第55話 最悪の日


 ニコラ司祭はざわつく民衆へ呼びかける。


「リザント家のダミアン殿は、甥を殺して自ら和平を壊した。彼の従者を殺したのは彼の騎士だ。神に誓って、この目で見たことに偽りはない」


「皆の者、騙されるな! この老人は私欲に駆られて神を裏切っている!」

「彼のような聖人に何を言う!」

「ニコラ様がそんなことするものか!」


 リザント家の騎士が大声で証言を潰そうとするが、今度は民衆の反応も悪かった。業を煮やした騎士は部下に命じる。


「あいつは悪魔の手先だ、殺せ!」


 平兵士たちは尻込みする。

 彼らが動かないと見た騎士は、下馬して司祭へ近寄った。


「道を開けろ。さもなくば死だ」

「すでに大勢は決しています。武器を降ろしなさい。無駄な流血を避けなければ」

「…………」


 騎士は剣を構えた。

 ニコラ司祭はため息をつき、人間の鎖を解いて部下から長い何かを受け取る。布が取り払われ、長剣が姿を現した。


 斬りかかった騎士はたった三手でねじ伏せられる。彼の手から剣を叩き落すと、司祭はその首に刃を突きつけた。意外な結果に騎士も、観衆も、全員が驚愕する。


 え。いやいやいや。

 君、そんなに強かったの?


「殺すのか」

「いいえ。ですが退いてもらいます」


 中年の騎士はやるせなさそうに数歩下がる。それを見届けると、ニコラ司祭は長い長い深呼吸をして、老人とは思えないほどよく通る声で人々へ語りかけた。


「いつもは皆の懺悔を聞く立場だが、今日は私が悔い改める日だ。裁定は神に委ねて今こそ私の罪と真実を語ろう」


 彼は民衆を手招きする。

 ぞろぞろ山を下りてくる民衆。

 誰もが現状を訝しがりながらも、司祭を中心にして半円形に座る。


 リザント家の軍勢は人海に呑まれて身動きが取れなくなった。


「私の元の名はニコラウス。ユベール家のニコラウスだ。貴族の生まれだが、世俗の道を捨てて信仰に生きると誓った。……パンと水だけ卿というあだ名を知っている者もいよう」


 パンと水だけ卿。

 王都でも聞いた言葉だな。


「かつての私はどんな人間だっただろうか。人々の見ている場所では、素晴らしく、気さくで、慈悲に満ちた人間を演じていた。人目のない場所では――」


 彼は苦痛をにじませて首を振った。


「何もしていないだけの悪党だ」


 そんなことない、と弁護する声を手で制し、司祭は思い出すように語る。


「強欲すぎる人間だった。誠実な信徒を装っていた。しかし、その本質は信仰心ではない。だから誇らしげに、得意げに、これ見よがしに敬虔さを自慢していた。当時は己を神に忠実な騎士だと思っていたが、実像は違う。ただただ世間の賞賛を求めていたのだ。それで偉くなった気になれるから教えを崇拝していた。意味も考えずに」


「…………」 


「そんな愚か者へ、神は罰を下された。強欲の罪を犯していた私は、より褒められようと上辺だけの正しさに憑りつかれ、不必要な見栄を張り、大失敗の末に家を潰した。貴族社会に居場所がなくなって、決意ではなく、逃避のために聖職者となった」


 誰も何も言えない。

 その欲求に心当たりのない者は皆無だ。


 いるとすれば、まさに見栄っ張りの嘘だな。


「私を聖者と呼ぶ声もある。昔の私なら、内心は鼻高々に、表向きはしおらしい顔で謙遜するフリをしながら受け入れただろう。今となっては茨の鞭で打たれているに等しい。ありのままの己は、その称号に値しないと知っているから」


 静寂が辺りを支配した。

 敵も味方も関係ない。


 普遍的な人間性の話がこの場を圧倒している。


「では、聖者と呼ばれるにふさわしい者とは?」


 彼は問いかける。


「いかなる場所でも態度や方針が変わらぬ者……個人的な名誉や名声を追い求めず、そのためかえって賞賛から逃れられない者ではないだろうか?」


 問いかけ続ける。


「どう思われるかなど顧みず、人々のために黙々と働く人。誰も見ていない路傍で、見返りがなくとも貧者を助ける人。常人には到底成し遂げられない偉業を果たしながら、その成果を気にも留めず、全財産をなげうつような人ではないだろうか?」


「……………………」


「これらの善行を鼻で笑って明かしもしない人は、まさに聖者のひとりだと思う」


「そんな人がこの世にいるのですか?」


「いるとも」


 ニコラ司祭は揺るぎなくうなずいた。

 へえ、そんな偉い人がいるのか。


「ある人が私に向けてこう言った。己は悪罵にも軽蔑にも慣れている。大事なのは民が死なないという結果、どう思われるかなど些細なことだ、と」


 ……ん?


「彼は疫病から人々を守り、その手柄を伏せた。人通りのない道端で毛皮のコートを貧民へ譲っていた。売って人生の足しにするように、と。苦労して手に入れた宝物を売り払い、王都の高官と渡り合って得た莫大な財貨を惜しげもなく手放してみせた」


 えっ。

 おい、まさか。


「教えてください。その御方の名を」

「ヴェルデン家のエスト卿」


 世界から物音が消える。


「エスト・ヴェルデンという人物の真の姿は、このニコラウスが見届けてきた。神に誓って証言する。かの人が民衆のために身を粉にし、命をかけて働いてきたことを」


「そんなことって……」

「いくら司祭様の言葉でも」

「信じられないですよ」


 人々は困惑した。


「エスト卿が麦畑を焼いたのは、皆を狂笑の実から守るためだった」


「でも、害虫卿は自分がいい思いをするばかり。何もしてくれないじゃないか!」


「いい思いとは?」


「そりゃあ、王都で儲けてそいつを懐に――」


「懐に入れた証拠がどこにある?」


「えっ、いや」


「王都で叱られて蔵を開いた話も事実だと?」


「違うんですか?」


「思い込みと悪意から妄想を押しつける行為には、怠惰、憤怒、嫉妬、傲慢、強欲、あらゆる大罪が詰まっている。あなたはその言葉に命と信仰を賭けられるのか?」


 声が大きい平民はむすっと黙り込んだ。

 ニコラ司祭はぐるっと周りを見渡す。


「エスト卿は邪推されるのを承知のうえで、悪罵すら赦しておられる。だが、我々は知っておかねばならない」


 ヤバい。この流れは……!


「待て、司祭」


「私は懺悔し、告白する! エスト卿は飢饉の到来を予見しており、領民のために竜狩りの証と魔族の首を手放した! そして、引き換えに得た大金のほとんどすべてを、皆へ配る食料のために費やしておられるのだ!」



 あ。




 あ、あ、あ。





 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!



 ふざけんなぁあああーーーーーッ!!


 クソがよぉおおおーーー!



 最悪だ!

 この老人、最悪のタイミングで暴露しよった!


 お、終わりだよ。何もかも。





 ――――特例は利権化する。


 一度でも尻を拭かれてピンチを逃れた者は、成功体験を得てさらに怠惰になる。助けがないと思っていれば本人なりに緊急事態へ備えもするが、支援の手が入ったら、どうせ救われるからとまともに働かなくなり、全財産を享楽へぶち込み始めるのだ。


 寄りかかれる対象を見つけると責任を押しつける。これはもう人の本能みたいなもの。しかも後ろめたさを払拭するため、どんどん横柄になっていく。あらゆる政府が公助の拡大を渋り、素人が債務者やギャンブル中毒者を助けてはいけない理由。


 際限がないのだ。


 いかにもクズの話ながら、大半の人間にはこうなる素質がある。賭博にのめり込まない人も根っこの精神性に博徒との違いはない。恥とか常識とか、何らかの外部要因に抑え込まれているだけ。


 下手な救済はこのつっかえ棒を叩き壊す。

 甘やかしや過剰な善意は地獄のような結果をもたらす。


 そして、彼らに二度目の救済がなかったら?

 助けられた恩を忘れて相手を激しく恨む。

 その恨みを免罪符にし、さらに悪質になる。


 事実を指摘されれば発狂して脅す。数の力には理非を覆すだけの猛威があるから。


 つまり徳政一揆時代の幕開けだ。


 俺はその狂乱を最も危惧していた。


 救済者が領主一族だとバレれば、民は何か困るたび政治を叩けばいいと学習する。毎年数十億を超える出費を期待してくる。しかも経費の想像をするやつはいないから、過大で厚かましい要求をしている自覚もない。


 やって当然。

 やらなければ無能。


 タダでくれるのがいい人。

 無料でやらないのは悪人。


 自分は何もしないけどお前は分けろよ。

 いっぱい持ってるんだから別にいいだろ。


 そんなシンプルな認識にはめ込まれたら? 

 一生を自助努力しない者たちのケアに吸い取られてしまう。


 ひとりひとりはちょっとだとしても。

 何十万人、何百万人が要求すれば生贄の人生をしゃぶりつくしても到底足りない。


 で、庶民は基本的に自分のことしか考えない。

 自分の分、自分の財布しか勘定に入れない。


 自分は“ちょっと”しかもらってないから、あいつは何もやってない。


 平気でそうのたまう生き物だ。


 もらうのは当然で、何かをしてくれた範疇には入らない。むしろ憎む。憎まないと、相手が悪いと思わないと、自分の非と責任が明確になってしまうから。


 このような人々が褒め称える聖人とは、最も都合がいい奴隷のことに他ならない。だからその役回りだけは嫌だった。


 他人の世話が大好きな教会へ押し付けようと思っていたのに……!


 今年の配給は、あくまで大量餓死を防ぐための応急措置に過ぎなかったのに……!


 善意か、はたまた意図的か。

 いずれにせよ。


「やられた」


 世界がぐにゃりと曲がる錯覚。

 俺はまたしても膝から崩れ落ちた。


「総額900万クーラもの大金を投じてもらいながら、何もしてもらってないというのは、あまりにも傲慢だと思わないか?」


「そんなに……」


「…………」


「ニコラ様は、我々を騙していたのですか?」


「……そうだ。私に賞賛が集まるよう振る舞うのも、エスト卿が悪党を演じるのも、すべては彼自身の発案だ。それが皆の希望になるなら、と引き受けたが、身の丈に合わない賞賛を受けることほど苦しいことはなかった。自分に呆れたよ。若き日の己はこんなくだらないものに執着していたのかとね」


 衝撃を受けて黙り込む民衆。

 他の聖職者たちに確認の視線が向けられ、彼らも神妙に肯定した。


 ニコラ司祭を責める声はない。

 そうするには、彼の表情はあまりにも潔い穏やかさに満ちているから。


「私は改めて証言する」


 司祭は顔のシワをくしゃくしゃにして笑う。


「閣下が民の食料を配給すると言ったとき、私はその言葉を疑った。すると彼は、剣を長椅子へ突き立てた。いずれ取りに戻る、さもなくば我が首を切り落とせと。騎士失格のパンと水だけ卿に覚悟を託した……」


 彼は手にした長剣を掲げた。


「これがその剣だ!」


 陽光を反射する剣に万余の視線が集まる。


「ひとりの貴族として、騎士だった者として、聖職者として。私はエスト卿に敬意を払う! 己を輝かせるばかりで周りを不幸に陥れた私と違い、たとえ名を穢しても民を守る覚悟のある方だ! 我欲のために裏切った旗主たちとは格が違う!」


 ニコラ司祭は言い切り、こちらへ近寄る。


 まだ何かすんの?

 もう勘弁してくれよ……。


「エスト卿!」

「あ、はい」


「たとえ己に嘘をついても、神に嘘はつけません。私はあなたの功績を盗みました。どうか裁きを。この剣で我が首を刎ねていただきたい」


「えぇ……」


 何言ってんだこの爺ちゃんは。


「ん-と、その。功績の扱いはこちらが要望したこと。罪ではないのでは?」

「それでは騙された者に顔向けができません」


 んなことどうでもいいから勝手にやってくれ!と言いたいところだが。

 今は戦の最中で、このタイミングが勝敗の決め手になる事実を忘れてはいけない。


 仕方ない。

 起きたことは諦めよう。

 せめて一片の利を拾わねば。


 ゼロはダメだ。ゼロだけは。


「司祭は過去の罪に捉われるばかりに、他人の咎を見ないようにしている。俺は俺で聖人などとは程遠い人間だ。思うに、聖なる者という称号に値するのは偉大なる神だけではないだろうか」


「人に聖人はいないと?」


「貴族、平民、神官、人間は誰もが罪深い」


「おお……」


「神の下の平等……」


 聖職者の感嘆が周囲へ伝わっていく。


「その通り。この世には身分があり、領主と民の間柄なら裁くこともできる。しかし俺が誓いを立てた相手は司祭ではなく神である。人にできるのは、赦すことだけだ」


 俺は司祭の剣を奪い、地面へ深々と突き刺した。


「貴公を赦す。私に赦せる限りのすべてを。今の罪も、過去の失敗も、何もかもを。俺は昔の俺ではない。貴公も昔の貴公ではない。この機にすべてを捨てるがいい」


 宣言すると観衆の空気が変わった。


 赦す。


 教会諸国人の心をくすぐる魔法の言葉。


 東洋では、罪は罪として徹底的に断罪されるのが筋という考えが主流だ。偉いのは無実の者なのだから、と。その基準からすると赦しの文化というのは奇異に映るが、西洋の宗教観、社会通念には、人は誰しも罪深いという前提がある。


 罪を犯さない人は存在しない。

 機会がないだけで、無実の者などいない。

 だから責めるのではなく赦すべきだという。


 どうやらこの魔法、西洋の教会文化と酷似しているこの地域でも効果抜群らしい。


 あまり使いたくない手だが、状況が状況だけに仕方ないか。俺はリザント軍の兵士たちや、辺り一面の観衆たちに呼びかける。


「皆、ひざまずけ。お互いを赦すのだ。もともと和平を結ぶところだった」


 腕を上げ下げして座るように誘導する。


「人が人を赦したら、次は神へ愚かさの赦しを乞わねばならん。神よ! 慈悲深く、偉大なる主よ! なにとぞ罪深き我らを救いたまえ! 願わくば、家のために散ったリザントの一族にも安息を与えたまえ!」


 魔法の言葉、その2。

 皆で仲良く神様に頭を下げよう。

 この言葉に逆らうやつは人でなしな。OK?


 レッテル貼りの圧力もまた有効なのだ。


 天を仰ぎ、それから低く頭を垂れる。

 ひとり、またひとりと同じ姿勢になり、うねりは波のように広がった。


 なんだかよくわからない空気の中、やらなきゃいけないような雰囲気に折れ、敵の兵士たちも周囲に倣う。どうやら逆襲を期して盛り上がってたのは上だけで、末端はとっとと降りたがっていた様子。


 チラっと視線を上向ければ、中年の騎士――リザント家の当主――が未練がましい表情でこちらを睨んでいた。


 俺はニコニコと笑い返す。


 わかるよ。

 気持ちはわかる。


 もしもニコラが普通の司祭なら?


 前に出てくる勇気なんてなかったはず。


 この場ではビビって逃げるか口をつぐんで、後日、憂えた表情でため息をつくか、こっそり懺悔するか、いい顔をしてそちらのストーリーに合わせてたんだろうな。


 聖職者とて人間だから。怒り狂った群衆相手に正論を通す者などそうそういない。


 ソロバンを弾いて評判の悪い害虫卿を切り、奇跡の逆転を果たした英雄を持ち上げる可能性に賭けるのは非現実的ではない。


 俺さえ殺せば先のことはどうとでもなる。

 最悪、事後に教会の高官を懐柔すればいい。

 他に手もなかっただろうし。


 お前の覚悟は素晴らしかった。


 だが、彼は人間として狂っていた。並人なら誰でも備えている生命を惜しむ機能、腐敗を是とする機能が何かしらの理由で壊れていた。


 俺も司祭の過去なんて知らなかったし、さすがに死んだかと思ったよ。


 騎士のプライドを捨てて弓を使う勇気があれば、お前は勝っていた。

 名誉を捨てて問答無用で聖職者を殺す勇気があれば、お前は勝っていた。


 悲しい事故とかなんとか言ってさ。

 実際、戦場に飛び込んできたほうが悪いし。


 この結末は俺の実力じゃない。

 俺の実力ではないが……。


「フフッ」


 勝負あったな。

 悪いがこれで手じまいだ。


 この状況で戦おうなんて言い出せば、たとえ勝っても先がないのはわかるよな?


 まあそう怒るなって。ダメージはこっちのほうが圧倒的に大きいんだから。


 俺は時の運、兵家の常、という言葉を思い出しつつ、戦場で勝ちを確信したのに偶然が重なって負けた武将たちのことを考えていた。

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