第37話 悪魔の爪
ライ麦や小麦、オーツ麦などの麦類に『麦角菌』という強い毒性を持つ菌が寄生し、それを人や家畜が接種することで中毒症状を引き起こす現象だ。
麦角中毒になると、手足の壊死、精神異常、流産、ひいては死を招くケースも少なくない。地球のヨーロッパの歴史では、これが何度も大騒動を引き起こしている。
壊死の特徴から黒死病と勘違いされるケースもあったようだ。
汚染された麦には顕著な特徴が現れる。
穂の中に、黒い角状の菌核が形成されるのだ。
「殿様、ようこそおいでに。何もない辺鄙な村ではございますが――」
村長の挨拶が耳から抜けていく。
ふらふらと小麦畑を観察して回ると、どの畑も完全に汚染されていた。
「ライ麦は? どこにしまってある?」
「はあ。こちらでございます」
食糧庫を検める。
収穫されたライ麦の中には黒いものが大量に混入していた。粉挽きのときに除ければいいと思っているのだろう。
「食べた者は」
「いえ、まだ。そろそろパンにする時期ですが」
「それはいい!」
まだ食べたやつはいない。
意味を取り違えた村長のごますり笑顔を横目に、ふたたび小麦畑へ戻ってくる。村の古老が嬉しそうに畑を眺めていた。
「ずいぶんと見栄えの悪い畑だ」
「ええ、ええ。罪深い人間を神が叱っておられるのでしょう」
「これを食べるのか?」
「もちろんです。神の恵みを無駄にするわけにはいきませんわい」
「見るからに危ないが」
「ほくろが目立つものもありますが、大丈夫。なあに、かえって免疫がつきます」
「そうか」
どうする? どうするべきだ?
対処すれば飢饉。放置すれば悪病。
移らないと伝えて信じる者はいないだろう。
飢饉は人を狂わせる。
疫病も人を狂わせる。
戦いようがあるのは前者か。
……よし、決めた。
「ヴァレリー」
彼女を指で呼びつける。
「こやつの舌を切り取れ」
「なんですと!?」
古老が腰を抜かし、村長が割って入る。
「お待ちください。この者が何か粗相をしましたでしょうか?」
「この麦は呪いに侵されている。口にすれば死に至る呪いだ。それをこやつは免疫がつくなどと抜かした。民を惑わす不届き者は罰する」
「お赦しを。悪気はないのです、どうかお赦しを!」
「ならん。流言を広める者は一度目で舌を切り取り、二度目で首を刎ねる……公に交わした約束は違えない。やれ」
彼が無知なのを責めるべきではない。
俺はあくまで効率のために彼を拷問する。
疫病対策で最も害悪なのがこの手の人間だ。彼らは善意のつもりで大勢を巻き込んで死なせる。度が過ぎたのんき者は、自分のみならず他人まで殺すのだ。
千丈の堤も蟻の一穴より崩れる。こういう危機感の欠如した人間がひとりいると、いかなる対策も徹底されずに崩壊してしまう。
一罰百戒。見せしめが必要だ。
ヴァレリーは寸分の躊躇もせずに古老を殴って舌を切断した。
「たいまつを。すべての麦を焼き払え」
「なにとぞ、なにとぞ怒りをお解きください!」
「貴様らに罪はない。だが、放っておけば死ぬのを黙って見過ごすことはできない」
「そんな! この麦がなければ、それこそ我々は飢え死にです!」
「構うな。早く始めろ!」
さすがに衛兵たちも困惑している。
その尻を蹴り上げたヴァレリーが率先して麦に火を放った。村長が崩れ落ちる。
「あああああ。なんと、なんということを」
「やめてください! どうかお慈悲を!」
「俺たちに死ねというのですか!?」
村人たちが不穏な様子で集まってきた。
「無礼者。閣下の言葉を疑うな!」
ヴァレリーは詰め寄ろうとした村人を剣で脅す。小柄な体躯からは想像もできない迫力に気圧され、鋤や鍬を抱えた者たちがよろめく。
「待ちなさい。どちらも武器を降ろすのです」
その集団をかき分け、我々の間に割って入る者がいた。
……教会の神官たちだ。
「司祭様!」
「ニコラ様!」
「おお、神よ、どうか我々をお守りください!」
神官は村人たちをなだめ、こちらへ一礼する。
「私は近くの教会を預かる司祭でニコラと申します」
「ヴェルデン伯爵の息子、エストだ」
「あなた様が。それで、この野蛮な振る舞いは何事です?」
「悪魔の爪を焼き払っている」
「麦畑のアレですか?」
「そうとも。神に仇なす悪魔の呪いだ……食糧庫も燃やせ!」
「ハハッ!」
「なりません」
ニコラと聖職者たちが立ちふさがる。
「世俗の方が悪魔の行いと断定するのは教会への挑戦。ご領主様の子息といえども見過ごせませんな」
「太陽が東から昇る原理をいちいち説明しろというのか」
「せねばなりますまい。たとえ疲れ果てるとしても」
「なぜ」
「我々人間は言葉なき獣とは違うからです」
俺は彼の顔をずいっと覗いた。
老司祭の額には、人生で向き合ってきた苦悩の証が刻まれている。
「ふむ」
俺が説明を嫌っている理由のひとつは、何を言ったところで、誰が言ったか以外は意味を持たないからだ。無価値な徒労を得るぐらいだったら、始めからやらないほうがマシだと思っている。
しかし、ここに民衆という超絶お気持ちモンスターへ絶大な説得力を持つ存在が現れた。焼き払った食料を補填するにも時間がかかる。教会の権威を借りておくか。
「俺も好き好んでやっているわけではない。少し話せるか?」
「丘の教会へ参りましょう。ですが放火はやめさせてください」
「いいだろう。ヴァレリー」
「はいッ!」
「こやつらが麦を隠さないよう見張っておけ」
◆
怨嗟の視線を向けられながら、数人の護衛を連れて教会へと向かう。教会のある丘は小さな湖のほとりにあり、周囲の農村が一望できた。
「カーヴィリエ教会堂へようこそ。ここは聖アルケキアを守護聖人としております」
「オンボロだな」
「厳しい毎日ですから。さあ、話を聞きましょう」
「その前に」
俺は聖像の前にひざまづいた。
「天にまします我らが神よ。願わくば御名を崇めさせたまえ」
両指を組んで一心不乱に祈る。
ついでに各教のお祈りも内心で唱えておく。
あまり信心深いタイプではないが、死んだと思しき自分がこんな状況に置かれている以上、神仏とやらは絶対に存在するわけで。蔑ろにするリスクは無視できない。
それに信心深くないからといって、神が嫌いなわけではない。
現代社会では、神を妄信する人々、神を免罪符にする卑怯者たちの害悪のみが取り沙汰されていたものだが、俺は頭の上に己以上の存在を持たない人間の思い上がりや狂乱の数々も目にしてきた。
信心深さと無信心。
どちらも一長一短だ。
人間が陥る多様な問題と同じく、関わり方や接する側の心構えの問題なのだろう。健全な信仰心を扱う者が、世の中に安定や好影響を与えるのもまた事実。
宗教には、それが生まれて必要とされ、広まっていく理由が確実に存在するのだ。
その場しのぎのために人を殺している己が救われるとは思わない。それを望む資格すらない。だとしても、神が実在する根拠を感じられる俺とは違い、あやふやな神という哲学を信じて人生を利他のために使う、誠意ある人々を貶める気にはなれない。
ゆっくり目を開き、教会の中を観察した。
ボロボロながら手入れを怠った形跡はない。
司祭たちの服は古びて擦り切れているものの、聖像や礼拝空間はなるべく清潔に保とうという苦心の痕が見受けられた。
「あなたは神を信じますか?」
「信じる、信じないではない。絶対に存在している。俺はそれを知っているのだ」
断言すると、聖職者たちの敵意が和らいだ。
「その真理をわきまえながら、どうしてあのような真似を」
「蒙昧な民に話したところでらちが明かないからだよ。あの場では呪いといったが、悪魔の爪は病の一種。身の内に入れば狂気と苦しみの末に死に至りかねない」
「病、ですか」
彼らは腑に落ちないといった顔だ。
外交は相手にわかる言語で行わなければ意味がないか。
「神はすべてに試練を与える。人や家畜と同じく、果物、野菜、麦にもな。なぜならこの世界の万物は神が造りたもうたものだから」
「なるほど」
「確かに説得力がありますね」
論理性の欠片もないが、呑みこんでもらえたらしい。
ニコラだけは難しい態度で眉根を寄せている。
「うーむ、果たしてそうでしょうか」
「教会の者が神を疑うのか?」
「いいえ。ですが、悪しきことをすべて神のせいにするのも考えもの。皆さん、書庫から写本を持ってきなさい。似たような話がないかどうか探してみましょう」
俺たちは彼に導かれて書庫へ足を運んだ。
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