僕の音色

仁矢田美弥

僕の音色

 母によると僕は四歳の時、人間は死ぬということを理解したらしい。

「人間は死ぬのなら、何で生きている意味があるの」

 そう真顔で尋ねたそうだ。

 僕はそんなこと、実は覚えてはいない。

 だから、そう言ったときの自分の「気持ち」をくっきりと思い出せるのは、おそらく後に母から聞いたことを自分の中で「記憶」として残したからなんだと思う。

 そして、僕は八歳のとき、母と、そして父も亡くしてしまった。

 母は四歳の僕に「死ぬからこそ、精一杯生きることに意味があるんだよ」って言ったらしい。母と父は、精一杯生きただろうか。そのことが、ずっと気にかかっていて、でも誰にも聞けず、僕は高校生になっていた。

 幸い母の実の妹である春奈さんが、僕をひきとって育ててくれていた。

 両親の生命保険の受取人は僕だったので、後見人としても春奈さんは力を尽くしてくれた。

 口さがない人たちは、春奈さんはお金目当てで僕をひきとったんだと噂していたようだけど、決してそんなことはない。僕は独り身の春奈さんが借りている、長屋のような市営住宅に引き取られたけれど、住居はすぐにマンションの三階になった。

 東京郊外の、景色のよい新しいマンションだった。もう少し高い階にまで上がると、富士山が驚くほど近くにくっきりと見える。それが僕には何よりも気に入った。

 春奈さんに、ちょっと外で遊んできてね、と言われるときは、僕はお小遣いを黙ってポケットに入れたうえで、街中には出ず、上の階に行って富士山を見ていた。冬などは暗くてよく分からないと思われるかもしれないけれど、富士山の稜線はなぜか空の色とは違ってちゃんと見えるのだということを僕は知っていた。

 今も、あの峻険な山を、慎重に登攀している人たちがいるのだろうか。

 そんなことを空想しながら僕は時間を潰した。

 今は春奈さんが言うまでもなく、そういうときは僕は買物に行くとか忘れ物をしたとか、友人と会うとか言って、軽い学校指定のナイロン鞄をつかんですぐにまた外に出ていく。

 春も夏も秋も冬も。

 なぜ春奈さんがあの男の人と一緒にならないのかは不思議だった。

 春奈さんはそう云う事の激しい人ではない。来た人は二人だけ。しかも二股ではなくて、最初の人が来なくなったあとに、次の全く別のタイプの人が来るようになった。

 その人は身体こそ大きいが目が優しく、しかも独身なので、不倫でも何でもない。

 僕の後見人になったときに春奈さんはわずか二十三で、大学を出て働きはじめたばかりだった。

 自分も生活が変わって苦しい中、本当によく、小学生の僕を預かってくれたと思う。

 春奈さんは時間をつぶして帰宅した僕のために温かい夕飯や手作りのお菓子を欠かしたことがない。

 クラスメイトや部活の友人の親で、こんなにしてくれる人はほとんどないということだった。それも理由はあって、昼は勤め・パートに出ているお母さんが多いという話だった。

 だから僕はむしろ恵まれている方だと思っていた。

 今は春奈さんは外に働きに出ることがないとは言えないけれど、そんなに多くはなかった。コンビニやスーパーのパートをしていると僕には言っていたが、本当かどうか分からない。僕はストーカーみたいに彼女をつけ回すことはなかった。大体、高校生の僕が管弦楽部の部活を終えて帰宅する頃には必ずと言っていいほど家にいた。

 春奈さんは──あの目の優しい大男はもっと早めに事を済まして帰るのだろう、おそらく成長した僕に気兼ねして──「しどけない」という言葉がぴったりなとろんとした目付きのまま、ほとんど身体の線が見えるくらいの格好でキッチンにいることもしばしばだった。

 せっかくのあの男の人の気遣いも台無しだ。

 春奈さんは八歳の僕をひきとって、すぐにこの新築マンションに移ってからは、家ではにしていた。つまり、おそらく女性の一人暮らしの通り、暑い季節は室内では半裸。今でさえ、着替えを忘れたと言って、バスルームから素っ裸で飛び出してくることさえあるのだ。せめて「持ってきてくれる?」と僕に頼んだ方がまだマシではないか。


 ところで僕が管弦楽部に入ったのには理由がある。

 僕は両親を亡くしてから、当時はジャンパーのポケットの中に右手を突っこんで、そこで指をいろいろに動かすという奇妙な癖がついていた。

 それはいつしか、僕にしか聞こえない、とてもきれいで繊細な音色になっていたんだ。

 僕の指は細くて長い。筋張っている。春奈さんは「秋生あきおくんの指はお姉ちゃんそっくりね」と僕をひきとったときに言った。僕はそのとき少しふて腐れて両手をポケットに突っ込み、指を中で動かした。それが、この妙な癖の初めだった気がする。


 さて、実際に管弦楽部に入っても、僕は楽器は全く上達しなかった。もう、早い生徒は幼少の頃から種々の楽器を習っていたので、僕のように音楽の授業以外で楽器を見たこともないような新入部員は稀だった。それでも僕はかまわなかった。

 いつも、練習場の音楽室か外の廊下で(つまり合唱部と曜日がわりで共用だったから)部員が練習する音に合わせて制服の上着のポケットの中で指を動かし、脳内では実際よりもたえな音色が流れていた。

 あまりやる気はないが休まずに出席する部員に対し、他の生徒は好意的な無関心を示していた。要するに、人畜無害ということ。たまになぜ楽器をやらないのか尋ねられれば、僕は「音を聴くのが好きで管弦楽部にいちゃいけないかな」と逆に質問し、それも本気で答えていたので、大概の人たちはそれで納得してくれた。

 ただ一人、部長の有紀さんを除いては。

「ねえ、何でもいいから楽器をやってほしいな」

 二つに結んだ髪の束を、利き手の方だけいじりながら、彼女はたまに声をかけてくる。

「発表会があるでしょ。外部コンクールは出る人は限られるけど、校内発表会は全員で演奏するのがルールなの」

 僕の目は有紀さんの少し傷んだ髪束の先の動きにいっている。その細い髪の先のぴょこんぴょこんとした動きに音色を感じて、ポケットの右手がうずく。

「僕は失格ですか」

 本気でそういうことかと思って言ったのだが、有紀さんは一気に頬を赤らめた。

「そんなことを言ってないじゃない。ひがしくんて、何でそんなにひねくれた言い方するの」

 少し涙ぐんだように見えた。

 そこで僕の音色が中断する。後ろめたい嫌な気分になる。有紀さんは、部活の中では大所帯の管弦楽部を一生懸命にまとめ上げ、事務的なことから練習の采配までこなしている。そのことは見ていて知っていた。そういう彼女にしたら、僕の言い方は投げやりでやる気がないように聞こえたに違いない。

 僕は反省した。

 あの、ものにこだわらない春奈さんと暮らしているためか、僕はつもりはないのに、期せずして人を怒らせてしまうことがある。そのことには最近気がついていた。

「ごめん、山県さん」

 それは彼女の姓。お互い名前で呼び合うほど親しくはない。

 家に帰ってマンションの部屋の鍵を開け、中に入ったときに、右側の部屋の奥で慌てふためく気配がした。見なくても分かる。男の人が来ているんだ。僕は春奈さんとお相手が苦笑し、急いで服を着る光景を思って心の中で笑ってしまった。春奈さんは用心深いので、こういうことは──特に僕が大きくなるにつれて、滅多になくなっていた。僕からすれば久しぶり。

 何となく幼少期のことなどを思い出して忍び笑いをしつつ、足元を見て、僕はおや、と異変に気がついた。

 靴。

 大きくて、見るからに高級そうな黒光りする靴。

 あの目の優しい人の靴ではない。

 急に落ち着かない思いが僕のうちにこみ上げてきた。

 ポケットの中の指が固く閉じられた。これでは音色どころではない。

 僕はそのまま急いで自分の部屋に入りドアを閉め、鍵まで掛けてしまった。

 部屋の外の音にも意図的に神経をいかせないようにした。ふと思いついて、自分のパソコンを開いて音楽をかけ始めた。

 高校生の僕は、春奈さんと一緒になれないことは当然もう知っている。でも、もしそうなったらいいなとはときどき思っていた。春奈さんが僕のお金を使っていても、一緒になってしまえばうやむやにできるんじゃないかって。そう思っていた。

 子どもの頃はお母さんになってもらってもいいと思っていた。でも、僕の記憶の母と春奈さんは姉妹とはいえかなり雰囲気が違うので、その思いはだんだん薄れていっていた。なので、ではお嫁さんになってもらおうかとも思っていたのだ。

 春奈さんの日常を知っている僕は、奇妙に成熟した知識と、他方で幼稚な思慕が共存していた。

 共存。そう、共存して違和感なく、不協和音を奏でることはないままに来ていたのだ。

 僕と同じシチュエーションに置かれた男子はどういうふうに思うのか、僕には分からない。

 でも、ポケットの中の指はいつも落ち着いた音色、弾んだ音色、優しい音色ばかりを奏でていたのは確かだ。


 パソコンからはバロック音楽が流れていたが、僕は動画チャンネルを変えてみて、とうとうメタルっていうのかな、刺すような音が繰り返し飛び出してくるような曲に落ち着いた。部屋の中で立ったままその音楽とも言いがたい音、音色とも言えない音に身を任せていた。

 その翌週、僕はすでに管弦楽部を退部していた。どうしてか。

 僕のポケットの指は音を奏でなくなってしまったから。

 急に、味覚でも失ったかのように、音は鳴り響かなくなった。

 そして、皆が練習のためにばらばらに鳴らしている音が、まるできつすぎる雑音のように聞こえるようになってしまったから。

 どうせそこにいるだけだった存在の僕は、退部届を管弦楽部の連絡用ポストに入れただけで済ませた。誰も気にもしないだろうし、皆の前で退部を告げて理由を聞かれると面倒だったから。

 部活動を辞めた僕は、放課後になるとすぐに学校を出たが、そのまま帰るのは気が引けた。

 春奈さんの新しいは、あまり遠慮がない。いや、一度も僕と顔を合わせていないから、もしかしたら僕の存在さえ知らないのかもしれない。一度早めにマンションに帰ったが、ドアを開けた瞬間にあの靴が目に入って、そのまま僕は外へ飛び出した。そのときは、久しぶりに非常階段で上階へ上がって、金属の手すりに凭れて富士山を見た。

 富士山はかつてほど僕の想像力を掻き立てはしない。季節がら冠雪していたが、何だか薄汚れて見える。

 凭れている手すりも、子どもの頃腕を伸ばして掴み体を浮き上がらせたころはよく滑って、新しかった。今はそれもベージュの塗装は剥げて、多分今掴まったら、手のひらが痛いと思う。

 その日、僕は下校しつつ、この後どうしようか考えていた。もう数日、駅前の本屋やマンション近くの図書館で時間をつぶしていた。でも、何も身が入らない。本を読む習慣もないし、学校の勉強をする気にもならなかった。

 そういえば、僕には好きなことがないのかもしれない。

 音色が聴こえなくなった以上、それは正しいように思われた。

 『精一杯生きる』などという言葉は、十七の僕にはもう色褪せてしまっていた。春奈さんが自分から完全に離れて、夢においても現実においてもそれは動かしようもないことだと悟って、そのとたんに僕には喜びというものが消えてなくなった。そう、音色とともに。

 いっそのこと、今日はまっすぐに帰ってみようかと思いいたった。

 ふつうはそうではないか?

 やることがなければ家に帰るものだ。


 春奈さんのマンションの最寄の商店街を歩いた。古い商店街で、個人商店がまだ多く軒を連ねている。お茶屋さん、花屋さん、コーヒーショップ。

 ふと視界の端に間口の狭い暗い店が映った。こんな店は見ても面白くもないし用事もなかったから、これまで気にも留めなかった店だ。

「金物」

 その意味が僕はよく分からなかったが、何か気が引かれて中を窺い窺いしつつ足を踏み入れてみた。

 キッチン用品の店なのか。家電ではなく、刃物。

 薄暗い店内の右側に、たくさんの包丁が並んでいた。

 春奈さんはまめに料理をして僕を養ってくれたが、キッチンにある包丁は一種類だけだった。だから、先の尖った包丁を見たときはひやりとした。随分恐ろしいものを、平気でこんな店で売っているものだと驚いた。

 でも、その次に、少し面白い考えが浮かんだ。

 僕はいろいろの刃物たちを丹念に観察しはじめた。

 三十分くらいの後、僕はマンションに一人でいた。春奈さんはどこかに出かけていて、留守。ちょうどいいと僕は思った。

 あの男は合鍵を持っているだろうか。いや、おそらくはない。

 あの優しい目の男も、その前の男も、合鍵は持っていなかった。

 春奈さんが僕のことを気にかけたわけではなく、単に資産に手をつけられることを恐れていただけなのだろうということを、僕は今はっきりと悟った。

 ともかく、僕は合鍵のあるなしであの男が来たことがすぐに分かるだろうと考えた。

 インターホンが鳴ったら、それはその男が来たと云う事だ。

 僕は黙ってマンション入り口のロックを解除し、そのまま玄関の内側でじっと待つ。

 チャイムが鳴ったら思い切りドアを開け放つ。

 戸惑う男。

 そこに、ポケットの中のこの刃物を取りだすのだ。

 刺しはしない。脅すだけ。男の惨めな表情を見さえすれば僕は満足だ。それで許してやる。

 楽しい妄想に僕の心臓が鼓動を増した。


 それからずっと待つ。

 コートを着たまま、ポケットに例のものを裸身のまま刺すようにつっこみ、その味わいを指で何度も確認した。

 指を切らないように、でも切って血が出る寸前くらいまですれすれに。

 そしてとうとう、インターホンが鳴った。僕は素早くロックを解除した。

 ***


 僕は富士山を見ている。

 急にむなしさがこみ上げてきた。空は薄い灰色のかった水色。

 もうすぐ日没だけど、この位置からは夕陽は見えない。冬はずっとそうだ。いちばんきれいな日没を僕は見ることができない。上階だから強い風が吹く。

 世界に音色はなくなった。

 背骨から寒さに震えた。

 

 悲鳴を上げた彼女の顔。ひきつった醜い顔。山県有紀の顔。

 ドアを開け放って、焦った僕はすぐにポケットの中のものを目の前に突き出した。すぐに失敗したのだと悟った。そこにいるのが彼女であることは、左右に視界がぶれながらも、すぐに分かった。

 今日は水曜日。全校の部活動が休みの日だった。

 熱心な部長たる山県有紀は、僕などのためにも家を訪ねてくるくらいの高い意識を持っていた。

 彼女は僕を憎むだろう。彼女に怖い思いをさせたためではなく、あれほどの醜い表情を僕に見せるはめになったことで。

 明日登校したら、僕に関する噂話が耳に入るかもしれないし、教師の呼び出しがあるかもしれない。

 いやもしかしたら、もう帰宅した春奈さんが警察の訪問を受けているかもしれない。

 世界に音色はなくなり、ただ惰性の連続のような日々が来ることを僕は悲しんだ。

 それでも、こう思う。

 と。


(了)

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