第77話
帰路の最中、村で宿を取った。
証拠の手紙をじーっと観察していたセヴランが口を開く。
「やはりこの手紙は妙なのでは?」
「何もかも妙な話だ」
「伯爵閣下が印章を用いるのであれば、子供の名前を使う理由がありません」
「理屈はわかるが、父上は芸術家。常人とは異なるこだわりの持ち主だ」
「ですが……」
彼にしては妙に食い下がる。
「言いたいことがあるなら臆さず言え」
「失礼ながら、私は伯爵夫人を疑っております」
「母上が?」
……………………。
無くはない、かも。
あの人が自力で何かできるなんて可能性、頭からすっぽ抜けていた。
「私は夫人に用事を言いつけられていた時期があります。また、秋の間はずっと伯爵閣下を観察しておりました。その経験からの印象ですが――」
セヴランは真剣な目でこちらを見る。
「あの夫婦の性格は真逆です。アルノー様は外面など一切気になさらず、どういった反応が起きようとも直接要求なさいます。エリーカ様は、その、外面や些細な優劣へやたらとこだわり、陰でこそこそと動くのを好みます」
外面……気にしてるんだ、あれで。
マウント気質ってのはよく理解できる。
「気分を害した端女を事故に見せかけて殺したことも」
「なるほど」
以前のエストはメイドの顔ぶれなど気にもしなかった。
注意深く観察すれば、そのような事件もあったのかもしれない。
「今回の件、どうにも夫人の影を感じまして」
「現時点はなんとも言えない。頭の片隅には留めておくが……」
「ご容赦を。立場を忘れておりました」
「いや」
薪が爆ぜる様を眺める。
本件、全員が疑わしく思えるんだよな。
俺自身、あまり人を信頼しない性格なのもあるが。
全方位が疑わしいなら、全方位に保険をかけておくか。
「セヴラン」
「はい」
「ここで別れよう。お前はケアナ城に向かってユリアーナとアメリーをガルドレードへ呼べ。それからな――」
母を疑うとき、同時に姉も疑う必要がある。
俺は彼にちょっとした任務を与え、翌朝から別行動を始めた。
◇
領主館に帰還すると、父上のアトリエへ足を運ぶ。
しかし彼の姿はなく、数人の芸術家が試行錯誤に打ち込んでいる最中だった。
初老の芸術家がこちらへ気づく。
「おや、代行様」
「父上は?」
「不在ですよ」
「珍しいな」
「今はほら、上のお嬢様が戻っておられます。味方を得た奥様が部屋の外を練り歩いていますから、あまり館の中に居たくないのでしょう」
「ずいぶんはっきり言う」
笑いを含んで答えると、彼はお茶目に片目を閉じた。
「物事をあるがままに観察する。それが私の作品なので」
近くの椅子へ腰を下ろす。
「行き先がわかる者は?」
「おりませんなあ」
「困った。話があったのだが」
「話とは?」
彼らは己の作品をしげしげと眺めながら雑談風味で乗ってくる。
物事を飾らず、あるがままに、か。
なんだか肩の荷を下ろしたくなってきた。
「金の話だ。父上が別の城の金庫を開いて送金するよう命令していた、という噂があってな。伯爵家のすべては父上の財産。当然の権利だが、領政にまで響きそうで」
「ふーむ。困りましたなあ」
芸術家はまったく困ってなさそうに答える。
「ご子息はどう思われているのです?」
「金蔵からいくらか出すとなると、春先が心配だな。妹を王都へ送るにも――」
「ああいや、ハハハ。私はお父上の振る舞いについて尋ねているのですよ」
「好奇心は猫を殺すと思わないか?」
「猫と芸術家は似ております。たとえ死ぬとしても、興味は曲げられないところが」
クリエイター魂ってやつね。
彼の妙に話しやすい雰囲気に当てられ、椅子を逆向けて背もたれへ腕を乗せる。
「今回はさすがに困った」
「お嫌いになりましたかな?」
「それはない」
芸術家は片眉を上げる。
「父上はいわゆる変人で優れた領主でもないが、俺にとって嫌な父親ではない」
「あの奥様を放任していても?」
「放任とは言うけどな……正直、あれは無理だろ」
俺たちは苦笑した。
母上が元気だった若い時期、最も忍耐を強いられていたのは父上のはず。
「先代がおられた時代は、あそこまで酷くなかったのですがね」
「祖父の時代からガルドレードに?」
「はい。肖像画を描くために招かれまして」
彼は絵具を混ぜ始める。
「当時はすぐに去るつもりでしたがね。描いてみたい人生と出会いまして」
「ふーん? おしゃれな言い回しだ」
「興味ありますか?」
「話したいって顔をしているぞ」
手の甲に顎を乗せ、芸術家の話に耳を傾ける。
彼の話はこんな内容だった。
あるところに、内向的だが感性豊かな少年がいた。厳しい家に生まれ、酷薄な父親に振り回されながらも、日常の中に常人とは異なる面白味を見出す少年だった。
彼は望まぬ環境に生まれ、やりたくもない家の仕事を背負わされていた。未熟なうちから矢面に立たされ、裏ですべてを操る父親の意向には逆らえない。
自由はない。選択肢もない。望まぬこと、間違いだと思うことを無理やり押し付けられ、失敗はすべて己の咎として認識された。彼はやがて気力を失った。
人生が失望と絶望に彩られていた少年。
そんな彼を変えたものがふたつある。
愛と芸術だ。
少年は想い人を見つけて愛を知り、芸術と出会って世界を色づかせるすべを得た。
彼の世界はもはや灰色ではなくなった。
自分が生きられる世界を手に入れたのだ。
しかし、幸福は長くは続かなかった。
現実はどこまでも彼を追いかけ、望まぬ相手との結婚を強いた。想い人とも引き裂かれ、さらには彼女と子供が何者かに殺されてしまう。
狂おしき感情の波に翻弄された末、彼は殺意を抑えて絵筆を握った。自分が意のままに振る舞えば、どれだけの惨劇が生まれるかを知っていたから。
記憶と感情をキャンバスへ叩きつけることで、虚しさと怒りをやり過ごした。
空想を駆使して現実と戦い抜いたのである。
根っから天性の芸術家なりに。
「初耳だ。父上に愛人と落とし子がいたとは」
「おや、アルノー先生の話とは一言も」
「白々しい」
芸術家は憎たらしい笑顔で肩をすくめる。
「外からは何だって言えますわな。でも、物事には今に至るまでの積み重ねがある。政治、芸術、人間。なんであれ、事情を知らない素人の批評ほど気楽で無責任なものはありません」
少し考え、肯定した。
「俺の推測は的外れか」
「この絵をご覧に」
呼ばれて椅子から立ち上がる。
「都市の風景画だな」
絵画の真ん中には塔が描かれ、左右で趣が異なっている。右側は朝の光が照らし、人々が祈り働く美しい世界が広がる。
対する左側は夜の真っ最中。泥酔、喧嘩、強盗、娘を誘拐する男たちなど、およそ倫理に反した光景が展開されていた。
仮題の欄には“現実”と記されている。
「右は美徳。左は悪徳。同じ場所にも異なる側面があるのですよ」
「一面的に考えるなと?」
「人生に名画を描くコツです」
初老の芸術家はまたお茶目に片目を閉じ、今度こそ黙して制作に戻った。
左右に動いて絵画を眺める。
わかるような。わからないような。
沈思していると大きな足音が聞こえてきた。
アトリエの入口にメイドが現れる。
「失礼します! 閣下はこちらだと!」
「騒々しい」
「申し訳ありません。ですが、お耳に入れたほうがよろしいかと……」
ヴァレリーが彼女から用件を聞き、こちらへ小声で伝える。
「わかった。すぐに行く」
俺は席を立ち、足早にその場を後にした。
目的地はリザベットの部屋だ。
メイドに先導されて階段を上り、廊下を早歩きする。
角を曲がればいよいよ、という地点で、奥からすさまじい怒鳴り声が轟いた。
「愚か者ッ! ダメ娘ッ! 親を悲しませる最低のクズッ! あんなにッ! 色気づいてッ! 汚らわしいッ! 開けなさいッ! 開けろッ! 出てきなさいッ!」
鈍い音が聞こえてくる。
ろれつも少し怪しいな。
酒か。酔っ払い案件か。
最悪の想像をしながら飛び出すと、少しだけマシだった。
母上が発狂しながら部屋の扉を殴っており、老いた侍女が周りへ殺気を放って威嚇している。この老女は母上の腹心で、地元から嫁ぎ先まで同行してきた人物だ。
惨状にはギャラリーもいた。
姉上は袖で口元を隠している。
驚きを装っているが、あれは笑っているな。
義兄上はおろおろしながら、姉上と部屋の扉を交互に見つめている。
メイドたちが遠巻きに様子をうかがっており、その輪の前にはフラムリス家の令嬢が。彼女は左手で頬を押さえ、涙目のまま震えながらへたりこんでいる。
母上は扉へ顔を張り付け、ゼロ距離で犬のように吼えた。
「誰が逃げていいと言ったーーーッ!? ふざけんじゃッ! ないわよッ! このバカッ! 恥ずかしいッ! 親のことを見下しておちょくってるんでしょッ!?」
『そんなことない……!』
「あんたの耳は腐ってるのかッ!? 何度も何度も何度も何度も口答えしてぇッ! 人がせっかくあんたのためを思って言ってあげてるのに、断るなんて何様のつもりッ!? どうせ私がやることなすこと全部が気に入らないんでしょッ! だったら出ていけッ! 家名を捨ててよその子になりなさいッ! ええ、結構ですとも、醜い娘が消えればせいせいするッ! あんたなんか私の娘じゃないッ! 早く消えろッ!」
『もうやめてよ!』
部屋の中から、リザベットの悲痛な叫びが返ってきた。
「お、おかしいですわよ、こんなの……」
「おだまり。また痛い目に遭いたいの?」
令嬢が抗議するも、母上の老侍女にすごまれて引っ込む。
俺は案内してきたメイドに尋ねた。
「いつからだ?」
「4時間ほど前からです。いったん離れたと思ったら何度も戻ってきて、2時間前からはずっとあの調子です」
「よくぞ報告してくれた」
メイドの肩をさすり、ゆっくり現場に近づく。
老侍女が行く手を阻んできた。
「坊ちゃま、お控えなさい。お母様の邪魔をしてはなりません」
スルーして、フラムリス家の令嬢の前にしゃがむ。
「あ、あの。えっと」
「叩かれたのか?」
「ええ、まあ」
「誰にやられた?」
令嬢は老侍女を指差した。
「どれぐらい?」
「4発、ですけど……」
目頭を押さえてから立ち上がる。
振り向いて老侍女へ問う。
「叩いたのか?」
「叩きましたとも。だから何です?」
顎を持ち上げての挑発的な反問。
俺は彼女のほうへ歩いていくと、
「だから、お待ちなさいと――」
その顔面へ、老若男女平等パンチを決めた。
老侍女は派手に倒れ、再起動すると心臓発作でも起こしそうな顔でキレた。
「何をするッ!」
「愚か者め、彼女に謝罪しろ」
「たかが端女ごときに謝罪ですって? ふざけないで! この私はノートガルム公国の貴族、リサンデンセン家の一族よ!?」
「貴様が殴った相手もアルヴァラ王国の貴族、フラムリス家の令嬢だ」
「えっ!?」
老侍女は言葉に詰まった。
しょせんノートガルムは遠方の他国で、フラムリスは王国西部に長い歴史を持つ家。危険度の具体性を鑑みれば、配慮の優先順位は明確だ。
俺は令嬢へ片膝をついて謝る。
「レディ。謝って済む話ではないが、館内の者がとんだ無礼を」
「そ、それよりもリザベットさんを!」
「わかってる」
扉にヘビメタシャウトを決めている母上を引きはがす。少し乱暴に突き飛ばすと、転んだ母上は“よよよ”と泣き崩れた。
いやいやいや。
その発狂で被害者ヅラは無理でしょ。
扉を軽くノックする。
「リーザ。聞こえるか?」
『……お兄様?』
「もう大丈夫だ。移動しよう」
『でも、離れると部屋の中にまで』
「信頼できる者に封鎖させる。ヴァレリー」
「はい! 命に代えてもこの部屋を守ります! 誰にも一歩も踏み込ませません!」
ほんの少しだけ扉が開く。
ヴァレリーが熱っぽく何かをささやくと、不安げなリーザが廊下へ出てきた。
「待ちなさいッ!」
びくっと震えたリーザの背を押し、後ろを固めながら歩く。
姉上の前を通る瞬間、声をかけられた。
「あらあら、英雄のお通りね」
「仕組みましたか?」
「まさか! 信じられない。実の姉に冤罪を被せるなんて」
「もちろん冗談です。姉上は腕のいい魔物使いですから、つい」
アルビーヌはすまし顔のまま鼻を鳴らした。
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