脱水カルボナーラ

暑さから逃げるように、帰りの電車に乗り込んだ。発車メロディーが鳴るホームを、ドアの枠越しから覗き込んでみると、時計がちょうど午後の五時を示しているのが見える。少し前までは暗くなっていたこの時間になっても執拗に陽は空に留まり続け、自分の紺色の夏服にいやというほど光を吸わせ続けていた。陽射しは窓をすり抜け、半袖が覆いきれない範囲の腕と、髪と襟の隙間に晒した首と顔の全ての皮膚にも容赦なく降り注いでくる。ドアが閉まって、程なくして電車が動き出した。前に抱えたリュックサックの中で教科書が揺れる。車両の中には騒ぐ学生の集団が一組と、それぞれ違う制服を来た女子生徒がまばらに五人ほど。奥には早くに仕事を終えたのか、仕事中なのかも分からないが、暑苦しいスーツ姿の大人が五人居た。その皆がもれなくスマホを覗き込んでいるので、自分もそうしなければならない気がして、用もないのにポケットをまさぐって、それを取り出した。

 今日は珍しく校則に従って電源を切っていたので、小さなボタンを押して起動を待つ。立ち上がった後は半ば無意識のうちに、自分宛のメッセージがないかを確認したが、一件も新しい通知は来ていなかった。珍しいことではない。友人がいない訳でも、周りと著しく馴染めていない訳でも無かったが、わざわざ学校外の時間もやりとりしたりするほど親しい同級生など、一人をのぞいて居ない。その唯一の心当たりの名は、住吉という。彼は野球部に所属していて、毎日のように僕が帰る時間よりもずっと遅くまで練習しているので、彼がこちらにメッセージを送ってきていないのは、何もおかしなことでは無かった。いつもメッセージアプリの履歴の一番上にあるのは、住吉とのチャットルームだ。たまに母とのそれが一番上になることはあっても、すぐに住吉がまたメッセージを送ってきて、また一番上にくるのだった。

 何もすることがなく、ただ画面が表示する住吉の名前を見ていると、電車のドアがまた開いた。湿った不快な熱気が車内の冷気を押しのけて入ってくるのと同時に、僕の頭の中にまでじっとりと何かが染み出してきて、黴みたいに広がってゆくのを感じた。画面に映し出された彼の名前が、今日学校で起きた、本当に些細な出来事を思い起こさせる。糸をリールで巻くような蝉の声が、随分と煩い。

 五時間目の数学の授業は、いつもの事ながら退屈で理解し難いもので、頭痛すら感じる。昼休みの直後の時間だったのもあって、周りも机に突っ伏して寝たり、眠気を紛らわすために先生の解説をよそに雑談を始めたりと随分勝手気ままに振る舞っていた。先生はもうそれらを叱るのを諦めて、最近はごく少数の真面目な生徒とだけ向き合い、授業を進めている。

「二人って仲良いけど……なんていうかさ、やっぱり改めて客観的に見ると、山内が可哀想になるよね」

「なんだよ、それ」

前の席の女子が三角形を指して何やら言っている中堂々と後ろを向いて、住吉と、その右に座っていた僕とを値踏みするような視線で見回しながら、唐突にそう言ってきた。住吉は笑っていたし、彼女もほんの冗談のつもりだったのかもしれないが、この時僕は笑えなかった。

「本当、一緒にいたくないよ」

 冗談めかすつもりだったけれど、気付いたら心の奥底からの言葉が理性を介さずに飛び出してきた。甘えた自虐心と、惨めな自尊心が湧き起こってその場から逃げ出したくなった。

 住吉は、容姿が良くて、成績も良く非の打ち所がない。野球部では布陣の要として重用され、人格も明朗で豪快。誰にでも愛されるのは当然の、選ばれた人間であった。僕の方は、陰気な性根が滲み出た、整っているとはまるで言えない、どこにも手の施しようのない苦悶に染まった人相が印象的で、姿勢も悪い。成績は可はなく不可は少々あり、これといった長所も、人に誇る特技も本当にない。部活動は何となくで入った美術部。絵も彫刻も何もかも、何かを造るのは多少好きであっても、上達するほどには練習もせず、才能があるわけでもないものだから、当然賞を取ったりはしないし、顧問に褒められることはなかった。それでも絵だけは、これだけは人より多少得意でありたいという惨めな自尊心だけが膨れ上がって、美術の授業の時間も部活の時間も、同級生の作っている作品にちらちらと目をやるような意地汚さだけが残った。

 僕は嫌われてこそいなくても、それ以前にこの学校という社会で、はっきりと存在を認められているかも怪しい。今でこそ疎まれることはなくても、居なくても別に困らないだろうことだけは分かる。皆の会話に参加しても大抵笑われる道化か、相槌を打つだけの機械みたいな役割しか与えられなかった。周りからの無条件の愛や羨望、期待とは無縁の僕が住吉に勝っているのは、劣っている箇所の数の只一つだけ。それは客観的な事実であり、住吉といるだけで間接的に、散々思い知ってきた。それでも自分は住吉の元を離れたくなくて、それがまたどうしようもない。住吉は全てに愛される人間で、それは僕にとってもそうなのである。対極にある住吉と自分とが一緒にいる、一緒に居ようと必死になっている僕を見ていると、笑いを堪えるのに必死だ。あの女子が言ったのは、そういうことだろう。

 こんなことを一々気にするのは、女々しいのだろうか。度々こうして、帰りの電車でその日の反省会を独り延々とやっている僕には分からない。電車が動き出して、前に少しよろけた。右足を前に出して踏みとどまると、綱渡りをしている気分になる。頭が揺れたはずみで記憶の引き出しから中身が溢れ出てくる。今日の五時間目の出来事以外でも、僕はずっと光の中にいる住吉の影で、勝手に傷つけられてきた。今日は一段と陰鬱な気分だったが、僕はまだ彼と過ごした全ての時間を嫌な思い出にしたくなくて、縋り付くように住吉とのチャットルームを開いた。ここは他者の決める価値の無い、住吉と僕だけの世界。

『俺の誕生日、三日後だからな!』

朝練に行く前だろうか、早朝に送られてきた住吉からのメッセージ。どうせ他からも沢山もらうくせに、などとは返信できなかった。

『うん』

こちらがそれだけ送ったまま、文字でのやりとりは途切れている。三日後は住吉の誕生日。チャットルームを開かなかったら、忘れていたままであっただろう。朝返信をした時は、帰りがけに途中の駅で降りて、何か買って帰ろうと考えていたが、今は素直にそのような気持ちにはなれなかった。

 三ヶ月前。住吉は、こちらが一度言ったか言っていないかの誕生日の日付をしっかり覚えていて、自分に誕生日のプレゼントをくれた。真っ白で、それでいて上品な形をした一枚のシャツだった。服に興味の無い自分から見ても、良い値段がしそうだということは分かった。

「お前に似合いそうだから。俺が服を見繕ってやるのは、親友にだけなんだぜ」

 あの日は心が蕩けるほどに満たされて、この上になく嬉しかった。嬉しかったというのは、シャツを貰ったことに対してではなくて、親友という肩書きを授かって、完璧な住吉に認められたことで、僕はやっと自分に意味があるような気がして、心地よかったのだ。

 そのようなこともあった手前、住吉に贈り物を返さないわけにもいかない。ちょうど大きな駅で停まった電車を降りて、何かを買って帰ることにした。

 駅を出てしばらく蒸し暑い人混みを歩き回った後、やっと目的の場所に着いた。ここは沢山の雑貨や日用品などを扱っているので、服などの知識も、予算の余裕もそこまで無い僕でも買って行けるような、面白い何かが見つかるだろうと思ったのだ。

 ひとまずは文具があるという五階に登ってみた。何を贈ればいいのか分からなくても、実用性のあるものは無難だ。変わった形の筆箱や、文房具には見えないよく分からない物などが、店の自慢げな紹介文とともに並んでいる。手に取ってみてもあまりこれというものは見つからない。住吉が使っているのと同じシャープペンシルが、ふと目に留まった。一緒に定期テスト前の勉強をした日を思い出す。同じような道具を使っているはずなのに、何故住吉が書いた答えは全て正解になるのだろう。あの時も住吉は、当たり前のように全ての科目で一番の点を取って、一位の座を守った。無論僕の成績は、下を見ればもう少しいるし、上は数えたらきりが無いくらいの位置である。僕に期待も過度な心配もしてくれない親が僕に成績をわざわざ聞くことは無かったし、僕自身も自分の成績に大きな危機感も優越感も抱いたりすることは無かった。そういえば、今学期のテストも近づいている。余計なことを思い出した。ペンの売り場から離れたくて辺りを見回すと、店内の奥の方に、画材と記されたパネルが天井から吊り下げられているのを見つけた。

 気になってその方へ向かってみると、とりどりの色画用紙や沢山の絵の具が、背の高い棚に規則的に陳列されて、極彩色の廓を作り上げている。この空間にいると、素直に気分が高揚する。自分の持っているのよりずっと太いものからずっと細いものまで、沢山の筆が売られている。隣に目を向ければ、自分が成りたくても成れない古今東西の芸術家やイラストレーターの作品集と、様々な絵の指南書が置いてある。ここに踏み入った時、僕は自分の心に巣食う嫌なものから、解放された気がした。変わった形の筆があったので、思わず手に取ってみる。ふわふわと広がる穂先を撫でていると何故かまた頭の中に、呼んでもいない住吉の影が現れた。

 美術の授業で、たまたま住吉の隣の席になったのが、運の尽きだったのだろうか、または何かの因果の巡り合わせだったのだろうか。そこで話したのがきっかけで、彼とは仲良くなった。まだ話すようになって間も無く、互いのことをあまり知り合っていなかった頃の記憶だ。

 あれは「自分を表現しなさい」という課題が出され、画用紙一面に自由に絵を描くという授業だった。周りは皆、自分の好きなものを描いたり、自画像を描いたりしている中、その頃の自分は丁度マグリットの作品に感化されていて、僕自身の心の世界を超現実的に描いてみようと目論んだ。無論、自己をそうやって表現できるような深い人間性があるわけでも、鋭敏な感性があるわけでも、尖った技術を僕が持ち合わせているはずもなかった。皆が下書きを終えて絵の具をパレットに出している間も僕は一切自分のことを表現する糸口が見つからなかった。僕には見つめるような豊かな記憶も、向き合うような心の根拠も無かった。

 結局あの時の僕は、ただそれっぽく、何か意味を持たせた訳でもないちぐはぐな物の組み合わせを、雑なコラージュのように、画用紙に水彩絵の具で並べた。林檎から始まって、足の生えた魚。宙を舞うキリン、逆さまになった車、靴下の片方――そうして出来上がったのは、貶すような面白みや隙もない、心から褒めるのは躊躇われるような画力で描かれた、意味不明で空虚な光景。自分でも思い出すと恥ずかしくて脂汗が滲むほどの代物であった。

 あの絵は本当に。特別なものも確固たるものも持ち合わせていないし、それを獲ようともしない僕をよく表している。受け売りの哲学と拾い物のセンスを、さも自分が探して掘り当てた宝物かのように見せびらかしている僕。水を吸い込ませた粘土を無理やり固めて出来上がった泥人形みたいで、曖昧でつつくだけで壊れてしまう。自分を壊す勇気もなく、それでいてそんな脆いものを自分だと言い聞かせて見せびらかして、周りからは特別だと認められたいと願う自分の無様さをとてもよく描いていた気もする。

「お前、絵上手いな。この脚が生えてる魚とか、面白い」

住吉がこちらの絵を覗き込んで、突然そう言ったものだから、羞恥心で火が着いたように顔が熱くなった。その脚の生えた魚も、マグリットの受け売りだ。冷静になって、客観的に自分の絵を見ているところで、そんなふうに褒められると余計居た堪れなくなった。あの時も住吉はわざとこちらを持ち上げているのかとすら思ったほどである。それでも、やはりどんな時も住吉の目は澄み切っていて、僕の被害妄想にすら罪悪感を帯びさせてくるので、愛想笑いで誤魔化すことしか出来なかった。

 住吉が席を立ち、他の皆の絵も見て回って、その度に皆を褒めちぎるのは、全くあざとさを感じなかった。住吉が歩き回っている間、こっそり彼の絵を覗いてみると、画用紙には一面に広がる、夏の鬱陶しい程に眩しい、入道雲が立ち昇る青い青い空だけが描かれていた。

「あっ」

思わず、間抜けな感嘆の声が漏れてしまったのを覚えている。住吉の描いた絵は、精密さの中に、手描きの遊び心と、本物の空とは本質的に違う、どんな飛行機でもロケットでも絶対に辿り着けない、遥かな奥行きと鮮やかさを感じた。厚さ一ミリにも満たない画用紙の上にあるものとは信じられない。底抜けに明るいのに、空っぽではなく、深い層を重ねた雲が浮かぶその大らかで無欠な空の絵は、まさに彼そのもののような気がした。

 あの絵の中に入っていけば、二度と出ていきたくなくなるのだろう。手を伸ばして引き摺り込まれるのを待っていたくなる程、この絵は美しくて、澄んでいて、羨ましい。住吉は、絵も上手いのだ。僕が何より羨ましかったのは、彼が自分を描く時に迷わずこうすることのできる部分だった。部活の時は一度だって僕の絵を心から褒めたことのない美術の先生もあれを見て目を見張って、深々と頷いていたのを覚えている。あの絵は結局、どこかの展覧会で賞を貰っていた。 

 住吉はきっと、ここにある画材を買っていっても、喜んでくれるだろう。あんなに絵が上手いのだから、きっと描くことも好きなのだ。それで当たり前のように絵を描いて、自分に見せてくれるのだろう。しかしまた彼の絵を見るのは、何だか嫌だった。僕に絵を描いて見せて、ありがとうと言って欲しくない。今彼の絵ををまた見れば、僕は今度こそ焼け死んでしまうような気がするのだ。今日の五時間目、あの女子が言った言葉がまた頭の中に響く。

「可哀想。可哀想」

僕をこんな目に遭わせているのは誰か。緑色の黴が心の奥深くにまで根ざし、隅々まで広がっていくのがわかる。この黴はきっと、今日突然現れたというわけではない。ずっと前からゆっくり、ゆっくり、僕の心で生まれ、ずっと太り続けていたのだ。ただあの女子の言葉が、心の中にぼんやりと存在していたものに、はっきりと焦点を合わせるきっかけになっただけのことである。僕はこれ以上ここに留まっているのは嫌になって、また上の階へ行くことにした。

 上は日用品の売り場だった。この階に売っているものが男子高校生に渡す贈り物に適しているかは分からなかったが、何かいいものを見落としてしまうのも勿体無いと思って、エスカレーターを降りた。最新式の調理器具や掃除用具が陳列されているが、やはりどれも住吉に贈るにはしっくりこないものばかりだ。しかし、中には工夫を凝らした面白いものも沢山あって、見ている分には退屈しなかった。

 そうやってしばらく売り場を歩き回っていたら、包丁が沢山並んでいる棚が現れた。プラスチックのパックに詰められて、フックにかけられている廉価のものから、鍵のかかったショーケースの中で、スポンジの上に仰々しく寝かされている高そうなものまで、沢山の包丁が置いてある。そういえば一昨日、家で包丁を使った時に、左手の人差し指を切った。なんてことはない。あの日は柄にもなく料理をしてみようと思って、ピーマンのわたを取ろうとした時に、包丁を持っていた右手に力が入りすぎてしまったのだ。絆創膏の中で、塞がったはずの浅い傷から血が滲み出してくるような気がして、僕は右手で左手を庇うように握った。いつも料理をしている人は、こんな危険なものを当たり前に扱えるのだから本当にすごい。このご時世、料理なんて出来なくても不自由なく生きていける。そう思っている僕があの日料理をしてみようだなどと考えてしまったのも、彼のせいだった。

 住吉は料理も得意である。この前の調理実習では、ひとたび火を扱えばたちまち学校の敷地を全て焼き尽くしかねないような、そそっかしくて頼りない先生の代わりに、見事な手つきで皆に揚げ物の作り方を教えていた。

「住吉君って、料理もできるんだねえ。助かったわ」

小柄な家庭科の先生は、スーパーボールみたいに跳ねながら、住吉の揚げている唐揚げを見つめて目を輝かせていた。

「皆もこれくらい出来ますよ。俺は、でしゃばりなだけです」

僕らくらいの歳になれば、唐揚げを作るなんてそう難しいことでもない。先生を手伝える人はきっと、クラスの人数のうち半分以上いただろう。でも、単に面倒だったり、助けたくても助けられる自信がないから躊躇うのだ。住吉は善意で人をいつでも助けるし、自分が人の為にした行いでかえって事態を悪化させることはないと信じているから、こういう時に躊躇わず動く。そして実際に彼が人助けに失敗することはない。

「住吉君のお嫁さんは幸せだね」

住吉もいつか、自分と生涯を共にするに相応しい人を見つけるのだろう。僕はきっと、頼んでもいないのに結婚式に呼ばれると思う。これは自意識過剰な自惚れではなく、彼ならきっとそうするだろうという信頼に近い気持ちだ。彼が選ぶのはどんな人なのだろう。彼より完全な人間に出会ったことはない。彼に相応しい人間なんていないと思っている僕は、彼が選んだ人をひどく理不尽に蔑んで、憎むに違いないだろう。僕だって、周りに笑われるくらいには彼に相応しい人間ではないくせに。僕と同じ年数しか生きていないどころか、僕の方が数ヶ月長く生きているはずなのに、何故彼は無駄なく完璧に成れたのだろうか。

 包丁は肉を切ることが出来る。だからあの住吉の心臓だって、さっと突けば破けてしまうだろう。赤い果実が弾けて、中身がどろどろと出てくるみたいに。住吉と一緒に居たら、世の中は本当に不公平であると嫌でもそう考えるようになる。でも、僕も住吉も、心臓に何か刺せば死ぬ。そう考えたら、少しだけ住吉に近づけた気がして嬉しくなってきた。

 包丁を買って、誕生日の朝にあいつを殺してあげようか。ついでに住吉の皮を剥いで、僕が彼の皮を被れば、ああなれるのだろうか。二千百八十円の二番目に安い包丁を手に取って本気でそう考えた。考えたけれど、結局包丁を買うのはやめにした。まず僕にそんな度胸がないし、どうせ僕は住吉を殺せない。考えてみれば神に愛されている彼が、間抜けな僕なんかにみすみず殺されるはずがないのだ。彼を殺す機会が、こんな値段で売られているはずがない。住吉に害を為す者は全てこの世界にとって悪なのだ。悪は必ず負けるように出来ている。善悪の無い世界だったら、僕は住吉を殺せたかもしれないが、そんな世界だったら僕は、住吉を殺そうだなんて思いつきもしなかっただろう。結局僕は包丁の売り場に十分も滞在したのちに立ち去った。僕は住吉という善を引き立てるための悪としてこの世に産まれたのかもしれない。

 のぼりのエスカレーターに乗りながらふと思う。今日は住吉のことばかり考えている。学校であんなこともあって、それに今は彼への贈り物を買うためにここに来ているのだから自然なことなのかもしれないけれど、頭が痛くなるほどに、恋焦がれてしまっているかのように。彼は白い布に垂らした緑色のインクで、滲み付いて離れない。僕は住吉か、それに準ずる存在になりたいのかもしれない。僕は彼が羨ましくて、彼が僕を近づけないのが許せない。すぐ隣にいるような顔をしておいて、彼は僕をいつも空の彼方から見下ろしている。全てから無償の愛と尊敬をもらう様を見せつけられては、自分が惨めで仕方なくなる。僕は生きているだけで間違っていて、彼は生きているだけで正しい。こんなことをずっと考えているから、彼を殺したくなってしまったのに、それでも僕は住吉への贈り物を買うために、わざわざこうして寄り道をしている。結局のところ、彼への憎しみ以前に、皆に好かれる住吉に自分も好かれたいのかもしれない。

 おもちゃ、スポーツ用品、化粧品。何階か適当に巡ったが、中々いいものが見つからない。この階は園芸の用品を扱っているらしかった。すっかり住吉への贈り物について見当を失っていた僕は、とりあえずこの階も見て回ることにした。山積みにされた肥料や腐葉土の横には、プランターとか植木鉢が並んでいたし、向こうのほうは壁一面に花から野菜まで様々な植物の種が陳列されている。鉢植えの綺麗な観葉植物が売られている場所で、僕はこれを買うのはどうだろうかと少し悩んだ。モンステラ、パキラ、ガジュマル。どれも魅力的な形で部屋に置いておいたら少し安らぎを与えてくれそうだが、部屋に置く場所があるかも分からないし、僕が学校まで持って行くのも、相手が学校から持って帰るのも少し面倒だ。結局僕はこれらの緑色の葉を悩みながら睨んで少し考えてから、他のところも見て何も見つからなかったら、どれかを選んで買っていこうと思ってそこを後にした。

 液体肥料のポリタンクが並んでいるところを通って、ふと思った。住吉が死んだ時、彼の死体をばらして肥料にして、そこに小さな木の苗を植えたなら、それはそれは立派な木が育つのではないか。その木はいずれ樹齢五千年の大樹になって、僕らの何百代も後の子孫を優しく見守り続けるに違いない。僕が土葬された所で蛆虫にすら喰われないだろうし、鳥葬されることになってもハゲワシは僕の肉など食べたがるわけがない。住吉が死んだ時、彼の長い葬列にはきっと僕も加わるだろう。彼はどんな死に方をしても皆に惜しまれて悲しまれるだろう。沢山の人が別れの言葉を告げる中で、僕もきっと心の底から嘘偽りのない涙をこぼすのだと思う。では、僕が先に死ねば住吉はどうするのだろう。親を見送った後、この世に一人残された僕がある日突然無縁仏になったら、誰が僕のことを火葬してくれるのだろうか。ただ死体を焼かれただけでは、葬儀とは呼べないと思う。僕が親より長く生きられるだなんて思うのも些か傲慢だと思った。僕なんか、今日親に寝首をかかれて殺されてもおかしくないくらいの失敗作なのだから。ただ友人の隣を歩いているだけで、ただ生きているだけで、笑われたり憐れまれたりして、そしてそれに傷ついては愚かな卑下に酔っているのみの、こんな惨めで情けなくて恥ずかしい息子を、誰が望んだというのだろう。

 ついに一番上の階にやってきた。スマホの表示する時刻は六時半を少し過ぎたところで、もういい加減適当に贈り物を決めてしまいたいなどと思っていると、画面にメッセージの通知が現れた。よりによって、住吉からだった。もっとも、彼以外から送られてくることなど殆どない。

『今部活終わった。今どこ? みんなで飯食べるんだけど、学校の近くだったら来いよ』

住吉は今日とこれまでの全てのことに関して僕に謝らなかったし、僕を慰めることもしなかった。僕はこの時、どうにかして住吉に「生きていてごめん」と言わせたくなったが、言わせる方法も分からないし、僕が苦しんでいるのと同じくらい、住吉が謝るのも住吉にとって理不尽なことだと分かっていたので、いつもの通り彼の引き立て役の親友として返事をすることに決めた。それにしても、部活の後なら部活の友達がいるだろうに、なぜわざわざコミュニティの外にいる僕を招き入れようとしているのだろうか。少なくとも僕と野球部の部員らの間には分厚い気まずさと不信感が塗りたくられた壁があるし、その場にいて楽しいのは住吉だけということも十分に考えられる。住吉にはこういうところがある。全能のくせして、自分の周りの人間も自分と同じようにできると信じて疑わない。自分が特別人に愛される才能を持っていることを自覚していないから、周りの人間同士も自分がするようにすぐに打ち解けられると思っているのだ。彼は人に期待するのを止めるべきだ。

『もう家に帰ってる』

『また今度』

短いメッセージを二通、適当に送って、僕はポケットにスマホをしまった。その後も何回か住吉が何か送ってきたのかポケットの中がバイブレーションで震えたが、すぐに返事をするとなんとなく僕が住吉に縋り付いているようで滑稽な気がして、しばらく放置することにした。

 ほんの二秒前にそうしようと思ったのに、僕は気がついたらまた住吉のメッセージを見ていた。住吉からメッセージが来た時の優越感みたいな、地面から浮かび上がるような気持ちがもう病みつきになってしまっているのだ。

『帰っちゃったのかよ』

住吉はこの後によく知らないキャラクターのスタンプを送ってきている。僕はなんとなく、住吉に自分がプレゼントを買ってやることを思い出させたくなってきた。

『明日、渡す』

『お、もしかして』

『【プレゼントの絵文字】 明日金曜日だし、土日挟むと誕生日過ぎるから』

『期待してるぞ! 笑』

『期待しないで』

僕はスマホをまたポケットにしまった。本当のことなら住吉の期待をいい意味で裏切ってやりたいと思っている。センスのいい何かを住吉に渡して喜ばせる。僕が住吉の親友たりうる人間であることを他人に誇示するためにはそれが一番手っ取り早いと思うのだ。住吉がSNSで僕からもらったものを嬉しそうに皆に見せびらかすところまで想像して少し恥ずかしくなった。何故こうまで醜い自身と自意識だは僕の心にしっかりと根ざしているのか、僕自身が一番分からない。

 最上階は催事場で、定期的に更新されるイベントにちなんだ商品が陳列される場所だった。今日は夏休みを前にして自由研究の特集をやっており、望遠鏡とかカブトエビの飼育セットとかの箱が祭壇のように複雑に積み上げられていた。フロアをちょうど二分割する形で反対側に展開されているのは地方の物産展で、北海道から沖縄まで、少し変わった食品たちが全国から集められているのか、客で賑わっていた。この階にめぼしいものは多分ないと思ったが、わざわざ訪れたのだから一応見てから行くことにした。

 物産展のコーナーの一角に、全国の名物の味や名店が監修したインスタントラーメンが並んでいるところがあった。そういえば、住吉の好物はラーメンである。彼は僕と帰る時間が合うといつも「ラーメン食って帰ろう」と言って誘ってくる。ラーメン屋は正直言って、あの背もたれのない座面の小さい椅子の座り心地が好きでないし、食券を買うところから食べ終わるまでずっと急かされている気がして、苦手だ。それでも僕は、本当に放課後に用事がある時以外は、住吉の誘いを断るに断れなかった。

「今日さ、練習の時に一回暴投しちゃって。北村にコントロールどうにかしろって言われたんだよ。あいつの方が送球下手なくせにさ」

清廉潔白で、自分には何より厳しい住吉が、僕とラーメンを食べた帰りだけは、弱音を吐いたり、他人の悪口を言うのだ。あの先生が嫌いだとか、サッカー部のあいつが気に食わないだとか、本当は練習に行きたくないだとか、コーチに今日は怒られたとか。普段はそんな片鱗を一切見せない彼が、どうしてラーメンを食べた後にだけこうなるのかは分からなかったが、とにかくこの時だけは、住吉は英雄でも神童でもなくて、僕や皆と同じ人間になった。話を聞かされる僕は住吉の悪く言う同級生や先輩の人となりなんて実際はほとんど知らなかったので、同意も否定もせずただ苦笑いをして頷くだけである。それでもこの時間が何よりも好きだった。住吉にこれ以上にないくらい信用されているのかもしれないと、自惚れることができるからである。

 また住吉のことを考えていた。我に返った僕は自分への嫌気に身震いしながら、目の前にある袋麺のインスタントラーメンの数々を眺めた。一食で二百円とちょっとであるが、特別感があって存外贈り物にも向いているのかもしれない。六つ、適当に美味しそうなの――富山のブラックラーメン、北海道の味噌とか――を選んでかごに放り込んだ。しかしこれだけでは住吉のくれたシャツの値段とは全く釣り合っていないだろうし、流石にインスタントラーメンの詰め合わせだけでは味気もない。この場所にめぼしいものはもう見つかることはなさそうだ。住吉へ贈るラーメン以外の品は他の場所で探すことにしよう。そう考えてレジの列に並ぼうとした時、ふと向こう側の自由研究のコーナーが目に止まった。僕は物理や化学や生物や数学の授業は嫌いだが、学問めいていない類の楽しい知識としての科学は好きだ。なんとなく面白そうだからという個人的な興味で、最後に自由研究のコーナーを少し見てから行く事にした。

 しばらく売り場の中を歩いては品物を手に取って説明を見て棚に戻すことを繰り返していると、奥の棚の隅に一つだけ、自由研究の季節の前からずっとここにあったような、埃を払われてすらない状態で雑に置かれている高さ三十センチほどの箱があった。僕はこういうものにはなんでも親近感が湧いてしまう。蝶よりも蛾が好きで、花壇のチューリップより路地に咲いているドクダミが好きだし、水族館に行っても、小さな水槽にいる地味な小魚をずっと眺めている。僕は、その箱をゆっくりと持ち上げた。こびりついた埃が毛皮のような質感を纏っていて不思議な手触りである。

「えっ」

僕は箱の中身を見て少し驚いたし、なんだかおかしくなって笑ってしまいそうになった。手のひらに収まるほどの小さな人体模型が起立してこちらを箱の中から覗いていたのだ。左側は皮が無くて筋繊維が剥き出しで、右側は透明な体の中にそれぞれ名前の記されたカラフルな臓器が浮かんでいて、実に滑稽で、無惨な姿をしている。僕は人体模型を額の前に持ってきて、あることを考え始めた。

 僕の骨は、内臓は住吉のと同じだけ数があって、同じ形をしているのだろうか。住吉の腹を開いて確かめてみたい。生きたまま解剖すれば住吉にも心臓があることがわかるだろう。住吉がいつか手術を受けるときは立会人になりたい。ただ、横で彼の体の中を眺めているだけでいいから。僕は盲腸の手術をしたことがある。麻酔で眠っている間に全てが滞りなく進んで、僕が腹の鈍い痛みに起こされると、そこはすでに病室だった。住吉は僕と同じ量の麻酔で眠るのだろうか。僕と身長は同じでも、よりたくましい体の彼は果たして本当にそれで足りるのだろうか。メスを入れられる時に意識が戻ってしまったら、可哀想だ。そんなことを考えながら、彼の体に切れ込みが入るのを僕は眺めているのだろう。執刀医と助手達の間の斜め後ろで固唾を飲みながら、僕はきっと彼の臓器と筋肉を目の当たりにするのだ。住吉にも血があることを確認したいし、住吉の心電図が乱れるのも確認したい。あの綺麗な皮の中にある本物の生きている彼をなんとしてもこの目で見たい。そうすれば、この胸に巣食う粘っこい緑色の黴を許してやれるのかもしれない。彼が人間だということを確認して、僕も人間だと実感したい。彼に僕と同じ数だけ骨がなければ、僕と同じように臓器がなければ、彼の皮の中が空洞であれば、彼の血が緑色だったら、僕と彼は絶望的に違っていることになる。彼は神になってしまう。そうしたら僕はただの狂信者だ。そこに友情はない。たとえ神の方が友情を認めていたとしたとしても、あり得ないことだ。僕も住吉もこの皮の袋を破って出てくる中身は同じ赤い血肉であるという保証が欲しい。絶望的に違う存在を信仰するのは楽だ。しかし、信仰している限り、手に入れることは出来ない。近づくことも出来ない。蝋の翼は燃え上がってしまう。彼が僕と同じ人間という希望を僕は捨てたくない。だって彼は僕の前で他人の悪口も言うし、弱音を吐くのだから。僕は彼の心の皮の内の一部をすでに目にしているのだ。

 馬鹿馬鹿しい。僕はついに、心の奥で以上のような異常な妄言を喧伝し続ける自分を自覚せねばならなくなっていた。理性的な別の僕は、また違う仮説を囁き始める。いや、そもそも住吉だって間違いなく人間なはずなのだ。そもそも、僕も皆も皮の中はこうあるはずなのだ。骨があって、筋肉があって、臓器があって、神経があって、血液が巡っている。仮に住吉のみが人間とは違う神であったとしても、僕が住吉以外の皆より劣っていることの説明が全くつかない。僕は人体模型の顔をさらにじっと覗き込む。僕は本当に五体満足なのだろうか? そんな罰当たりで、どうしようもなく軽蔑されるべき問いが頭に浮かんだ。僕たちは皆、遺伝子によってある程度は画一化された同じ種類の生物で、皮を剥がせばこの人体模型のように、備わっている中身はほぼ同じである。そのはずなのに、僕は自らを親友と呼ぶような住吉ですら同じ人間であるのか疑わしくなるほどの個体差がある。僕は五体満足のはずなのに、惨めに生きることを強いられている。人体模型には型番があるが、人間に型番はあるのだろうか。住吉の型番と皆の型番、僕の型番を調べたらどうなるのだろう。僕は欠陥商品なのかもしれない。皮を剥いでこの人体模型みたいに、僕達の正体を白日の下晒してやれば、皆も僕に賛同してくれはしないだろうか。

「僕もお前達も同じはずなのにどうしてこうも、絶望的に違うんだ!」

汚い水がとめどなく溢れる噴水の前で、自らの皮を剥いで、血を流しながら叫ぶ僕を想像した。

 僕は、自然界なら一刻も早く淘汰されるべき個体だ。身体能力も劣っていて、賢さはない。人間に生まれてしまったがために、辛うじて食いっぱぐれずに生きているだけである。そんな個体の僕が、どうして住吉の親友という役割を、住吉の方から直々に与えられてしまったのか。その役割は僕たちの間でしか機能しておらず、周りからすれば住吉の放つ光で僕は見えないのだから無意味である。僕という存在はひたすらに空虚で無意味である。無能な僕の人生は無意味である。何度も何度も写経するように頭の中で文字に起こすと、いよいよ津波のように悲しみが無限に押し寄せてきた。僕は陸に揚がった魚。声をあげることもできない。何もできない。無意味に対して反逆する手段がない。ただゆっくり逃げることもできない場所で干からびるのを待つだけ。ただ生まれたから死んでゆくだけ。

 そんなどうしようもない僕は、いつも努力が足りていないだの、弱音を吐いても仕方がないだの生きているだけで責められる。彼らは何の権利があって僕を批判しているのだろうか。皆が僕を笑う権利はあるのに、何故僕に彼らを笑う権利はないのだろう。弱者が無意味なら、強者だって無意味なはずである。僕という個体が無意味に劣っているのだから、住吉みたいなのも無意味に優れているだけなのである。ただの皮を纏った肉の塊が動いているだけに過ぎないのだから。人間という生物には、機械的な反応の域を超えた精神という厄介な機能がある。それを最も尊びありがたがって人は道徳を説くくせして、僕という個体一人にすら意味を与えられない。そんな生物の営みと存在に何の尊さがあるのだろうか。僕は僕という存在に、自分の生存本能以外の理由が欲しかった。しかし、それはいつまで経っても与えられない。ただ、生まれてから死ぬまで、この世界にどんよりと無意味が深い霧のように広がっているだけだ。機械的な生物の個体差というルールに無理やり、個性だとか名前をつけて尊いものを見出だす。決まって僕みたいなのは無条件に批判される。劣った個体であるだけなのに、彼らの設定した道徳の規範から外れているという理由で。そして彼らはそうやって誰かを責めながら社会と営みを形成して、さもそれをあるべき姿のように扱うのだ。それは泥人形と同じで、本当に無意味な、そこに在るだけのものにも関わらず。人体模型の右側の透明な部分からのぞいているオレンジ色の肝臓を見ながら一つ、僕の考えがまとまった。

 もう十分ほど立ち尽くして、人体模型と睨めっこしている。僕はもう正気では無くなってしまったのかもしれない。緑色の黴が胞子をばら撒いて、僕の中にある宇宙を凄まじい勢いで侵食している。何度上書きしても誤魔化しても、僕が死ぬか心を捨てない限り、僕はもうこの黴から解放されることはないのかもしれない。僕の安くて温い自虐と、自己弁護に微睡んだ視界で見る世界は不公平で不幸である。僕はいつほつれてもおかしくない支離滅裂でいい加減なパッチワークのような思想を持ち合わせて生きていくしかないのだ。

 ここまで思考を巡らせても、何一つはっきりとしたものは見えない。僕の水晶体はこの人体模型のように澄んではいないのだ。僕はもう一度、人体模型の眼を見た。可哀想に彼はずっと瞳孔を開いたままである。僕は埃を念入りに払ってから、インスタントラーメンの袋の間をかき分けて、人体模型の箱を買い物かごの中に入れると、機械のように均一な歩幅ですたすた歩いてレジへ向かった。

 店員は僕の顔を見ないで、さっさと人体模型とインスタントラーメンをレジに通した。

「お会計、七点で6659円です」

僕は財布を開いて、表示されている金額を見て少し後悔したが、もう後には引けないとも思っていたので、黙って一万円札をトレイに置いた。

「一万円、おあずかりしまあす」

店員がめんどくさそうに一万円札をレジに入れている間に、人体模型とラーメンの入った紙袋を手に持った。袋は思ったよりも軽い。トレーの上に置かれた釣り銭を拾って財布に放り込み、僕は逃げるようにエスカレーターを降った。

 エスカレーターが僕を運んでいる間に、五回もため息を吐いた。誕生日の贈り物を買うというだけで、酷く疲れてしまった。しかし元はと言えば、全て住吉が悪いのだ。人体模型がラーメンの袋の間からこちらを見ている。僕はそれを睨み返した。プラスチックの塊のくせして、心底生意気だ。

「そんな目で見るな」

僕は頭の中で人体模型にそう命令した。

――お前、可哀想だなあ。

人体模型は二重に歪んだ声で僕に返事をした。いや、人体模型の声ではない。僕の記憶の中で住吉がそう言ったのだ。

 僕は一度だけ、住吉と喧嘩をした。半年ほど前に。正確には、住吉に一方的に批判されただである。あの日は特別な講義があった。幸田という、僕でも名前を聞いたことのあるるような有名で人気のサッカー日本代表選手がやってきて、幼い頃は貧しかったとか、体が小さくて苦労したとか、そういう身の上の苦労話を交えた上で、努力の尊さや、素晴らしい人生を歩んだことで得た素晴らしい哲学を、もう十分に聞こえる声を、マイクでさらに大きくして喋っていた。体育館に集められた僕たちはそれを目の当たりにしながら、メモをとったり、のちに提出するその講義の感想文を書いたりした。僕はこの講演を聞いている間、終始そのサッカー選手に苛々していた。彼の顔も振る舞いも、少し住吉に似ていたからだ。それから単に、あんなに眩しく笑える人に教えてもらった生き方や考え方が、僕を助けてくれるようには微塵も思えなかったのもある。あのサッカー選手と似たような笑顔を浮かべている人こそ、個体差という言葉を知らないのだ。自分が優れた個体であることを半ば自覚して強者として振る舞っておきながら、皆もこれくらいやってみせろと傲慢に説いてくる。それが気に食わなかった。

 その講義のあった日の放課後、もう空になった教室で、住吉と少し話した。

「今日の演説、退屈だったね」

僕は文句を書き殴りたいのを堪えて、雑な字で努力することの大切さを知って感動した高校生が書きそうなことを並べたてた感想文を、教卓の上に提出した。住吉は僕のひねくれた意見を全く理解できていないようであった。

「そうか? まさか幸田が来るなんて思ってなかったから、びっくりしたよ。あの人すっごいかっけーよな。高校で認められなくっても大学でプレーして頑張ってさ、プロ入りして――」

住吉はサッカーにも興味があるらしく、あの選手がいかに偉大なのか語り始めた。あの選手はプロに入るのを諦めずに大学サッカーで活躍して、ひと足先に世界で活躍していた同期たちのあとを追う形で代表選手となったらしい。彼は悔しさを糧に直向きに努力をしたと語っていたし、最終的に、周りから笑われても愚直に目標に向かって進むべきという、いかにもそれらしい締めくくりで演説を終わらせていた。

「努力したから才能に追いつけたってあの人は言ってるけど、自分が恵まれてるのを自覚してないんだよ。努力にだって才能はいるし、あの人だっていろんな人を蹴落として置き去りにしてきたんだ。あの人にも人並外れた才能があったんだよ、スポーツなんて才能が全てのいい例じゃん」

こんなことを言うのはおかしいと自分でも分かっていたし、勢いに任せて言いすぎたと僕が後悔した頃には、住吉は随分怪訝そうに顔を曇らせていた。

「そんなの、努力してきた人を否定してるみたいな言い方じゃん。確かに世界で通用する選手になるには、才能だっていると思うけどさ。俺だって、レギュラーなるために結構頑張ったよ」

何気なく呟いたことで、後に引けなくなった僕は背中の方に走る嫌な熱を感じながら言葉を返した。

「努力が報われる才能があるからいいんだよ。住吉もね」

住吉は僕が嫌味を言っても怒らなかった。ただ冷たくため息をつくのみで、その後は静かに話し始めた。

「お前、可哀想だな。一生そう言ってるつもりなのか? 俺はやめた方がいいと思うよ。お前は頑張ったこととか、ないのかよ。一回でも頑張ったら、そんなこと言えなくなるよ」

あの時彼の言ったことは一言一句正しかったが、間違っていないわけではないと今でも思っている。僕は何か言い返してやりたかったが、何を言っても僕が間違っていることになるのは分かっていたので黙った。沈黙が少し続いたのち、結局住吉の方が折れたのだった。

「なんか喧嘩みたいになったな。やめよう、この話。この後暇? ラーメン食いたい」

住吉がいつものように人懐っこい笑顔を向けてきた時、僕は完膚なきまでに叩きのめされて、完全に屈服させられたような気がした。

 結局僕はあの日、住吉とラーメンを食べて帰った。彼とラーメンを食べたのはあの日が初めてだったし、住吉が初めて人の悪口を言ったのを聞いたのも、あの日にラーメンを食べた帰りだった。住吉があの時、先輩に鬱陶しいのがいる、と言っていたのをよく覚えている。悪意を持って他人を貶す住吉ですら、僕には輝いて見えた。

 ようやく店を出た僕は、人体模型の入った紙袋を振り回しながら駅を目指して歩き始めた。陽が落ちても街はずっと暑くて、人々の顔は汗で照っている。歩いているとよく考えが回る。それがいい考えか悪い考えなのかはともかく、こんなに頭が冴えることはない。歩きながら勉強ができたらいいのにと、僕はよく考える。もう自分が何に対して怒っているのかも、何に納得がいかないのかも、何に苦しんでいるのかも半ば判らなくなってきていた。僕は僕を取り巻く全ての何かに怒っていたし、住吉になりたかったし、何かがとても欲しかった。同時に、ひたすら空虚な生に何かを求めてしまう人間の性を捨てたくてたまらなかった。欲しい。欲しい。僕だって、欲しい。いらない。やめたい。もっと過去が違えば、環境が違えば、運さえもっと良かったら、周りの人間がもっと優しかったら、こんなに歪んで成長することはなかった。いや、そもそも自我が芽生えてから今までの僕は、一切成長していないのかもしれない。僕の心のつまらない虚勢の皮を剥がしてやったら、中から傷ついた虚言癖の幼稚園児が出てくるに違いないだろう。

 小さい頃は嘘ばかりついた。僕の家は本当は金持ちで、毎晩パーティーに呼ばれていると言ったり、ありもしないのに習い事で毎日が忙しいと言ったり、うちに車はないのに、ガレージにはスーパーカーが三台もあるとも言った。もっと悪質な嘘を言ったこともあったかもしれないが、もう覚えていない。先生は幼い僕のありもしない話を信じきっているかのように振る舞ってくれた。とにかく小さい頃から僕は、本当の自分を嘘の皮で隠さねばならないほどに、とても恥ずかしい存在だということを自覚していたのだ。両親はいたって善良だったし、家庭が荒れていることも全くなかったし、それは今も同じである。本当に愛されて、何不自由なく育てられたから、そんな気持ちを抱く必要はまるでなかったはずだ。それでも僕は、自らを嘘で塗り固めるほど自らを恥じた。僕が、僕だけが欠陥品だということを自覚していたからだ。

 僕は幼稚園で除け者だった。嘘をつくようになる前から、運動もできず舌足らずで工作も出来ず、泥団子すらも作れない僕は好かれることはなかったし、嫌われた。僕は自分が嫌われたり笑われたりする理由が当時は分からなかった。僕を忌み嫌って、軽蔑するような目で見てきたあの子達は皆、口を揃えて先生の前で嘘はダメだと言ったし、度々僕の嘘を暴いては僕の悪行を糾弾した。

「ひきょうだね」

なんて、覚えたての難しい言葉を使って。嘘をついている間だけ、僕は欲しいものを全て手に入れたが、それは正義の名の下にすぐに奪い去れられて嘲笑され、目の前で燃やされ続けた。そういえば、嘘が暴かれた日の帰りに、迎えに来た母の笑顔を見るのが何より嫌だった。

 繁華街がちょうど目を醒ます時間だ。居酒屋のキャッチやメイド服を着た女性が通りにちらほらと立ち始めている。黒くなって地面にこびりついたガムの星空を眺めながら、僕はうるさい街を歩いた。陰鬱な気持ちだった。僕は住吉にもらったシャツを一度も着られずにいる。僕が着たら、あのシャツの価値が失せてしまうような気がしたのだ。

 住吉はどうしてあんなに真っ直ぐ育つことが出来たのだろう。僕が手に入れたくても見つけられず、与えられることもなくずっと欠落しているものを、なぜ彼は全て持っているのだろう。この問いにきっと意味はないし答えもないのだ。彼が優れているのも僕が劣っているのも、たまたまなのだ。僕も住吉も、ただ生まれたから、生きているだけだ。生きているだけで人間は価値が決まる。僕はひたすらに無力で、彼も僕を救うことは出来ない。だから僕を助けるつもりで憐れむ彼も最終的には「自分でどうにかしろ」という。それが正しいことだからと、僕を突き落とす。ひたすらに無意味なのに、生き物として生き残らなければならないのは惨い話だ。

 僕のことを批判したくてたまらない人がこの世にはたくさんいるだろう。それとも、もしかすると僕以外の人間は誰一人として僕に同調してくれないかもしれない。僕みたいな人がきっとどこかにいると信じて生きているが、こんなに僕に冷たい世界なら、そんな希望も泡沫のようにいつか潰れてもおかしくはない。甘えとか言い訳とか、そういうのは聞き飽きた。たまたま僕より優れている個体なだけのくせして、皆は僕を無意味に批判する。どうしようもないことを自力でどうにかしろと言う。羽がないのに空を飛べと言うし、鰓がないのに水の中で生きろと言う。無理なものは無理だ。

 僕はこの甘えた僕の味方であり続ける。欲しがり続けて、羨ましがり続けて、偶然の産物でおこぼれをもらうか、奇跡が起こって何かが僕のことを助けてくれることを常に待ち続ける。そうでもしなければ袋の鼠は助からない。僕を許さない人間を僕は許さない。僕はみんなが羨ましい。皆――とりわけ、住吉――はどうして当たり前のように何もかもを持っていて何もかも僕より簡単そうにこなせるのだろうか。その裏には真面目に生きてきた証があるのかもしれないが、僕はそれを受け入れられない。確かに僕は真面目で品行方正とまではいかないし理想的な人生を歩んでいるとはとても言い難い。恵まれている方なのに僕は何に悩んでいるのか自分でも分からなくなる時がある。しかし少なくとも僕よりも恵まれている人間もたくさんいるし、僕の人生の登場人物のうち、僕を無意味に貶したり傷つけたり、邪魔をするためだけに現れた人物は、他の人の人生のそれより確実に多いと思う。僕は、生きているだけで他人より不当に扱われたことが数えきれないほどある。僕が血みどろになって頑張って皆が立っている地点にようやく追いつける頃には、皆はすでに先に進んでいる。住吉に至っては、最初から最後まで見える目標ですらない。皆が努力せずして立っているところに辿り着くのに、僕は何度泣いて血を流せばいい。

 詭弁で武装して虚勢を張って、開き直っているだけだと非難する人もいるだろう。罪人が免罪符を購うように、自ら自尊心を切り裂いて卑下することで、自分を守るのだ。自らの尻尾を噛んでいる痛みで苛立ち、さらに噛む力を強くして余計に苛立っているトカゲのようで、非常に滑稽であると思う。しかし誰も助けてくれないのだから、僕は僕一人でこうするほかにないのだ。僕が生まれてきたこと、僕が無意味に生き続けていることは、最低の事実だ。人間の中には、僕のように自分のことを世界で一番可哀想な生き物と信じて疑わない者がいる。親不孝で、自分のことも素直に愛してやれない。自分のことを可愛がっているくせに、他者を愛さないし理解しようともしない。自らにぬるい暴言と叱咤の皮を被せて、自分の一番見られたくない部分を隠し続けるのだ。他人からも自分からも。見えないように、見えないように。大事そうに。まるで秘儀のようだ。この皮が人間の通念としてある正しさの刃物で切り裂かれ、剥がされそうになる時に、僕は激昂する。しかしどうだろう。僕はこうして今、自ずと自分の皮を剥いで、中身を見た。もう何も恥じることはない。

 翌朝、僕は眠らずに一晩中考え込んだ後に、非常にすっきりした気持ちで学校へ向かった。いつもと変わり映えしない通学路のアスファルトは柔らかい。重力はなくて、夢の中にいるようだった。跳ねるように動く僕の手には、人体模型とインスタントラーメンの入った紙袋。

 廊下からそっと教室を覗くと、朝練を終えた住吉だけが中にいて、僕は神から啓示を受けたような気分にさえなった。

「おはよう」

僕はわざとらしく口角を上げて住吉に話しかけた。

「おう。おはよう」

住吉の笑顔は朝八時十一分の後光で余計に眩しく、話しかけたのが僕でなければ、失明していたかもしれない。

「これ……」

僕は住吉に紙袋を差し出した。

「お! サンキュー。何だこれ、色々入ってるみたいだけど」

住吉が茶色の紙袋を受け取った瞬間、僕は丹精を込めて作った爆弾を起爆した時のような気持ちになった。恋にも似た執着を彼にしている僕自身が何より許せなかった。彼と仲良くすることで自分の劣等感を誤魔化すのが好きだった。

「ラーメン! うまそう。ありがとう。後これ、なんだ」

住吉はインスタントラーメンの中に紛れ込んでいる汚い箱を見つけて、紙袋から取り出した。

 これは、復讐だ。お前も僕も皮を剥いで仕舞えば僕と一緒。ただの肉の塊だ。心の皮もいつか暴いてやろう。お前が無意味だといつか、分からせてやろう。

「えっと、人体模型?」

お前、受け取ってそんな顔はないだろう。僕のつまらないギャグを誕生日プレゼントとして見せつけられる気分はどうだ。お前の生まれた日なんて、所詮そんなものだ。勝手に意味を見出しているだけで、本当は僕の苦しみと同じくらい無意味なのだ。虚無そのものだ。

 これは劣等感なんて理性的なものではない。僕のしたことは子供っぽくすらなくて、極めて動物的なただの間抜けな我儘だ。それでも僕は今日を一生忘れないだろう。無意味な僕が唯一、尊いものを貶めることに成功した日なのだから。

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