RING
KPenguin5 (筆吟🐧)
第1話-1 結の話
今夜、私は彼に別れを告げる。
私の父は代議士で夫はその私設秘書だ。私が23歳の時に父が夫を急に家に連れてきて「彼がお前の夫になる男だ」といきなり言われた。
所謂、政略結婚。
それでも、夫はとても優しく、私を大事にしてくれる。
結婚生活には不満はなかった。ただ、私たち夫婦には子供ができなかった。それは私を静かに追い詰めていたらしい。
結婚から10年ほどたった頃。ひょんなことから夫に隠し子がいることが分かった。
私の張り詰めていた不安がその時、破裂したようだった。
私は夫を責めることはしなかった。私は知らないふりを、これまで通りの貞淑な妻を演じることを選んだ。
でも、どうしようもない想いは募る一方だった。
子供ができない原因は私のほうにあるということ。そして、結婚前とはいえ夫が私を裏切っていたこと。
普段の私は、代議士秘書の地味な影の存在だった。夫を支える貞淑な妻。服装も地味で化粧も必要最小限。外でお酒を飲むなんてのはもってのほかだった。
ある日、どうしようもない想いに我慢が出来なくなって、あるブティックに入り普段は選ばないような真っ赤なワンピースと真っ赤なハイヒールを買った。試着室で後ろに束ねた髪をほどいた自分を見て驚いた。
「私って、こんなに綺麗だったなんて。」
その日は父と夫は定期の会合があり、家に帰ってこない日だった。
そして私は初めて一人で夜遊びをした。
はじめて入ったBar。初めて飲む外でのお酒。とても楽しかった。
そして私は、彼に出会った。
私はそのBarに入って、カウンターに座った。
その時の私は普段の私からは想像できないぐらい大胆だった。
そして、その日の私は自分でもおかしいと思うぐらい魅力的だったと思う。
偶然、隣に座った彼に微笑み、彼にお酒を奢り、彼と好きな映画の話で盛り上がった。
その夜は家に帰らなかった。初めて夫以外の男と夜を明かした。
翌朝、私はまだ明けきらない時間に家人にはわからないように帰宅をした。
本当は、一夜の息抜きのつもりだった。でも、時間がたてばたつほど、あの日の楽しかった時間が彼との熱い時間が思い出されて、心が苦しくなってくる。
私はまた父と夫がいない日に、そのBarに行ってしまった。
私たちは本当の名前を知らない。私も彼の名前を聞かないし、私も本当の名前をあかさない。マスターは彼の事をGinと呼ぶ。
いつも、ジンを飲んでいるからとか言っていた。
「ねぇ、あなたの事は、何て呼べばいい?」
ある時、彼が私に聞いた。
「そうね。…結でいいわ。」
その時、目についたコースターに書かれた名前を言ったことがある。
「結の事、もっと知りたいんだけどな。」
彼はふざけたような笑顔で、でも眼差しは真剣で真っすぐ私を見て言った。私は、彼の真っすぐな目を避けるように視線をそらして答えた。
「ふふ。私には,深入りしないで。それが私たちのルールよ。それに、私の事なんてつまらないことばかりよ。」
彼はそれ以上突っ込んだ話はしなかった。
私と彼は何度かの逢瀬をむさぼるように、楽しんだ。
彼との時間は、抑圧された私の心を解き解し、眠っていた女としての自我を呼び覚ますようだった。
ただ、夫や父を裏切っているという罪悪感は心の中で蓋をしてしまっていた。
でも、そんな幸せで刺激的な時間はそう長くは続かなかった。
ある時、父が執務中に倒れた。心筋梗塞だった。
医師からは命に別状はないが、これ以上政治家として執務を続けるのは難しいといわれた。
父は穏健派として人望も厚く、応援してくれている支援者の方も多くいる。父の引退を惜しむ声は多かったが、その父の地盤をずっと右腕として支えてきた夫が引き継ぐことで、支援者の方たちは納得してくれた。
私は政治家の妻という立場で、今後は選挙運動などをしていかなくてはならなくなった。
今夜、私は彼に別れを告げる。
いつものBARで、彼と合流した後いつものホテルに移動した。
「結。今夜は帰らないで。」
彼は私の心の焦燥を感じ取っていたのかいつになく強引で甘えた雰囲気を醸し出している。
部屋にはいった途端、彼に後ろから抱きすくめられた。
彼の熱い吐息が首筋にかかる。
「…ふふ。いつになく甘えん坊さんなのね。」
そういう私の口を彼の唇が塞いでくる。
「…ん。シャワーを浴びてくるわ。」
彼の腕をすり抜けようとすると、彼の腕に力が入り羽交い絞めにされた。
「駄目。このままベッドに行くの。」
「今夜は、強引なのね。」
私はそのまま彼に抱きかかえられてベッドに沈められた。
彼の瞳が私の目を見つめる。まるで私の心の奥底を見透かすような瞳に思わず目をそらしてしまう。
そんな私の顔を優しく自分のほうに向かせて、また熱いキスをする。
私は彼の香りを胸いっぱいに吸い込んで、目を閉じる。彼の重みを体に感じながら、2人はシーツの海に沈んでいく。
彼は私の心の哀情を感じ取っていたのか、私の肩を優しく抱き寄せて、優しくキスをする。
「今夜の結は、なんか悲しそうだね。」
私は彼の優しさにこのまま溺れてしまいたくなる衝動を、必死に抑えて彼の腕からすり抜けた。
「デビュー決まったんでしょ?おめでとう。よかったわね。」
彼はミュージシャンとしてデビューする夢を追いかけて、やっとその夢を掴んだのだ。
さっきBARのマスターから聞かされた。
「これから忙しくなるわね。貴方は素敵だから若い子のファンもきっと増えるわね。きっと」
「結1人がいればそれでいいよ。俺。」
「私、貴方の足枷になりたくないの。だから、今夜で最後にしましょう。」
「結はそれでいいの?」
私は卑怯だ。別れる口実を彼のせいにしている。本当は私のせいなのに。私の本当の理由を彼に隠している。
「…ねえ。私達、別れましょう。」
私はベッドから出てシャワーを浴びる。
シャワーを最大にして声を殺して咽び泣いた。彼の腕の中の温もりを洗い流すように、全ての想いを涙と一緒に洗い流してしまうように。
シャワーから出た私は、シーツにくるまっている彼のそばに腰掛け言った。
「貴方にはきっともっと素敵な出会いがあるわ。私の事は忘れて。私も私の人生を歩いて行くわ。さようなら。
私,置いていかれるの嫌いだから、先に帰るわね。」
そう言って、彼の唇に最後のキスをして、私は部屋を出た。
涙が止まらなかった。でも、このまま一緒にはいられない。
私は覚悟を決めたのだ。政治家の妻として今後生きて行かなければならない。そして、彼は華やかなステージが生きる場所だ。
そもそも、住む世界が違う二人が出会ってしまったのが間違いだったのだ。
思い出を胸に私はこの後生きていく。さようなら、私のはじめての恋。
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