第50話 招かれざる訪問者
バリック・フォルクラージュはコップをあらゆる角度から眺めると、なんだか嬉しそうに言った。
「驚いた。まさか同じことを考えていたとは!」
えっ。
なにそれ。煽ってます?
「取り返しのつかないものを取り戻すのは無理だ。ならば空になったコップへ新しく水を注ぐしかない。父親同士は修復不可能。我らの代が個人的な友情を育むことで、両家の問題を解決しようというのだな?」
ポジティブ~~~!!
すっごいポジティブ思考だこの人ー!
「いや、戻してほしいのはこぼれた水……」
「皆まで言うな。お互いに立場があり、言葉にはしづらいだろう」
「貴公は勘違いをしておられる。ヴェルデン家にはフォルクラージュ家からの侮辱を容認する意志などない!」
「ヴェルデン家には、か。このバリック、貴公の心遣いを察せないほど愚かではないぞ。安心したよ。やはり剣に生きる者は話が早くていい」
「全然ちが」
「そうとも! このくだらない諍いには誰かが終止符を打たねばならん!」
「話を聞いてくれ!」
バリックは右手をぐっと握って講演者みたいに歩き始めた。
「ヴェルデン家の曾祖父、我らの曾祖父、ヴェルデン家の祖父、我らの祖父兄弟、そして伯爵閣下と我が父上。3代も続くいがみ合いに皆が疲れ果てている。国境守護の使命を担う者として、私もまた心を痛めていた……」
「…………」
なんか言わなきゃ。
言っても通じないんだろうな。
気力が削られる~~~。
「だが、しかし! ヴェルデン家から始めた争いを、ヴェルデン家の次期当主が自ら収めにかかるとは! よくぞ打ち明けてくれた。その気持ちがとても嬉しい!」
「……ん? ヴェルデン家から始めた争い?」
「そう聞いているが」
ん?
んん~?
「アンドレ卿は幼い頃より我が父を公然と侮辱していたではないか。貴公の大叔父もあることないことヴェルデンの風聞として吹聴してきたはず」
「貴公の祖父、ロイク卿が我が祖父兄弟を執拗に中傷した報復ではないのか?」
「初耳だな。そもそもフォルクラージュ家が曾祖父の働きを盗んだところから……」
「いや、ヴェルデン家の先々代は我が曾祖父の領地と特権を奪おうとして――」
俺たちは互いの知り得る情報をぶつけ合い、徐々に口を閉じる。
これ、ひょっとして。
「お互いに、都合の悪い部分は隠されていた?」
「……かもしれん」
バリックは困ったように頬をかく。
ちょっと待て。
それは話が変わってくるぞ。
自分の非は徹底的に隠し、やられたことばかり伝え残していると、それを見た後世の人間は己だけが一方的な被害者だと錯覚して剥奪感を募らせる。
すると想像上の加害者を罰することは正当な要求だと考え、“報復”にのめり込む。
やられた側からすれば単なるいちゃもんだ。
両成敗で済ませるべき話を蒸し返され、我こそが被害者だー!と殴ってくるなら、むしろその行為こそが一方的で不当な“攻撃”であり、己は被害者だと考える。
その時点で過去の話では済まない。
現実に殴られているわけで、最新の問題として深く根深い亀裂になる。
こうして客観的な事実を欠いた“主観的な真実”が新たな物語を生み出し、お互いを被害者と位置づけ、終わらない憎しみを再生産して収集がつかなくなるのだ。
前世、あらゆる地域の二国間関係、もしくはあらゆる社会の二者間関係において。執拗に侮辱と攻撃を加えた側の人間が、反撃を受けた瞬間に“あいつから攻撃された”、“自分たちは被害者だ”とアピールする事例がいくつもあった。
むろん無知な第三者を騙して味方に引き入れる狙いもあっただろうが、その寸劇は戦略だけでは続かないほどの情熱に満ちていたものだ。そして、殴られたうえに話を切り貼りされた側は、いよいよ「連中は頭がおかしい……」と軽蔑を深めていた。
この手の問題は取り扱いが難しい。
どちらの視点から見ても、相手はその頭がおかしいやつと映る。
タイムマシンを作って最初の卑怯者たちを殺す以外の対処法はなきに等しい。
事実や大局を見据えて解決にあたる人間は、必ず裏切り者と呼ばれ、石を投げられるからだ。下手しなくとも失脚・収監・殺害のコースを辿りがち。
……待てよ?
これは使えるかもしれないな。
「――ふぅ。参ったな。貴公には隠し事などできない、か」
「ならば!」
「互いの民が上手くやっているのに、領主同士は険悪なまま。皆もさぞ心配だろう。しかし、こうも根深くて複雑な怨嗟の糸を
「諦めるのは早い。私と貴公の間には、まだ何も起きていないではないか!」
「貴公とはな。だが、そちらの弟妹からあのような非難が発された以上、諸侯は我らが争う前提で陰謀を仕組んでくるだろう。それはやがて本物の憎しみになる」
「……なるほど。それで水を戻せときたわけか」
いえ、まったく違います。
俺は沈痛な面持ちでうなずく。
「アルヴァラの善良な民が飢えるのは心苦しい。が、この問題を解決しないことには支援など夢のまた夢。何しろ当主があの有様ではな」
「わかった。何か手立てを考えてみる! 今日のところは領地へ戻るとしよう!」
彼はコップを強く握ってこちらを見た。
「貴公と話せてよかった! 垂れ込む暗雲に天使の梯子が下りてきた心境だ!」
「また会えるのを楽しみにしている」
「必ずな!」
バリックは踵を返して颯爽と歩き去っていく。
◆
入れ替わるように父上が入ってきた。
彼は半ギレで詰め寄ってくる。
「エスト! 今の話はどういうことだ!?」
自分から退出したわりに、気になって話を盗み聞きしていたらしい。
「どうもこうも、必要な話をしたまでです」
「フォルクラージュと手を結ぼうというのか!?」
「いいえ。当代か次代、どちらかを潰せれば上々だと考えています」
「潰す……?」
不穏なワードに興味を引かれた父上は怒気を抑える。
「さすがは聞きしに勝るプリミエール。立派で偉大な男ですが、フォルクラージュの家臣や旗主たちもそうとは限りません。彼が動けば動くほど軋轢が生じます。なんといっても、向こうは自分を被害者、ヴェルデン家を宿敵と考えていますから」
「ふむ。排除したい勢力が現れるか」
「父上。侯爵は権力に執着する性格ですか?」
「あいつは無実の人間を痛めつけるのが好きだ。支配欲の塊で、上から周囲を見下すことを好んでいる」
話半分だとしても、国境担当の当主などボス気質でなくては務まらないか。うちに彼をこき下ろす資格があるのかはともかく。
「それは素晴らしい」
「やつを褒めるな」
「バリック卿に想像以上の人望があっても策は潰れないという意味です。彼は将来の後継者。だから優秀でも愛を注がれます。それが今現在の実権を脅かす存在と化したとき、侯爵の内心はどうなるでしょうね? 仮に、旗主たちが侯爵よりも嫡男のほうをより優秀な指導者とみなしたら?」
「……やつのことだ。妬まずにはいられない!」
「これはヴェルデンにはない問題。父上は己の価値づけを他人に頼らない。絵画の中に描けますからね。ですが、人の中心点を望むアンドレ卿は」
父上とアイコンタクトする。
彼は歯茎を見せて笑った。
人気者は、別の人気者をやんわり嫌うものだ。
「かつて私のために死んだ騎士が、人生に対して捨てる勇気を持てと」
「捨てる勇気?」
「ええ。父上は見栄や立場を捨てる勇気を持っていました。アンドレ卿が父上よりも勇気ある男かどうか、じっくり見定めるとしましょう」
「アンドレのやつが苦しむ間、私は楽しく絵を描いていればいい」
「そういうことです」
父はすっかり怒気を霧散させ、ルンルン気分で広間を出ていった。
その背を見送り、床にどさりと座る。
「セヴラン」
「はい」
「侯爵家が冬を越すまでの支援は可能だと思うか?」
「当家単独では不可能です。三男爵やアサンゾード子爵ならともかく、侯爵家の領地は我々よりも大きいのですから」
「なら支援の用意は形だけに留めよう。公爵と宰相に手紙を書く」
「秤に重りを載せるのですな」
「ああ。摂政にやられっぱなしじゃいられない」
しかしあの女、なぜこのような真似を?
セヴランたちが広間を出ていくと、俺は床へ大の字になって思考の海に沈んだ。
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