第79話 混迷


 エリーカはヴィトクラマ家の5女だった。

 ヴィトクラマはいわゆる教会領の名門一族。


 教皇を中心とする教会権威が支配的な力を持つ地域群にあって、突出した力を持つ3つの公国のひとつ、ノートガルム公国の大貴族だ。


 それも上澄み中の上澄み。


 世俗においては大公家の流れを汲む縁戚。

 聖俗においては何度も枢機卿を輩出した。


 血筋の歴史は長くて古く、辿っていけば列聖された聖人にまで行き当たる。


 まさに非の打ち所がない大貴族である。

 大貴族だった。


 後妻の子として生まれたエリーカは、幼い頃から4人の継姉たちに憧れてきた。向こうからは邪険に扱われていたが、それでも背中に熱視線を送っていた。


 今を時めく有力者。誰もが一目置く重鎮。歴史ある有名家門……素晴らしい価値を持つ夫を手に入れ、肩で風を切りながら、社交界の頂で燦然と輝く一番星。


 それが継姉たちだった。

 自分もああなりたい。

 いや、そうなる運命は約束されている。


 エリーカは心の底から感謝していた。

 “ヘーリグ聖なる”の敬称を許されし、ヴィトクラマ家に生まれた幸運に。


 ところがだ。

 あってはならないことが起きた。


 父親が失脚したのだ。

 事件の発生はエリーカが10歳のとき。


 事業の一環として出資した商会が、なんと社会不安を扇動する反逆者だったのだ。彼らは教会組織の在り方に異論を呈する分派神官集団の思想に心酔していた。教皇から直々に異端認定された者たちを匿い、あまつさえ活動資金を提供していたのだ。


 しかもこの集団、3公国や教皇庁の一部高官が密かに支持していた。


 動機が宗教的情熱なのか、派閥対立なのかは不明だが、背後関係が露見した瞬間、とんでもない大騒動になっていく。


 各地で多数の名族が処分された。

 父もまた、無事では済まなかった。


 当初、一族は不運な失敗で済ませられるとタカをくくっていた。なぜなら自分たちの家名はヴィトクラマだから。


 しかし、ヴィトクラマだからこそ大事になった。有名さゆえに教皇に睨まれ、教会に対して陰謀を仕掛けてきた中心人物のひとりと判断されてしまったのだ。


 教会領において教皇の権威は最強。

 こうなると展開は早かった。


 大公殿下はヴィトクラマを見限る。

 処刑こそしなかったものの、後は知らぬとばかりに徹底して距離を取った。


 嫁いだ姉たちも助けてくれない。

 彼女らは嫁ぎ先の家名を強調し、むしろ保身のために糾弾の最先鋒に立った。


 周りに集まっていた者たちも全員逃げる。

 大半の使用人たちも我先にと逃げる。


 すがる思いで助けを求めた盟友たちは、ここぞとばかりに財をかすめ取り、用済みになると突き放してきた。


 ヴィトクラマ家は一瞬にして没落した。

 父母とエリーカは孤立した状態で、肩身の狭い暮らしを送ることになった。


 夢見心地の日々から一転、エリーカにとっての地獄が始まる。


 精霊祭、降誕祭、カーニバル……華やかな季節行事には一切顔を出せない。出してもすぐに追い払われ、背中に石を投げつけられる。


 社交界にも居場所などなかった。


 ほとんどの家はヴィトクラマとの付き合いを嫌ったし、たまに公平な貴族が晩餐会へ招こうとしても、悪評の再燃を恐れた姉たちが圧力をかけて機会を潰しにくる。


 大公家主催の夜会にも出席は許されなかった。国内すべての貴族の子女が招かれる中、ヴィトクラマの令嬢は常に欠席しているのけ者だ。


 ……仮に出席したとしても、みすぼらしい恰好で嘲笑されるのがオチだが。


 こんな状態だから、縁談なんてくるわけない。

 幼馴染たちは格下だった家と次々に婚約を結んだ。


 実家から縁を切られた母親は、エリーカの結婚に再起の夢を託す。


 血眼になって彼女を厳しくしつけてきた。

 それはしつけと呼ぶにはいささか脅迫的で理性を欠いていた。


 “値打ちが下がるから”体罰は課さない。


 その代わり、大切なものを目の前で壊され、日が昇ってから次の日が昇るまで、ひたすら屈辱的な説教と、自己批判の強要が行われた。ほとんど毎日だ。


 周りの貴族が何不自由なく青春を謳歌している最中、彼女だけが、牢獄の中で看守の娯楽心を満たすため、資源として削り取られ続けていた。


 そう、母親は明らかに心の虐待を楽しんでいた。

 もっともらしい理由をつけながら。

 親の意見に逆らうなど、決して許されない毎日。


 エリーカは生まれてきたことを呪った。


 こうして彼女は約束されていた幸せを失い、得られるはずだった人生の楽しみと、令嬢が経験すべきイベントの数々を見送ってきた。


 指をくわえ、悔し涙で枕を濡らしながら。


 嫁ぎ先も見つからず絶望していた16歳の終わり際、奇跡が起こった。


 他国の貴族から縁談の声がかかったのだ。


 アルヴァラは教会領やブフロム王国と比べればド田舎だが、それだけに失脚騒動とは関係なく、名家の権威が通用するということなのだろう。


 聞けば相手は戦争で名を馳せた英雄。

 息子の嫁に一族の誰かをと提案してきたとか。


 エリーカはあんな僻地へ売り飛ばされるなど絶対に嫌だったが、両親は泣いて喜び、断る間もなくふたつ返事で了承してしまった。


 仕方ない。選べる立場ではない。

 己を慰め、英雄の子息に思いをはせた。


 どんなたくましい人なんだろう。

 自分を裏切った幼馴染より優れているに違いない。


 遠路を旅するうち、いつしかこの結婚で皆を見返してやる気になっていた。一発逆転を決め、嘲ってきた者たちすべてを後悔させてやるのだ、と。


 夢想しながら現地へ到着する。

 あの日のことは今でも悪夢に出てくる。


 義理の父は容貌雄偉で親しみのない目をしていた。義理の母は、終始こちらに敵対的な怒りを向けていた。そしてエリーカの結婚相手は、筋骨隆々のたくましい青年ではなく、その隣の、なよなよっとした、線が細くて神経質そうな若者だった。


 騎士たちをまとめる豪傑どころか。

 虫も殺せなさそうな雰囲気だ。


 ……これと結婚するの?


 エリーカは失意に苛まれた。


 喉の奥から胸の先まで鉛の芯がつっかえたような、巨大で不気味な昆虫に捕食される獲物の立場になったような、受け入れられない後悔に襲われた。


 しかも、夫には心を占める想い人がいた。

 ふたりの間には子供までいるという。


 こそこそ隠れてその女ばかり構い、こちらへは新婚初夜の後は挨拶すらしない。

 親が決めた結婚に不満だらけなのがひしひしと伝わってきた。


 自分だけが不幸で不満なのだ、と言いたげな態度が許せなかった。


 夫が近寄らない間にも、接近、いや粘着してくる人物はいた。義理母、つまり姑だ。彼女は何かと理由をつけてはエリーカの不出来をなじり、執拗に攻撃した。その攻撃は実母とは異なり、肉体的な体罰も含めたものだ。


 エリーカの背中には、馬用の鞭で皮膚を裂かれた傷跡が残っている。


 姑は明らかに嫉妬していた。

 若さ、容姿、家柄、立場、すべてにだ。


 追い詰めるためだけの理不尽な要求。それを満たしたとしても、決して認められることのない徒労感。初夜の一発で妊娠したのが判明すると、攻撃はさらに加速する。


「こんなダメ嫁の子供など当家には必要ない! 流れるなら、流れればいい!」


 蹴落とされた階段の下で聞いたあの言葉は、今でもたまに蘇って心を蝕む。


 生活費はろくに渡されず。

 食事には毒を混ぜられ。

 あちこちに悪口を広められ。

 逃げ出すこともできず、やせ細り、安息も得られないままひたすら詰られる毎日。


 そんな地獄に耐えてようやく生んだ第一子。

 かけがえのない、愛しい娘。

 自分が偉大なことを成し遂げたと思える努力の結晶。


 生まれて初めての喜びは、許可なく押し入ってきた姑の一言で踏みにじられる。


「役立たずめ。端女でも男を産んだというのに」


 愛人以下の劣った嫁。

 その言葉を聞いた瞬間、エリーカの中で何かが弾けていく。


 彼女は夫の愛人と子供を探し出し、忠実な使用人に殺害させた。




 おおよそこんな話だった。

 途中から老侍女ではなく母上本人が語っていたが。


「私はいつも人形だったッ! いつだって耐えてきたッ! 親も、実家も、夫も、義実家も、何もかも嫌いッ! どうしていつも私だけ? 私よりも苦労してない人が、何も背負わず、何も奪われず、上手くやっていて許されるわけッ!? だったら私だって……ッッッ!」


 彼女は俺たちを指差す。


「お前もッ! お前もッ! 自分ばっかり好きなように遊んで……ッ! 王都で華やかな舞踏会ですってッ? 100年早いのよッ! 私の味方はアビーだけッ! たったひとりの愛娘を贔屓して何が悪いっていうのよッ!?」


 泣き崩れ、老侍女の胸に顔をうずめた。


 はあー。

 思ったよりくだらない話だったな。

 聞いて損した。


 俺は商人たちへ出ていくようにジェスチャーを送った。

 彼らは渡りに船とばかりに退散していく。


 足音が遠くへ消えるのを待ち、話を再開した。


「母上」

「うるさいッ!」

「その話が事実だと仮定して――だから何なんです?」

「何……ですって……?」

「あなたの人生がどうであれ、それは横領の免罪符にはなりません」

「~~~ッ!」


 母上は歯を剥いて殺意を放った。


「昨日の件もそうです。あなたはリーザに何をしました?」

「子供は親に従うものよ。私だって母様に――」

「あなたは被害者ではない」


 ひゅう、と息の音が漏れる。


「今はリーザの話をしているのです。リーザが、あなたによって、不当に踏みにじられた話をしている。あなたの過去はあなたにとって悲劇なんでしょう。でも他人には関係ない。それは他人を踏みにじって良い理由にはならない」


「…………」


「子供はあなたの分体ではないんです。自他の境界を理解しましょう」


 母上は過呼吸っぽい様子で反論を試み、言葉にならずに荒い鼻息を鳴らした。


「客観的な事実はこうだ。あなたはリーザの尊厳を認めず、思い通りの欲望をぶつける操り人形にしようと試みた。あの件における被害者はリーザ。エリーカではない。あなたの人生に何があったとしてもね。あなたは気の毒で哀れな娘ではなく、実母や姑とまったく同じ顔つきをした嫌味な怪物でしかない」


「でも私は!」


「いつまで子供のつもりなの!?」


 リザベットが立ち上がった。


「どれだけ神様に願ったと思う? 母上がまともになりますようにって。どれだけ神様を呪ったと思う? なぜこの人が母上なのかって。素晴らしい人物でなくてもいい。優れた血筋でなくともいい。せめて精神的にまともな母親が欲しかったって!」


「ふざけるんじゃないわよ……」


「ふざけてるのはそっち! 自分がやられたことばっかり嘆いて! どれだけ周りを傷つけてきたのか自覚したらどうなの!?」


 妹は喉を震わせ、つっかえながら、恐れを怒りで塗りつぶすように言い切った。


「悪い子! 本当にかわいくない! 謝りなさい!」


「悪い子でも、かわいくない子でも、お母さまでも、お母さまの親でもない!」


 リザベットは、拳をぎゅっと握って母上を睨み返す。


「私は私自身だよ!」

「…………」


 母上はゆらりと立ち上がった。

 怒りを通り越したのか、半笑いしながらリザベットへ近づく。


 マズいな。

 立ちはだかろうとすると身振りで止められた。


 リザベットは握った拳で思いきり殴られ、たたらを踏んで倒れる。それからふらふらと立ち上がり、勝ち誇る母上へ見下した声音で言った。


「だから何? どれだけ脅したって、私はもう思い通りにはならない」


「親に! 刃向かうな!」


 もう一度振り上げた拳を俺が掴んだ。

 脱線したが、そろそろ話を戻すタイミングだ。


「親であればすべてが許されるわけではない」

「手を放しなさい!」

「同様に、悲しき過去があれば横領が許されるわけでもない」

「……どうせ私が悪いんでしょ?」

「その通りです。1から100まであなたが悪い」


 握った手首に力を込めていく。


「イジけて発狂すれば糾弾から逃れられた日々はおしまい。あなたは重税で領内を壊すのみならず、有事の備えに手をつけた。筋目を正すために公的な罪を問います」


「はいはい。幽閉でも軟禁でも好きにすれば?」

「何を言ってるんです? 横領の罰は処刑と定められています」

「……は?」


 俺は彼女の手を放すと、ユリアーナから剣を受け取った。


「覚悟は良いですね?」

「ふん、はったりを。じゃあ殺せば? 殺せるもんなら殺してみなさい!」

「遺言と神へのお祈りぐらいは待ちますよ」


 剣を振って感触を確かめる。

 こちらが本気だと悟った瞬間、母上はおろおろした。


「ね、ねえ、冗談よね?」


「皆、良いか! 伯爵夫人は持病が悪化して天へ召された! くだらぬ噂をばらまく者は、親類や縁者を捕らえ、目の前でひとりずつ処刑する!」


「まさか貴族を、実の母親を殺すだなんて」

「閣下……」

「言うな」


 リシャールは何か言いたげだったが、諦めたように口を引き結んだ。

 暴れる母上をユリアーナが抑え込む。


「お嬢様! 誰か、お嬢様を助けて! 人殺しよ!」


 地に伏せられた老侍女が泣き叫んでいる。


「さ、やるか」


 そう言って配置についた瞬間、


「ずるい!」


 姉上が怒鳴った。

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