RING

第1話-2 GINの話

今夜、彼女は俺に別れを告げる。

彼女との出会いは偶然だった。

その日，俺はいつも行くBARでいつものジンを1人で飲んでいた。

彼女はひとりでとても楽しそうで、でも何故かとても寂しそうな雰囲気を纏っていた。

普段、そんなに人に声をかけるようなことはしない俺が、つい声をかけてしまいたくなるぐらいに彼女は綺麗で寂しそうだった。

その頃、俺は自分の夢に区切りをつけるかどうか迷っている時期だった。ミュージシャンになる夢をもって地元から上京して来たはよかったが、20代も後半になりこのままでいいのかと不安になっていた。

そんな不安な気持ちを誰かに癒してほしかったのかもしれない。

その日、俺は彼女と好きな映画の話や音楽の話で盛り上がった。

彼女の映画や音楽の知識はとても広く深く、この俺でも舌を巻くほどだった。様々な映画、ミュージカルや芝居、音楽もクラッシックから洋邦の最新曲まで幅広い知識と感性で語る彼女の表情は、とてもイキイキとして楽しそうだった。

「ねぇ、あなたの事は何て呼べばいい？」

俺は聞いた。

「そうね、…結でいいわ。」

彼女は手元にあったBARのコースターを見てそういった。

「結の事、もっと知りたいんだけどな。」

俺は彼女にのめり込みそうになっていた。そんな気持ちを見透かしていたのか彼女は俺に、

「私には、深入りしないで。それが、私たちのルールよ。それに、私の事なんてつまらないことばかりよ。」

そういって俺の視線から逃げるように目をそらした。

その日、俺と彼女は一夜を共にした。

朝、目覚めた俺は彼女がいないことを、そして本名すらも聞いていなかったことを後悔した。

俺は、もしかしたら彼女がまた現れるんじゃないかと彼女と出会ったBARに通った。だが、彼女は現れなかった。

今夜こそは、いや、明日こそは。そう思いながら、彼女を待った。

数か月たって俺が諦めかけたそんな夜、俺がBARに行くと彼女の姿がカウンターにあった。

俺は、とても嬉しかった。でも、待っていたなんて言うのはちょっと癪で、恥ずかしくて偶然を装って彼女の席の横に座った。

「マスター、GINを。」

彼女がゆっくりこっちを向く。

「今夜もGINなのね。」

俺もゆっくり彼女のほうを向く。俺と彼女の視線が交わる。こんな時、言葉なんてものはすべて陳腐に思う。今夜の彼女は前にもまして綺麗で、そしてとても魅力的だった。

その日、俺たちは会えなかった間を埋めるようにお互いをむさぼるように求めあった。

その後、俺と彼女は定期的にそのBarで落ち合い夜を過ごすようになった。

彼女は絶対に本名も連絡先も教えてくれなかった。

昼間は何をしているのか、何処で住んでいるのか、俺は知りたいと思ったが、絶対に探らないでほしいといって、それ以上聞いてはならない雰囲気だったので聞くことをあきらめた。

まるで追いかければ追いかけるほど、どんどん遠くなってしまうような幻影の様だった。

俺は、腕の中から彼女がすり抜けて行ってしまうのではないかとそれがとても怖くて、深入りしないことを選んだ。

俺はその日、あるミュージシャンのレコーディングでサポートとしてベースを担当していた。レコーディングが終わって、顔見知りのプロデューサーが俺の所に来て、にこにこと声をかけてきた。

「お疲れ。なぁ、最近お前のベースすごくよくなってるよ。色っぽいっていうか音に艶が出てきた感じだな。もしかして、恋でもしてる？」

「え、ありがとうございます。」

恋。彼女との関係が恋というなら、そうかもしれない。

「これなら、次のレコーディングの時もまた参加してもらえるかもな。いや、ツアーの参加もあるかもしれないよ。」

「ほんとですか！」

「あぁ、ただ私生活は気を付けろよ。じゃ、またな。」

その数日後、事務所からの電話がかかってきた。以前バックで演奏したミュージシャンが俺の事を気に入ってくれたらしく、デビューを後押ししてくれるという話だった。

夢をかなえるチャンスが巡ってきた。俺はこれまでの下積みの苦労がやっと報われると喜んだ。

次の日、BARに行って、マスターにデビューの話をした。するとマスターは神妙な顔で俺に言った。

「なぁ、CDデビューするならあの彼女とは手を切ったほうがいい。」

「なんで？」

「昼間、俺テレビ見てたんだけどな。あの彼女、大物政治家の娘だよ。しかも既婚者だ。代議士秘書の妻だよ。お前には手に負えない。」

「そんな…まさか。」

「お前さ、少しはニュースとか見ろよ。ほら、これが彼女だよ。」

マスターが差し出した週刊誌には、確かに彼女が写っていた。

父親である代議士が病気で引退を余儀なくされて、その後を代議士秘書である娘婿が引き継ぐという記事だった。その娘婿の横に妻として写っていたのが彼女だった。

俺があっていた彼女とは全く雰囲気の違う大人しい貞淑な妻という感じの、でもまさに彼女だった。

ショックを受けた俺はその日、彼女を待たずに店を出た。

しばらく俺は彼女に会うのが怖くてBARには行かなかった。

でも、日を追うごとに彼女への想いが膨らみ、会いたい気持ちが溢れていく。こんなにも彼女の存在が大きかったのかと今更ながらに気づいた。

ある日珍しくマスターから電話があり、彼女が来ていると告げられた。

マスターに自分できちんとけじめをつけろと言われた。

俺は、どうしようかと悩んだが、彼女に会いに行くことにした。

マスターの言う通り、俺の中できちんとけじめをつけなければと思ったからだ。

BARにつくと彼女はカウンターに座って、俺を見て寂しそうな哀しそうなそして、嬉しそうな顔で微笑んだ。

その顔を見て、俺は彼女が別れを選んでいることを悟った。

今夜、彼女は俺に別れを告げる。

ホテルの部屋に入るなり、俺は我慢が出来ず彼女を後ろから抱きしめた。

「結…今夜は帰らないで。」

彼女の香りを吸い込んで俺は彼女を抱きすくめる。

「…ふふ。いつになく甘えん坊さんなのね。」

彼女が優しく微笑んだ。その唇を俺の口で塞ぐ。

「…シャワーを浴びてくるわ。」

そういう彼女を逃がさないように俺は腕に力を込めて羽交い絞めにする。

「駄目。このままベッドに行くの。」

「今夜は、強引なのね。」

彼女を抱きかかえ、ベッドに運ぶ。そして二人でシーツの海に沈んでいく。

彼女の心の奥底にある哀しみや寂しさが、彼女の瞳から感じ取れるようだった。きっと、恵まれた環境であっても孤独を感じて生きてきたんだろう。

彼女はそれを悟られまいと、俺の視線から目をそらす。そんな彼女の顔を優しく包み込んで俺はまた熱いキスをする。

彼女の体から力が抜けていくのが分かった。二人、悲しみを埋めるように愛し合った。

「今夜の結は、なんか悲しそうだね。」

彼女の肩を優しく抱き寄せて、キスをする。彼女は一瞬とても悲しそうな顔をした。泣き出すんじゃないかと思うほど顔をゆがめたかと思ったが、ふっと微笑むと彼女は俺の腕をすり抜けて

「デビュー決まったんでしょ？おめでとう。良かったわね。」

そういった。

「これから忙しくなるわね。貴方は素敵だから若い子のファンもきっと増えるわ。」

「結一人がいればそれでいいよ。俺。」

俺は真剣にそう思っていた。彼女を離したくない。

でも、彼女は優しく微笑んで言った。

「私、あなたの足かせになりたくないの。だから、今夜で最後にしましょう。」

「結はそれでいいの？」

俺は卑怯だ。彼女が何者でどんな立場なのかを知っていて、彼女に別れ話をさせている。別れる口実を俺のデビューにすることで、彼女に罪悪感を抱かせている。

「…ねぇ、私たち、別れましょう」

彼女は悲しそうにそういって、ベッドから出てシャワーを浴びに行った。俺はベッドにうつ伏せになって声を押し殺して泣いていた。

彼女の残り香が俺をより切なくさせた。

シャワーを浴びて出てきた彼女は俺の横に腰掛けて、俺の胸から腹を指でたどりながら言った。

「あなたにはきっともっと素敵な出会いがあるわ。私の事は忘れて。私も私の人生を歩いていくわ。貴方との素敵な思い出は胸の奥にしまっておく。

…さようなら。

私、置いていかれるの嫌いだから、先に帰るわね。」

そう、俺に言い、俺の唇に最後のキスをして部屋を出て行った。

最後のキスは涙の味がした。

あの後、俺はデビューした。忙しい毎日の中であの日々は夢ではなかったかと思うほどに充実した毎日になった。

BARにはあれから行っていない。マスターからはたまに電話がかかってくるが，いつも調子はどうだ？とか他愛無い話で終わる。彼女が来ているか聞いてみようかと思ったが、やめた。たぶん、あの日から彼女は店には行ってないだろう。

いつか、また彼女に会ったとしても、俺は真っ直ぐ彼女の目を見て「はじめまして」と言えるだろう。