に入らなくなってしまった。もう、二度と、先生と関わることはできないだろう。「男女として」は勿論、一年前のように、「先生と生徒として」も。


 それでも薬漬けになった脳は自主的にコントロールができない。


 だが、私は幸運だったのかもしれない。麻薬は、新しく手に入れることはできなくなったが、効力は失っていなかった。文字として、目に見える形で残ってくれていたのだ。おかげで、私は気が付けば、この残り香をむさぼるようになっていた。


 弁当箱の隣に携帯を寝そべらせた私は、慣れた手つきでパスワードを解除すると、RINEを開く。3、4回ほど指をスクロールしないと表示されない、初期設定のアイコンに指を触れる。トーク画面が開いた瞬間にすぐ瞼を閉じる。そのまま指を下になぞり、スクロール。この、いつものルーティンが済むと、また瞼を持ち上げ、好きなところまでスクロールをする。


「かわいい」「早く会いたいな」「よしよししたい」「チューはダメ?」「ぎゅーはいいでしょ?」「わがままだなぁ」「そこもかわいいけど」「かわいい美里のため」「これで仕事頑張れる」「めっちゃ楽しみにしてる」「本気でかわいいと思っている」「照れてる美里、可愛すぎる」「やばい、めっちゃ甘やかしそう」「ぎゅーで終わんなかったら、ごめんね」


 頭の中で、先生の声に置き換え、何度も反芻させる。もはや贅沢すぎる前戯といってもいい。あの先生が、薄い曲線で切り取られた、それでいて妙に存在感のある、あの先生が、あの妙に整った顔を崩して、脳裏で私を犯している。


 


気持ちいい。


 


 性器の周りが濡れる気配がした。よそう、休憩時間とはいえ、アルバイト中だ。私に舐り回された横並びの文字を「戻る」ボタンで見えなくする。


 そうして弁当箱のふたを開けると、いつも通り、緑やら黄色やら茶色やらをつつく。途中に白、そしてまた色のついたものをつつく。高校のころから変わらないのは、この箱の中身と味だけかもしれない。大げさに聞こえるかもしれないが、きっと大げさではない。


 


「旨そう。」


 急に後ろから声が聞こえ、肩を上下に動かすと、目を細めて高い声で笑われた。私は、すぐに白い紙きれを耳に引っ掛けて振り向いた。


「急に声かけないでよ。」


「ごめんごめん。これ藤崎が作ったのか。」


「そうだよ。作ったって言っても、昨日の残りを詰めて、隙間に卵焼きとかウィンナーとか詰めただけだけど。」


「十分じゃん。藤崎、料理上手いんだな、意外と。」


「意外ってひど。」


 また高い声で笑われた。口元は紙切れで見えないが、きっと、白く均一に並んだ歯が、お行儀よくさらけ出されているのだろう。


「夜ご飯はお母さんが作ってる。だからこのサバの煮付は、私作ってない。」


「じゃあ親子そろって料理上手いんだ。」


「いやだから私はほとんど作ってないって。卵焼きぐらいだよ、頑張ったの。」


「卵焼きも立派な料理だよ。見ろよ俺の弁当。何一つ頑張ってないぞ。」


 そういって、右腕でビニール袋を持ち上げた。負荷のかかった右腕に、筋肉の印影が映る。きれいな腕だな、と見とれているうちに、その腕は元の位置に落ちていた。


「美味しいならいいんじゃない。」


「まあ購買も良いんだけどね。毎日これだとさすがに飽きる。」


「そうですか。」


「なんだよ、そっけない。いつものことだけど。」


「用事あって来たんでしょ。」


 先生は用事がないと私のところに来たりしない。人懐っこい性格なのか、ちょっかいをかけるのが好きなのか分からないが、このようにフランクに話しかけてくるため、生徒から人気があった。教職員の中では若く、二十五歳というリアリティある年齢に惹かれる一部の女子生徒からは、恋愛対象にもなっていた。そうして、その子たちのほとんどは、先生を「推し」と呼ぶ。


 勘違いしてはいけないのが、これは私に仕事を任せる、というよりも押し付けるといった方がいいだろうか。そのために私のところに来たのであって、私は「先生のお気に入りの生徒」とかいう美味しいポジションでは決してなかったのだ。


「察しがいいね、さすが副部長。」


 察しがいいも何もないでしょ、と言いたくなる衝動を抑えて、察しのいいふりを続ける。


「文化祭のことですか。」


「そうそう。来週までに企画書を総務部に提出しないといけないんだ。藤崎に頼んでもいいかな。」


「いいかな」と聞かなくても、私は文句を言わず了承することを先生は知っている。


「いいよ。」


「受験勉強もあるのに悪いね。南出が推薦で決まったらしいからあいつに頼もうと思ったんだけど、あいつ期限忘れるからさ。」


「まあ、確かにそうだわ。」


「言うねぇ。」


 また先生が高い声で笑う。青みを帯びた白い肌が、グッと重力に逆らって持ち上がる。紙切れ越しでもはっきり分かるぐらいに先生が笑っている。体の線は薄い。皮膚もかなり薄いのだろう。体毛も、男性の割には薄い方だろう。だけど、眉毛はしっかりと生えている。密度は高くないが、毛の一本一本がしっかりと毛穴に埋まっている。なんだかバランスが悪いように見える。だけど均衡がとれている。そんな先生の存在が不思議だと感じた一方、平凡すぎるようにも思えた。


「とりあえず来週までに、よろしく。」


「分かった。」


 要件を伝えると、先生はさっさと職員室のほうへ戻っていった。


 途中、集団の女子生徒が、先生をお昼に誘ったが、笑いながら適当にあしらう声が聞こえた。顔がいいのも大変なのかな、と一瞬考えたが、そんなはずない、と三年前の私が呟いた。


 


 そんなはずない。美人も大変とか苦労するとか、そんなはずはない。絶対に不細工の方が大変だし苦労をする。こんなこと、紙切れ一枚で証明できてしまうのだ。


 私は、不細工だと罵られたことはほとんどない。けれど、かわいいと褒められたこともほとんどない。だから平凡な顔立ちだと思っていたが、そういうわけではなかった。


 小学五年生の冬、インフルエンザが学校内で大流行した。すぐに流行は収まったが、「まだ不安だからつけておきなさい」と母が私にマスクの着用を延長させた。これがきっかけだった。


 マスクをすると、途端に「かわいい」と褒められてしまうのだ。


「美里ちゃんって目大きいね」「くりくりしていてかわいい」「まつ毛長いね」


 気分がいいから、風邪をひいていなくても、インフルエンザが流行っていなくても、私は常にマスクを身に着けるようになった。この癖が取れないまま、中学に上がった。


 「美里ってさ、マスク外すと雰囲気変わるよね。」


「え。」


「マスクしてる方がかわいいかも。」


 悪気があったわけではないのだと思う。ただ、芽衣ちゃんは素直で、はっきりとモノを言う性格の子だった。しかしその一言が、私にとって、とんでもなくショックだった。


 結局、口元を纏う紙切れは剥がれないまま、中学を卒業した。


 高校受験を終えた頃から、私は計画をしていた。一度ついた癖を取っ払うのは、かなり難易度が高い。しかし、高校に上がれば、ほとんどは新しく出会う者ばかりだ。家の近さを理由に近くの公立高校へ進学を決めたが、思いの外、私学や別の公立高校へ進学する者が多かった。そのおかげで、高校ではほとんど皆が私の顔を知らない。ならば最初から素顔をさらけ出せばいいのだ。最初からマスクを付けるから、そのギャップを残念と受け取られるわけで。単純な話だった。でも、その計画は実行を許されなかった。


 未知の感染症ウイルスが全国に留まらず、全世界に流行した。


 入学式が取り行われた後、二か月間は休校。六月からスタートした一学期の初日は、異様だった。先生を含む全員が、口元にマスクを纏っている。


 学校だけじゃない。外を歩けば、誰も、鼻も口も歯も顎も見せない。


 気味が悪かった。この間までは、私を含めて数人しかこのなりをしていなかったのに。


 だけど、その気味の悪さも、数週間、数か月と経つに連れて薄れていった。


 皆がマスクを付けたまま青春を謳歌した。感染症ウイルスがなかなか収まらないせいで、延期や中止になった学校行事もいくつかあった。しかし、学校側の配慮もあって、かなり充実した日々を送ることができた。


 初めて机を向か合わせて友達と昼食を食べたときは、かなり緊張した。しかし、あの時の芽衣ちゃんみたいに、はっきりと顔について言及されることはなかった。


 結局、高校の三年間、マスクを外すことはなかった。これは、私だけではなく、ほとんどの高校生が同じだったろう。


 卒業式は短縮で行われた。式が終わった後、私はお世話になった先生方へあいさつをして回った。担任の先生、受験勉強でお世話になった先生諸々。


 


 そして、顧問の水島先生。


 


「一年間でしたが、お世話になりました。」


「こちらこそ。卒業おめでとう。藤崎には色々助けてもらったよ。」


「ありがとうございます。」


 水島先生は、私が三年生に上がる頃に、この日比野山高校に着任した。そして、私や晴香の所属する軽音部の顧問を持ってくれた。着任式で初めて見た水島先生の印象は、未だに覚えている。


 線や皮膚がとにかく薄い。顔も薄い方だが、それでいて妙な凛々しさがあった。きっと、少し吊り上がった眉毛がそう見せているに違いない。切れはあるのに丸っこい目、筋の通った鼻、薄い唇、行儀よくそろった歯。平凡で、綺麗で、整った顔立ちだった。


 多分モテるんだろうな、と思っていたが、的中した。


「水島祥です。数学科を担当します。よろしくお願いします。」


 体育館内のあちこちで、ひそひそと小声が聞こえる。


「水島先生だって。かっこよくない?」「待って、推すしかない」「ヤバい、タイプかも」


 あー、やっぱり。


 見た目に加え、人懐っこく愛想のいい性格、それに反して理性を感じる話し方、生徒との距離の近さ。こういった先生の特徴は、さらに生徒を惹きつけた。


「どうした藤崎、お前敬語使えたんだ。」


「最後くらい、使った方がいいかなと思いまして。」


「なんか藤崎らしくない。」


「そうですか。」


「あ、それは藤崎っぽい。」


 なぜかおかしくなって笑ってしまった。そしたら先生もつられたのか、高い声で笑った。


「まあ最後とか言わずに。いつでも顔出してくれ、待ってるから。」


「うん。また来るね。」


 ちょうど会話が途切れた頃に、遠くから先生を呼ぶ女子の声が聞こえた。


「せんせー写真とろー。」


「はいはーい、分かった分かった。」


 そう言うと、先生は体を反対に向けた。そして私も反対を向くと、桜のシャワーが降り注ぐ校門へ足を進めた。


 


 高校を卒業して、半年近く経った。


 大学一回生の夏休みは長く、退屈そのものだった。


 退屈という贅沢な時間を持て余していた八月のある日、確か三十一日だった。高校の頃に同じ部活だった南出晴香からRINEが届いた。


「みさち久しぶり。実は昨日、祥ちんから連絡あってさ、明日暇なら部活に来てくれないかって。」


 晴香とのRINEでのやりとりは、卒業してからは一切なかった。


 文面から察するに、晴香は水島先生とRINEを交換していたようだ。


 ちなみに祥ちんとは、晴香が水島先生につけたあだ名だ。


 急な誘いを受けて驚いたが、明日も予定はないので即決して返事をした。


 


 晴香とは、部長と副部長という間柄で、クラスは違ったため部活以外で話すことはほとんどなかった。企画書を書いたり、予算案を考えたりと事務的な仕事をこなす私を見て、晴香よりも私の方が部長に合っているんじゃないかと言いだす部員も何人かいた。事実、私もそう自覚をしていた。晴香は、部長会議をすっぽかしたり、無断で部活を休むことも多かった。その度に私が代わって会議に出席したり、先生や部員に連絡を入れていた。よっぽど私の方が部長に向いているのではないか、と卑屈になったこともあった。それでも晴香が部長を降ろされないのは、晴香の存在の影響力が大きかったからだろう。内向的な私と違い、晴香は社交的で、いつも周りに人が集まっていた。だから、私が発案をするよりも、私の案を晴香が代わりに発言した方が、皆耳を傾けてくれるのだ。


 晴香を部長に、そして私を副部長に指名したのは水島先生だ。先生がここにに着任してからまだ二週間だった。


「案を横取りされたみたいで嫌じゃないの?」と心配してくれる部員も数人いた。正直、そう感じることが全くなかったといえば嘘になる。しかし、この方が円滑に事が進むのだ。それに、私は事務的な仕事が嫌いではなかった。企画書の作成も予算案の考案も苦ではなかったため、結局、副部長の方が適任していたんだろうと今になって思う。多少の不満はぬぐい切れなかったが、それぞれに適性があったからこそ、上手く回っていたのだと思う。いいタッグだったのだろう。


 先生はすごい。出会ってたったの二週間で皆の適性を見抜いて指名した。「藤崎は面倒見がいいね」と言ってくれた先生は、よっぽど私よりも面倒見が良くて、見る目がある人だったのだ。


 それに気が付いた私は、口には出さないものの、密かに先生を「先生として」、尊敬していた。


 


 いつもより気持ち多めに下地を塗る。ニキビ跡にコンシーラー、その上にパウダーを被せる。アイブロウ、アイシャドウ、チークにハイライト。一通りの工程が終わると、ビューラーを手に取る。睫毛をしっかりとカールさせると、茶味を含んだナチュラルな色の繊維をしごき上げる。温かみのあるオレンジを唇に乗せると、紙切れを耳に引っ掛けた。


 完成。


 念のため、マスクは付けていく。私が大学一回生に上がったころ、マスクの着用は義務ではなくなった。それでも感染症の発症がなくなったわけではないため、しばらくはマスクを付けている人が多かった。


 


 念のため。


 


 学校に着くと、先に晴香が来ていた。こちらに気が付くと、にこやかな表情を浮かべて手を振った。


 マスクは外れていた。マスクを外した顔を見たのは初めてではないが、頻繁に見ていたものでもなかった。しかし、何の違和感もなく鼻やら口やらがそこに存在していて、まるでずっと前からマスクなんか付けていなかったんじゃないか、と思わされたのだった。


 甘やかで端麗な顔に、ピンク色のメイクが映えている。白いワンピースにあの有名ブランドのパンプスもよく似合っている。


 二人で部室へ向かい、ドアを開けると、後輩たちと先生がいた。後輩たちの半数はマスクを付けており、残りの半数は付けていなかった。水島先生は付けていなかった。


 後輩たちも埃臭い部室も何も変わっていない。そう感じてなぜか安心した。先生の、薄く凛々しい綺麗な顔。それでいて、はつらつとしている。高い声で笑うところも、半年前と何も変わっていなかった。


 先生が私と晴香を呼んだのは、文化祭に出演するバンドメンバーを選抜するオーディションの審査員役を頼むためだった。他にも私と同年代の部員はいたが、たくさん来ても困るということで部長と副部長だけに声を掛けたそうだ。


 オーディションはすぐに終わり、後輩たちは皆帰っていった。急に部室が広くなったように感じた。


「二学期って明日からなんだね。もう学校始まってるのかと思った。先生いっぱいいるし。」


 晴香が頬杖をつきながら先生に話しかける。


「先生には夏休みとかないからな。」


 先生が高い声で笑った。


「それより大学の方はどうなんだ。色々聞かせてくれよ、二人とも。」


 私たちは、大学のこと、サークルのこと、バイトのことなど、たくさん話した。


 先生は楽しそうに私たちの話を聞きながら、「俺も大学生に戻りたい」と頻繁に呟いた。


 楽しい時間はあっという間に過ぎた。晴香はこの後バイトがあるらしく、もうそろそろだと言って立ち上がった。じゃあ私も、と立ち上がると、先生が口を開いた。


「あ、ちょっと待って。南出のは持ってるけど、藤崎のは持ってないから。」


「RINE?」


「そうそう。交換しとこ。別に無理にとは言わないけど。」


「あー、いいよ全然。」


 断る理由もないので、私は先生とRINEを交換した。


「えー、祥ちん、みさちのこと狙ってるの?」


「なんでそうなるんだよ。」


 先生があははっと笑う。


「また皆で飯でも行こ。今日は二人だけだけど、みんな集めてさ。」


 なぜ先生が私とRINEを交換したのか、この発言で理解した。きっと、晴香は幹事に向いていない。というか、そもそも引き受けたりしないだろう。そのことを見越して、私に幹事を任せようとしているのだ。


 やっぱ変わらないな、と思いながら携帯をポケットにしまう。


「そうだね、また皆で行こ。」


 そう言って、晴香と私は門を後にした。


 晴香と別れた後、家までの帰路をゆらゆらと歩いた。


 皆、何も変わらなかったな。後輩も、晴香も、そして先生も。


 白い太陽がアスファルトをじりじりと照り付ける八月の終わり、蝉の求愛の声が絶えずうるさく響いていた。


 そう、何も変わらない。何も変わらない、はずだった。


 


 明らかに、その日から変わっていた。


 先生の中で、私は、単なる“元教え子”ではなくなっていたのだ。


 


「藤崎、今日はありがとうな。また元副部長として顔出してくれ。」


 家に帰ると、先生からRINEが届いていた。


 エアコンと扇風機のスイッチを同時に入れ、冷凍庫から出したアイスを頬張りながら返信を考える。


「こちらこそ、また今度皆でご飯行こ。」


そう返信すると、すぐに既読が付いた。


「そうだな、また皆に声かけといてくれ。」


「分かった。」


 これでキリがよく会話が終わるはずだった。私の単調な返信に満足がいかなかったのだろうか。


「お前、普段の会話だけじゃなくて、RINEもこんな感じなんだな。」


「そう?普通だと思うけど。」


「やっぱ卒業しても変わらない、藤崎のままだな。会った時も変わってなくて安心したよ、なんか。」


「そんなすぐ変わったりしないよ。」


「まあな。でも、雰囲気は変わったよな。」


「そう?」


 


「うん、なんか、可愛くなってた。高校の時より。」


 


え。


 


 予想外の返信が来て、なんとも言えない感情になった。嬉しさより、気恥ずかしさが先に込み上げてきた。でも、それよりも先に、驚きが込み上げた。あの理性的な先生の口から、そんなセリフが吐き出されるとは、到底思えなかった。何気なくそう言ったのか、からかうためにそう言ったのか、分からなかった。


  でも、今日はいつもよりも気合を入れて支度をしたことは確かだった。普段なら使わないラメを目元に乗せた。いつも適当に縛っている髪を巻いておろした。このお洒落は、高校を卒業してから身に着けたものだった。


 高校生の頃は、メイクも髪染めも禁止だったため、大学生ほど自由にお洒落はできなかった。


しかし、高校を卒業し大学生になれば、新しい環境や出会いがあるだろうと胸をときめかせていた。そこで私は、新しく「お洒落」という魔法を覚え始めた。この魔法は、覚えれば覚えるほど自分が綺麗に映る、とんでもない魔法だった。そのおかげで、大学を入学するころには、修行を終えた魔法使いになっていた。まあ、まだ紙切れは口元を覆ったままだったが。


 入学式の後、不定期に大学に行き、健康診断や説明会などを受けた。そうしてしばらくした後、前期の授業がスタートした。


 しかし、大学生は思っていた以上に退屈だった。


 授業は、思っていたほど面白いものではなかった。「単位さえとれば大丈夫だから、卒業できればいいんだし。」と、新歓で話したサークルの先輩が呟いていた。


 友達は、同じ学科の中で一人できた。しかし、高校生の頃みたく、なんでも話し合えるほど仲がいいと言える関係ではなかった。最初のうちはこんなものだろうと割り切っていたが、だんだん打ち解けていくうちにあまり波長が合わないことに気付いた。しかし、お互いに内向的な性格は似ていたのだろう。どちらも他に一緒に行動できる相手はおらず、今も常に一緒に行動している。お互いに気を使いながらも、何とかキャンパスライフを送っているが、次第に、高校生に戻りたいと考える機会が多くなった。高校生の頃は、大学生の方がずっと楽しいはずだと信じていたが、大学生になって、それは覆されてしまった。


 夢に見ていたキャンパスライフは、夢でしかなかった。そんな夢のない場所へ、お洒落をする気にはなれなくなっていった。そのおかげで、魔法を使っていたのも束の間。たしなみ程度の化粧と、三十秒でできるポニーテールで大学に行くようになった。


 そんな中、晴香から連絡があったのだ。高校に戻るチャンスが私に訪れた。


 だから、いつもより気合が入ってしまった。「高校へ行く」という事実だけでここまで舞い上がれるようになってしまったのだ。


 だから、先生によく見られたいという感情は、さらさら無かった。でも、人に自分の魔法を褒めてもらえるのは、やはり心地が良かった。


 「ありがと。」


「やっぱり、変わらない。」


「何、私の反応見て楽しんでるの?」


「そうだよ、でも藤崎はやっぱ期待を裏切らない。」


 自分が先生にからかわれているのが、ちょっと気に食わなかった。返答にさんざん悩んだ挙句、出てきたのが「ありがとう」だった。これが限界だっただけなのだ。


 からかわれっぱなしじゃ嫌だと感じたため、私も先生が返答に困るメッセージを送ってみた。


「じゃあ、本音じゃなかったのね。ちょっと嬉しかったのに。」


「おー、これは意外。」


 少し返信に時間がかかっているように感じた。なぜか先生に勝った気がして、少し満足する。しかし、次の返答でまた負かされてしまった。


「いや、本音だよ。本当にかわいいと思った。藤崎、大学でモテてるでしょ。」


 即答で返ってきたため、少し本気にしてしまった。驚きと恥ずかしさで感情が整理できない。とにかくあまり時間をかけずに返信しよう。


「モテないよ。彼氏もできないし。」


「そんなわけ。俺大学生なら、絶対藤崎に声かけてる。」


 ここで、空気が変わるのを感じた。


 棒の先を滴った砂糖水を、無防備にさらけ出された白い腿が吸収していく。


 


 “大学生なら”


 


 この生々しい修飾語に、先生の本音がすべて詰まっていた。そうだ、先生は別に、もともと私に興味なんてなかった。興味があったのは、私の体だった。それは、この時点でおおよそ察しがついていたことなのだ。それを分かって、私は先生を受け入れたのだ。


 あとの会話内容は、はっきりと覚えていない。あれだけ私に舐り回され、股を湿らせた言葉たちだったのに、曖昧で思い出せないのが不思議で堪らない。


 この後の話の展開では、確か私は先生に流れでホテルに誘われた。けれど、その前に食事をしたいということで、再来週の週末に二人で食事に行く予定が淡々と決まってしまったのだ。


 

「かわいい」「早く会いたいな」「よしよししたい」「チューはダメ?」「ぎゅーはいいでしょ?」「わがままだなぁ」「そこもかわいいけど」「かわいい美里のため」「これで仕事頑張れる」「めっちゃ楽しみにしてる」「本気でかわいいと思っている」「照れてる美里、可愛すぎる」「やばい、めっちゃ甘やかしそう」「ぎゅーで終わんなかったら、ごめんね」


 

 こんな胃がもたれそうなほど甘い台詞を、一人の人間に吐かれたことなど、今までなかった。しかも、その相手があの先生なのだから、もう、尚更。


 先生の意図は簡単だった。「俺は藤崎のことが好きじゃないし、交際はしない。でも、体に興味がある。藤崎か俺に恋人ができるまではセフレでいよう。」


 これを私はすべて受け入れた。密かに尊敬していた先生にこういった誘いを受けることは心底驚いた。しかし、ショックは全く感じなかった。先生と食事に行くことも、体を求められることも、交際はしないことも、不思議なくらいにすっと受け入れることができたのだ。


 だから、「好き」や「愛してる」といった台詞は、先生との前戯の間でタブーなことは理解していた。


 もともと交際経験があったため、キスもセックスも経験があった。しかし、「セックスフレンド」はできたことがない。だから、それがどんな存在なのか、好きでもない人間と交わるとどう感じるのか想像できなかった。しかし、不思議と、先生とならセックスをしてもいいと思えた。怖いもの見たさといえば、それまでだ。


  先生との甘い前戯は、約束した九月十六日まで続いた。以降、続かなかった。


前戯が終了して以降、四、五行ほど会話は続いたが、あれは前戯ではない、「賢者タイム」とでも言えばいいだろうか。本番はなかった。


 

 日焼け止め、下地、コンシーラー、ファンデーション、パウダー、アイブロウ、眉マスカラ、アイシャドウ、ライナー、ビューラー、マスカラ下地、マスカラ、チーク、ハイライト、シェーディング、そしてリップ。なんでも、パスタを食べに行くのだから、リップは取れないように保湿を入念に行う。塗っては拭い、塗っては拭いを繰りかえし、最後にルースパウダーをはたく。色はついたが、物足りないので別のグロスを重ねた。ピンク色の唇に艶やかなラメが分散する。最後にキープミストを全顔に振りかける。


 

 よし、完成。


 

 二週間前のあの日よりも、もっと綺麗に仕上がった。化粧ノリがいつもよりいいのは、昨晩のパックのおかげだろうか。


 髪をコテで巻き、オイルをつけると、新しく買ったワンピースを身体に通す。まだ残暑は残っているものの、少し暑さは和らいだ。日が沈みかけているため、外は少し涼しくなっている。ワンピースの上に、これまた新しく買ったカーディガンを羽織る。そして、ピアスを引っ掛けた耳元に香水を纏う。


 


紙切れは、マスクは付けない。


 


 どうせご飯を食べるときには外してしまうから、どのみち必要ないのだ。グロスもマスクに着けば台無しになる。何より、付けて行ってしまうと外すことに抵抗も生まれてしまう。外した時に感じるギャップを、先生が表情に出さないとも言い切れない。そうなれば、これまで営んできた前戯がすべて無駄になってしまうような気がした。


 傍から見れば食事をしているただの男女に過ぎない。しかし、私と先生のセックスはもう既に始まっているのだ。


 不安は感じていた。先生が、私のマスクの下を全く見たことがないわけではないはずだ。しかし、面と向かって見られるのは今日が初めてだった。


 不安を押し殺すために、鏡の中の自分を見つめる。


「うん、大丈夫、綺麗。」


 この言葉を最後の魔法として浴びせると、私は部屋を出た。


 


「あれ、里美こんな時間からどこ行くの。」


「友達とご飯行ってくる。」


「えー、早く言ってよ。お母さんご飯作っちゃったじゃん。」


「ごめん、明日に回すよ。」


「そんなお洒落して珍しい。彼氏でもできたの?」


 うふふ。とにやにや笑う母に間髪入れず「だから友達だって。」と答える。


「気を付けてね。」


「行ってきます。」


 そう言うと、私は家を出て、すぐ最寄りの駅へ向かい歩き出した。


 


 あの後、家にどう帰ったかは覚えていない。ただひたすらにイヤホンから流れる音楽に入り込んでいた。


 先生と会っている間の記憶は、はっきりと思い出せないでいる。確か、二週間前のあの日と変わらない会話をしていたような気がしているが・・・。


 ただ、先生の表情、仕草、視線、話の聞き方。これらは全て思い出せてしまう。思い出したくもないのに、鮮明に思い出せてしまうのだ。


 たどたどしく話す私に向けられたあの視線は、優しくも冷たくもなかった。何の感情も失ってしまったような空虚なものだった。しかしながら表情はニコニコしていて、愛想を絶やさない。けれども、定期的に左手首の時計に目線をちらつかせるので、その愛想笑いさえも救いにはならなかった。


 きっと、退屈に感じているのだろうと察しがついてしまった。


 このままでは前戯が台無しになる。そう感じて必死に話そうとすればするほど、ムードは盛り下がってしまった。


 普段はワイシャツにネクタイ姿で教壇に立つ先生が、今日は私服を着て私の目の前で同じパスタを啜っている。その新鮮さを背徳的に味わえるだけでも十二分に感じてしまった。それでも、顔の造形、声、話し方は先生のままだった。だから、より一層先生が不思議な存在に思えてならなかった。


 


「ああ、私はこの人とセックスするんだ。」


 


 そう思うと、また恥ずかしさと緊張感が同時に押し寄せてきた。この知的で冷静であどけなくていたずら好きな先生が、どのように獣に豹変するのか想像できなかった。だから、自由に想像ができてしまって、余計に頬の紅潮を抑えられない。


 しかし、なぜか文面上でやりとりをしている時よりも、もっとすっと、先生との新しい関係を受け入れることができてしまった。これは、きっと「夜の先生の顔が知りたい」という危険な好奇心が大きくなりすぎていたからだろう。


 


「そういえば藤崎、土日のことなんだけど。」


 先生の呼び方に、少し引っ掛かりを感じた。


「日曜に朝から部活入ってさ、泊りできなくなった、ごめん。」


 「え。」と漏らしそうな声を喉の奥へ押し込んだ。


「そっか、分かった。」


「ごめんな。」


「いーよ、土曜は?」


「あー、土曜はまだ分からない。また分かったら連絡する。」


 あ、もうダメかもしれない。


「了解。」


「じゃあそろそろ、俺この後散髪なんだ。」


「うん、ありがと。ご馳走様。」


「うん、じゃーね。」


 焦りを感じさせないように、冷静さを装って淡々と会話を終わらせた。


 改札口まで送ってくれた先生に手を振ると、改札をくぐってもう一度振り返ったが、そこに先生はいなかった。もう行ってしまったようだ。


 もぬけの殻と化してしまった私は、重い足をプラットホームへ進めた。


 なんとなく、土曜も会えないんだろうと薄々勘付いていた。そして、その予想は的中した。


 帰りの電車内で送った「今日はありがとう」のメッセージには、「いえいえ」と素っ気ない返事が一つ返ってきただけだった。


 金曜の夕方になっても、先生からの連絡は一切なかった。九月十六日を境に人が変わってしまったように思えるほどだった。


 さすがに断るとしても連絡の一つくらい寄越すと思っていたが、二十二時を過ぎても連絡は来なかった。


 もどかしくなってしまって、「明日行けそう?」とRINEを送った。しかし、返信が来たのは次の日の十二時で「午後から病院いかないとダメで、ごめん」とのことだった。


 とくに埋め合わせがあるわけでもなく、それ以降、先生からの連絡は一切途絶えた。


 


 あー、終わった。


 


 もうこれ以上、先生と関わる気にはなれなかった。ここからアプローチを仕掛けても、先生は上手いことを言ってかわすだろう。第一、この状況でこちらから積極的にアタックできる勇気はなかった。自分のプライドがズタズタに切り裂かれるような気がしてならなかったからだ。


 もういいや、忘れよう。と何度も思ったが、忘れることはできなかった。


 これは、恋人と別れたというようなショックとはまた違う、ちょうど痒い所に手が届きそうで届かないような感覚だ。それに加えて、先生に避けられた原因が自分にあるということ、そして、「セフレにすらなれなかったこと」。このショックが大きすぎた。


 何度も言うが、先生は私を彼女にしたかったわけではない。都合のいい、体だけの関係を築きたかっただけなのだ。この間、私を食事に誘ったのは、いきなり本番を迎えるのではなく、まずは慣らし、といったところで建てたプランだったろう。その慣らしの段階で不合格通知を貰ってしまった。


 マッチングアプリなど、インターネット上で知り合った相手と交際を前提に食事をするというのはよくあることだろう。これはいわゆる「見極め」であって、これ以降デートをしないこともよくあるだろう。「恋人にする」という大きな選択は、それ相応の責任を伴う。だから皆、慎重に「見極め」を行うのだ。


 しかし、この事例と先生の事例とは大きく異なる。セフレに求める条件は、恋人に求める条件に比べれば、大したことはないだろう。なのに、私は、先生のセフレにすらなれなかった。


 食事中のマナーが悪かったのだろうか。たどたどしく話す素振りが気に食わなかったのだろうか。色々な原因を考えてみたが、どれも心当たりはなかった。まあ、考える余地もなかったのだが、このどちらかが原因であるならば、幾分か気持ちは軽くなっただろう。


 あの日の記憶を落ち着いて思い出せば分かることだ。会った瞬間から先生は空っぽになった。もう既に先生の中では消化試合は始まっていて、ほとんど投げやりだったのだろう。


 つまるところ、「見た目」が原因だったのだ。ショックだった。


 しかし、そのショックを引きずっていてもどうしようもない。


 私は、「先生は、私を生徒としてしか見られない。だから体の関係に持ち込むことを諦めた。」のだと思い込むようにした。


 実際、この可能性はぬぐい切れない。だがしかし、このように私にアプローチをしてきた時点で、そう感じているようには到底思えないのだ。


 「ひどい男」と片づけてしまえばいいものを、私は片づけられない。


 それは、私の肥大しすぎた好奇心が邪魔することが理由な一方で、自分の負けを認めてしまうことに繋がりかねない点が懸念されたからだ。


 まだ先生を忘れられないでいる私にはありがたいことに、あの麻薬は文字という形で残ってくれていた。


 おかげで、先生との連絡が途絶えてから現在まで、あの前戯は私の自慰に使われてくれている。このトーク画面を開くと、先生と繋がれているような気がして、全身から発熱してしまうような感覚に陥ってしまうのだ。


 


 


「いやあ、外騒がしいねぇ。」


「ひゃっ、えっ、あっ」


「あら、ごめんね。びっくりさせちゃった?」


 咄嗟に携帯の消灯ボタンを押した。まただ。また開いてしまっていた。


「すみません、お疲れ様です、後藤さん。」


「ありがとね、さっちゃんもお疲れさん。」


 後藤さんは主婦パートの先輩だ。このスーパーにバイトとして入って以来、よくお世話になっている。面倒見がよく気が利くため、みんなから「お母さん」と呼ばれている。


「ありがとうございます。確かにサイレン音すごいですね。事故かな。」


 これまでの経緯を整理していたせいで聞こえなかったが、言われてみれば確かに外が騒がしい。弁当箱の中身は、既に片付いていた。


「いやあそれがね、人だかりがすごくて見えないのよ。それでさっき野次馬していたっていうお客さんに聞いたら、事故ではないみたいって。救急車もないみたいだし。」


「えー、じゃあ事件とかですかね。」


「やだあ、こんな真昼間から物騒ねえ。」


 後藤さんは、両手を胸前でクロスさせてぶるぶるっと震えるしぐさをした。


「最近変な事件多いから気を付けないとね。里美ちゃんみたいに若くて可愛らしい子は狙われやすいんだから。」


「私は大丈夫ですよ。」


「あら、油断しちゃだめよ。変な大人って何するか分かんないもの。」


 「変な大人」か。


「分かりました、気を付けますね。変な人見つけたら後藤さん召喚します。」


「任せなさい、どんなナイフもこのお腹だと跳ね返しちゃうんだから。」


 ぼよよーんっと言いながらお腹を突き出す後藤さんを見て、逞しいなと思った。


 それは、ふくよかな体型というコンプレックスを笑い飛ばせるほどの心の強かさを指している。小耳に挟んだ話だったが、後藤さんは健康診断で肥満を指摘されてかなり落ち込んでいたことがあるそうだ。


 時計の針は十三時を指していた。


「あ、もうこんな時間。」


「じゃあ交代ね、戻ってらっしゃい。」


 後藤さんとの雑談が終わると、私は仕事に戻った。


 


 


 気が付いたのは、家に帰って十分ほどしてからだった。


「お母さん、ちょっと電話かけてくれない?」


「え、どうしたの、失くしたの?」


「うーん、ポケットに入れてたはずなんだけど。」


 部屋に響くのは母の携帯のコール音のみで、着信音は鳴らない。


「部屋とか鞄とかは探した?あと、自転車の籠とか。」


「部屋は上がってないし、鞄と籠の中は探したけど無かった。もしかしたらバイト先かも。」


 壁際の時計の針は十六時を指していた。


「あらあら、暗くなる前に探しておいで。もしかしから帰路に落としてるかもしれないから歩道も見ておいで。」


「分かった。」


 そう言い残すと、上着を羽織って玄関を開けた。昼間と打って変わって灰色の雲が空に並んでいる。


 最悪だ。雪が降る前にさっさと見つけないと。


 傘を引き抜いて、徒歩でバイト先へ向かう。


 スーパーに面している大通りに出ると、向かい側からキャッキャッと楽し気な声が聞こえてくる。日比野山高の制服を身にまとった女子高生の集団だ。


 私のバイト先は、私の母校と、母校の最寄り駅との間に位置している。スーパーといってもチェーン店ではなく、昔ながらの小さいもので、今日のように冷え込んだ休日は客数が少ない。外の商品の陳列が終わると、特にすることもないので、道端をぼーっと見つめることも多い。


「マジで早く帰れてラッキー。」


「あの鬼の山ちゃん先生が早く帰らすとか嵐くるべ。」


「いや結構マジで嵐きそうな空してる。」


「ねー、このままスタザ行かね?」


「え賛成、いこいこ。」


 一瞬、晴香みたいだな、と思った。そして、この眩しい集団と私との間にギャップを感じてしまった。高校生の頃は、この子たちほど、晴香ほど目立つような恰好ではなかったが、それでも私は春を謳歌し、輝いていた。どうして、こうなってしまったのだろうか。


 しかし、これだけの違いはあれど、山ちゃん先生、改め、山岡先生は共通認識だった。そのことに、いささか安堵した。


 山岡先生は、母校の中ではトップ3にランクインするほど厳しい先生で、体育が教科担当だ。山岡先生は確かバレー部の顧問だったはずだから、きっとあの子たちはバレー部員なのだろう。


 しかし、「鬼の山岡」と生徒の間で呼ばれている先生だが、実はウサギを飼っているらしく、パソコンのデスクトップの背景は、自分とウサギとのツーショットにしているほどの溺愛ぶりらしい。そして、それについて「普通ウサギだけ撮るだろ」とか「強面のくせにかわいいとこあんじゃん」と同じ体育科の二宮先生と野島先生にいつもいじられているらしい。


 この話を聞かせてくれたのは・・・水島先生だ。あの夏休みに聞いて、晴香と二人で大爆笑をした。


 あの日に戻りたい。戻って、やり直したい。


 こうなることが分かっていれば、紙切れなんか外して、お洒落もしないで会いに行けたのに。あの甘い麻薬に依存しないで済んだのに。


 そう考えているうちに、はっと気が付いた。


 


どうしよう、携帯、見つからなかったら。


 


 アカウントのメアドもパスワードもあるため、新しく携帯を購入しても、現状に近い状態まではデータを復興できる。しかし、トーク内容までは元に戻らないだろう。バックアップもとっていない。


 


どうしよう、どうしようどうしよう。早く見つけないと。


 


 走ってきた歩道の上を、隅々まで探し回ったが、結局見つからなかった。


 もう既に辺りは暗くなり始めている。


 


どうしよう、どうしよう。全部消えてしまう。


 


 最後の頼みでバイト先に駆け込んだ。


 店の中では、橋口さんと後藤さんが商品の補充をしていた。 


 二人に聞いてみたが、そんなものは見ていないという。店内、休憩室、ロッカールームなど、思い当たる箇所はすべて探したが、見つからなかった。


 最悪だ。


 ここに無いなら、帰路に落としたのだろう。もしかしたら拾われているかもしれない。帰りに交番によって帰ろう。


 そう思い立って、帰路と反対の道へ歩き出した。


 店を出た頃にはもう、辺りは暗くなっており、雪がちらついていた。


 軽く身震いをして、歩き出した瞬間、左後ろから着信音が響きだした。


 振り返ると、真っ黒のダッフルコートを着た人影がいた。


「ひぇっ」


 小さく息をのむと、黒い人影の手元に眩しいほど白く光る物体が見えた。


音の正体は、その携帯だった。


 一瞬、期待をして損した、とがっくりしたが、その液晶画面には「藤崎由紀」と表示されていた。


「あっ、すみません。それ私の・・・」


 そう言いかけて、黒い人影と目が合った。


「・・・晴香?」


 少し間が開いて、その人影は口を開いた。


「・・・みさち、・・・ごめん。」


 そう言い残すと、晴香は私に携帯を押し付けて、走っていった。


 着信音が鳴りやんだ。


 とりあえず携帯が見つかったため、一件落着した。


良かった。先生とのやり取り、消えないで済んだ。


 一呼吸おいて、母に折り返しの電話をかけようと液晶画面をのぞき込んだ。


 


「えっ、なんで・・・」


 


 画面には、先生とのトーク画面が映っていた。しかも、先生との一番最初のやり取りが表示されている。冷水を浴びせられた気分だ。


 晴香がロックを解除したのだ。誕生日をパスワードにしていたからすぐに分かったのだろう。全部見られてしまっていた。


 雪の降るスピードはさっきよりも加速し、歩道がうっすらと白くなっている。


 母には、「見つかった」とだけ連絡を入れると、反対方向へ歩き始めた。


 


 


 どうして、よりによって晴香だったんだろう。


 泡立った頭にシャワーを浴びせる。


 晴香とは、「親友」と呼べるほどの仲ではなかった。たまたま同じ高校で、同じ部活で、部長と副部長という関係だった。だから仲が悪いわけではないが、特別いいというわけでもなかった。私とは対照的で、明るく、容姿が良く、交友関係が広い。


 もしも誰かに広まってしまったら、と考えると、背中に嫌な汗が流れた。 


 先生とのことは、家族にも、友達にも、誰にも話していない。誰に話しても非難されるだろうと分かっていたからだ。


 非難されるのは、どちらかと言えば私ではなく、先生の方だ。


 法律上、私と先生との関係は何の問題もない。お互いに成人しており、お互いに合意があった上での関係なのだから。


 しかし、それが“元教師と元教え子”であるだけで、世間からの風当たりは強くなってしまう。元教師と元教え子が交際、結婚というケースも実在するわけだが、賛否は別れてしまう。「正式なお付き合い」という形でもそうなのだから、「セフレ」なんて否定派の方が多くなってもおかしくはない。


 私は、どちらかといえば賛成である。しかし、これは単に先生との関係性を否定したくないからに過ぎない。だから、否定派の「在学中に関係があったり、意識をしていたというケースもあり得るが、これは犯罪に当たらないのか。」という倫理的な考察に、素直に頷けないでいる。


  散々迷った挙句、私は、晴香に連絡することにした。


 やはり、携帯を拾ってもらったお礼は伝えるべきだと考えたからだ。それに、口止めはしてもらわないと不都合が過ぎる。


 髪を乾かし終えて、いざ携帯を手に取ると、驚いたことに晴香の方から連絡が入っていた。


「さっきはごめん。勝手に覗いちゃって・・・。来週の水曜会える?」


 八月三十日以降何のやり取りもなかったそのトーク画面に一つの吹き出しがぽつりと生まれていた。


 私と先生との関係性について、気になるのだろう。きっと会ったら掘り下げられる。


 ここで、適当にあしらって、「その日は予定がある」とはぐらかせば、きっと余計に怪しまれるに違いない。ならばとっとと事情を説明して、あれ以降何もやり取りはないと言ってしまった方がいいだろう。それに、口止めをしてもらうならば直接会ってお願いした方がいい。


「うん、空いてるよ。」


「じゃあその日の十八時、マーラ喫茶に来て。」


「分かった。」


 


 


 マーラ喫茶に行く道中、晴香に何と説明をしようか考えていた。とりあえず、起きたことは包み隠さず話すべきだろう。晴香はもう既に全て知ってしまっているだろうから。


 しかし、全てを淡々と話せる自信はなかった。


 なぜなら、晴香は先生とかなり仲が良かったのだ。高校でお世話になったという点も一致している。だからこそ、このことを知ったなら、何も思わないはずはないだろう。


 「そんなことあったのー、やばー」と笑い飛ばしてくれればいいのだが、この間の反応を見る限り、そういった雰囲気にはなりそうになかった。


 店前に着くと自転車を止め、店内に入った。


 既に、晴香は席についていた。奥の隅っこの席にいたため、しばらく探してから見つかった。この間と同じ真っ黒のダッフルコートを椅子に引っ掛けていた。


「晴香。」


 声をかけた途端、勢いよく振り向いた晴香は、人が変わったようにやつれていて、今にも泣きだしそうな顔をしていた。


「えっ、ど、どうしたの。」


 足早に晴香の向かいの席に座る。


 この間は暗くてよく分からなかった。しかし、今目の前にいる晴香は生気を吸い取られてしまって、かろうじて生き長らえているように思えたのだ。


「この間はごめん、マジでごめん。携帯見た瞬間にみさちのって分かったからみさちのお母さんにでも電話しようと思って、それで・・・」


 一息に話そうとする晴香の様子から、何か嫌な予感を感じた。焦る晴香をなだめると、晴香はゆっくりと口を開き、ぼそっと呟いた。


「誰にも言わないから、安心して。今日はみさちに話したいことがあってさ。」


「お待たせしました、カフェオレです。ごゆっくりどうぞ。」


 晴香が頼んだであろうカフェオレが届いた。


 晴香はそれをゆっくり啜ると、受け皿に静かに置いた。


「みさちも何か頼みなよ。」


「あ、うん。」


 店員にハニーレモンティーを頼むと、晴香の方に向き直る。


「話したいことって、何?」


「・・・みさちだけじゃない、はるもなの。」


「え。」


「祥くん・・・祥ちんが体の関係を迫ってたのは、みさちだけじゃない。」


「・・・え、そうだったの。」


 正直、私だけではない可能性も考えていた。しかし、その相手がこの晴香だったとは、想像すらしていなかった。


「急にこんなこと言ってごめん。」


「いやぁ、うん。」


「まあ、だし、誰かに言うなんてできないから、マジで安心して。」


 頭の中が整理できない。しかし、少し安心が生まれた。


 所詮、晴香も私も、先生にとっては同じ存在だったのだ。


「夏休みに会って以降だったよね。」


「そう、はるも同じ。家帰ってからRINEきて・・・」


「私も。」


「そっからこの前までずっと、はると先生はそういう関係だったんだけど・・・」


「え?」


「はる、祥ちんのこと好きになっちゃって・・・」


 いよいよ涙の溢れだした晴香に構う暇もなく、思考が止まった。さっき生まれたばかりの安心は、まるでさっきまで存在すらしていなかったかのように跡形もなく消されてしまった。


 晴香の場合は、未遂ではなかった。私には訪れなかった本番があった。


 封じ込めていた仮の事実が、本当の事実になってしまった。


 


 ああ、やっぱりそうか。


 


 元から分かっていたことだったが、ショックは小さくなかった。


 このショックを晴香に感じ取られないように、落ち着いた声を演じる。


「そっか、好きになったんだ。」


 晴香の言葉を精一杯咀嚼したところで気が付いた。


 私も・・・もしかすると先生のことを好きになってしまっていたのかもしれない。「好きではない、恋心じゃない」と思い込むことで衝動を抑えようとしていたのかもしれない。きっと先生との前戯を麻薬のように感じたのは、そのせいだ。


「うん、もともとは好きじゃなかったけど、セックスするたびに。」


 きっと本番があれば、私もそうなっていたに違いない。


「みさち良かったよ、未遂で済んだし。あんな奴、好きにならない方がいい。」


 すすり泣く悲劇のヒロインに少々同情しながらも、「セフレにすらなれなかった私」は、心底嫉妬していた。


 多分、先生に彼女でもできて、別れを告げられたのだろう。


「・・・もうそろそろかもしれない。」


「え、何が?」


「もうそろそろ・・・ニュースになる。」


「待って、どういうこと?」


「・・・あいつ、はるたちだけじゃなかったの。」


「・・・え、まだいたの。」


「うん・・・でも、卒業生じゃない。」


「・・・誰?」


 


「生徒。今、二年生の子。」


 


「・・・は?」


 晴香の目から噴き出す涙は、顎の下にぽたぽたと滴っていた。


時間が止まったような気がした。


 先生が?生徒に?


 


「この間会った時に見たの、携帯。あいつがシャワーしてる時に。校長とか教育委員会とかもう訳わかんない人数から連絡来てて。だからもう、会えない。」


 


     先生は、犯罪者になった。


 


「先生、犯罪者になったんだ。」


 口に出すと、全身の力が抜け、口元の筋肉がジワリと緩むのを感じた。


 私は・・・犯罪者に恋をしていたのか。いや、違う。これはやっぱり、恋でも何でもなかった。


「お待たせしました・・・ハニーレモンです。ごゆっくりどうぞ。」


 気まずそうな店員が席を離れるのを見計らって、一口だけ口の中へ流し込んだ。


 ハニーレモンは、嫌気がするほど甘ったるかった。


 一つ疑問が思い浮かんだ。忘れていた、晴香には高校の頃から付き合っている恋人がいたはずだ。


「そういえば、塩見くんだっけ。今どうなってるの?」


「・・・別れた。」


「え、でも夏会った時は良好だって言って・・・」


「別れた。祥ちゃん選んだ。幸樹とは良好だったけど。」


 そういってカフェオレを啜る晴香の手元を見つめた。


 袖から除く白い皮膚には、無数の切り傷が散らばっていた。


「・・・それ・・・」


 私の視線に気が付いたのか、すぐにカップを置いて袖を引っ張った。


「ごめん・・・はる、バカすぎた。」


 晴香はもう、手遅れだった。


 スーッと何かが冷めていくのを感じた。


 さっきまでの自分がまるで自分ではないように、目の前の晴香に対して、何も感じなくなってしまった。ただ一つ、


 


“私じゃなくて良かった”


 


と思うだけだった。


 財布から紙幣を取り出して机上に置くと、荷物をまとめ始めた。


「・・・え、みさち。」


「ごめん、実はこれから予定あってさ。」


「え。」


「・・・先生のことは、時間が解決してくれるよ。晴香にはもっと良い人がいると思うから大丈夫。」


「ねぇ、ちょっと待って。」


 


ガタン


 


 晴香が立ちあがった衝動で机が揺れ、カフェオレがこぼれた。


 傷の裏側、無防備で白い晴香の手首に、薄いブラウンが染み込んでゆく。


 慌てて押さえつけられたペーパーは、晴香の手首にべっとりと張り付いて、やがて粘着を残しながらねっとりと剥がれていった。


「良かったら私の分も飲んで。おいしかったよ、甘くて。」


 そう言い残して、私は店を後にした。


 寒い暗がりの中、携帯を取り出した私は、犯罪者のRINEアカウントを削除した。

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中毒者 @haenotataki23

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