第43話 天位魔術師

 月明かりに照らされた王城の一室で、サーシャはぼんやりと月を眺めていた。夜になって再び降りだした雪には、明らかに赤いものが混じっていた。エリカが言うには今夜中に青い雪が降り、明朝には二つの雪が混じり合った紫の雪が積もってるだろうとの事だった。

 手元に抱えている魔法書〝負債の女王(クイーン・オブ・ザ・デビット)〟の脈拍は増し、大型獣の心臓の様に激しく脈打っていた。所有者であるサーシャには、残された時間は少ない。早ければ今夜中にもフェンリルは魔法書の鎖を食い破り、実体化するだろう。いや、サーシャが気を抜けば今にもフェンリルが飛び出してしまうかもしれない。

 ゆえに決行は今夜の午前2時。王都の人々が寝静まった深夜に、フェンリル討伐の儀式を執り行うとのことだった。

 昨日まではノートン達と一緒に、呑気にランド亭の夕食を食べていたのが、とても遠い日々の様に思える。先ほど出された王城の夕食は豪勢なものだったが、味はほとんど感じられず、ノートンと食べた昨日の夕食の方がよほどおいしかったと思える。

 瞳を潤していた涙は既に乾き、サーシャは王女としての使命を受け入れていた。

 人には様々な運命があり、背負っている業がある。

 貴族の青年には国家に奉仕する義務があり、シャル達貴族の娘は政略結婚の道具とされる。

 エリカ達官僚は職務のために私生活の全てを投げうっている。

 王都の外の貧しい民は、日々の糧を稼ぐのに必死なのだろう。

 その中で自分だけが、なんの責も負わずに豊かな暮らしを享受していていた。その事実は小さな罪悪感としてサーシャの胸に引っかかっていた。真実を知る機会はあった。だがそれから目を背け、先送りしてきていたのだ。

 その罰が当たったのだろうか。運命は自分に、とびきりの責務を持ってきたのだ。


「はあ……まさかこんなことになるとは……何かの夢みたい」


 サーシャは思わずため息をつく。

 だが目の前の現実が夢でないことを、はめている指輪が告げていた。

 気を失っている間に、中指にはめられていた主人の指輪。そこに流れ込んでくる強大な魔力は、エリカから供給されたものだった。

 サーシャとは比較にならないすさまじい魔力量。

 魔力量は術者の精神力に比例するという。滅私奉公の精神を体現したようなエリカ内務次官。その責任感、使命感こそ彼女の魔力の源なのだろう。

 その魔力量は、ルーシアから魔力供給を受けたミュラをも上回っていた。それどころか、今だ底知れぬ魔力を持つノートンより上かもしれない。


「……何、これ?」


 サーシャは自身の身体に集まってきた光に、ハッとする。

 エリカから渡された宝剣ファルシオン。王太子の証であるその宝剣を持つサーシャに、白い光が集まってきたのだ。城の内外から集まる白い魔力の灯。それはまるで無数の蛍の様に、サーシャを白く照らしていた。


(これが虚構魔法?! 人々が〝奇跡の王太子〟に寄せる期待?)


 代用の姫とはいえ、人々の思いはサーシャを王太子として認めたのだろうか。無数の虚構の灯は、いよいよサーシャがいる城の一角を、まるで白い陽日のごとく照らしだしていた。

 個人の目には、無尽蔵とも思える量。だが美しく輝くその姿とは裏腹に、その虚構の魔力はひどく壊れやすいものに感じられた。


(こんなものを制御なんてできない)


 虚構の魔力に触れるとすぐ、サーシャはそう理解した。

 国中から集めた魔力は、制御不能の巨大な暴れ馬の様なもの。複雑な魔法の行使は不可能だろう。フェンリルにぶつけるだけでも、術者の多大な魔力を必要とされるものだ。


(でも、多分、ぶつけるだけならできそう)


 術者であるサーシャと従者であるエリカの魔力を合わせれば、ギリギリの制御は可能だろう。発動後には、両方とも魔力を使い切り、そこに虚構魔法の反動が押し寄せることになる。最終的にサーシャとエリカは、あの青年か、それ以上に悲惨な状態になるはずだ。フェンリルを倒そうが、倒せなかろうが、その結末だけは変わらなかった。


(エリカお姉ちゃんは遺書を書いておくように、言ってたな……)


 遺書を書くように促されていたことを思い出し、サーシャは机に向かう。あの様子では、エリカはすでに遺書はしたためている様だった。


(お義父様とお母様に書くべきなんだろうけど……)


 本来は肉親である両親に対し、遺書をしたためるべきなのだろう。だがどういうわけか、彼らに対し遺書を書く気にはならなかった。


(……マスターに書こう)


 ノートンに書いても、届けてもらえるかはわからなかったが、エリカに頼めば、何とかしてくれるだろう。

 だがいざ机に向かっても、筆は全くすすまない。

 サーシャにとってノートンは記憶を奪った相手ではあるが、恨む気持ちは微塵もなかった。彼女の過酷な運命から隔離し、ひと時とはいえ甘くあたたかな時間をもたらしてくれたのだ。感謝の気持ちしかなかった。


(マスターはいつも優しかったな。みんなで食べたララさんの料理は美味しかったな。ニーアさんにカレンさん、シャルちゃんにも、もう会えないのかな……)


 過去を思うと、様々な思い出がこみ上げてくる。いつしか乾いたはずの瞳は水分を取り戻し、サーシャの涙腺は熱を帯びる。

 サーシャは再び瞳にこみ上げてきた熱いものを、必死でこらえる。

 気にしても仕方ない、これも運命だと自分に言い聞かせながらも、運命から目をそらすかのように、ふとテラスに視線をやった。

 外に積もった桃色の雪と、それに降り注ぐ月明かりは、部屋のテラスを幻想的に照らしだしていた。

 そこに立っていた長身の男。上質なスーツとお洒落な蝶ネクタイに身を包み、首から上の猫の顔立ちの猫人。それはサーシャがよく知るノートンの姿だった。


「……マスター」


「帰ろうサーシャ、こんなところにいる必要はないニャ」


 優しい口調も、サーシャが聞きなれた普段と変わらぬもの。

 ただ月明かりに照らされたその姿は、どことなくだが、いつもと異なる高貴なる雰囲気を漂わせていた。


「か、帰れません。私はフェンリルを倒さなきゃいけないんです」


「お前がそんな責を負う必要はないニャ」


 思わず口から出た使命の言葉も、まるでノートンには届かない。


「……この姿を見て、わかりませんか? 私はローラント王国王位継承第4位、アナスターシャ・ローラントです。第1位のレオニード兄様がいない以上、国家に奉仕する義務があるんです」


 サーシャは高まる気持ちを必死で抑えながら、そんな言葉を口にする。

 最後くらいせめて、優しい言葉で見送ってほしい。使命を果たす自分を褒めてほしい。

 自分でも不思議だが、サーシャはそんなことを真っ先に考えてしまった。


「やはくも王女様気取りか? 切り替えの早いことだな」


 だがノートンは王女である自分に対し、ひるむ様子は微塵も見受けられない。そして期待していた優しい言葉の代わりに、皮肉すら混じった言葉を返してきた。


「王位継承第4位か。ダヴィド大公(2位)とミラン伯(3位)はどうした? なぜ4位のお前がすべてを背負い込むんだ?」


 サーシャの心をえぐるような乾いた言葉。王族に関する知識すら満足に与えられず、ただ犠牲になる役割だけを求められているサーシャには、答えることができなかった。


「わ、私は王族なんです。気楽な猫人のマスターとは違うんです、帰ってください!」


「それは本心で言っているのか?」


「ほ、本心に決まっているじゃないですか!」


「お前みたいな年端も行かぬ小娘、自ら志願させるように言いくるめることなど、たやすいことだ」


 ノートンの口からでる厳しい言葉。それはその場にいない〝誰か〟に対する怒りの色を含んでいるように、サーシャには感じられた。


「さ、宰相閣下である義父様のためでもあるんです!」


「娘が死地に向かうこの期に及んでも、会いに来ようとしないリシュリュー宰相のために、か?」


 冷たいが的を得たノートンの指摘に、サーシャはついに言葉に詰まってしまった。

 そうだ、義父達は、なぜ自分に会おうとはしないのか。必死で考えないようにしていたが、確かに理不尽だ。初めてサーシャは、自身がとても孤独で惨めな存在なのだということを、認めてしまった。


「マ、マスターは悪い人じゃないですか! いつも猫人だと知らんぷりして……私から記憶を奪って……」


 ノートンを非難するつもりは微塵もないのに、口からでる言葉。

 いつの間にか息が苦しくなるほど、熱いものが胸からこみ上げてきていた。


「……私は今まで……呑気に、甘えて……幸せで……」


 失って初めて分かった。ノートンが与えてくれた甘くてあたたかな場所、それは〝幸せ〟と呼ばれるものであったという事を。

 そのことを認めると、熱いものはついに大粒の涙となって頬を濡らした。サーシャは自分が泣いている事に気づいたが、それを押しとどめる気力はすでになかった。


「安心しろ、大丈夫だ」


 ノートンはサーシャの小さな背中を、そっと抱きしめる。その声は、サーシャがよく知った優しいものだった。

 堰をきったように流れ出した涙。サーシャは保護された子猫の様に、ノートンの胸で鳴きしゃくった。


「相手に空気を読ませ、忖度させ、自身が望むことを相手の責任で言わせる。さも、相手が自ら望んだかのように誘導し、良心の呵責さえ、感じようとはしない。老獪なジジイ達が好む手口だ」


 ノートンは抱きしめたサーシャの左手中指に嵌められた〝主人の指輪〟に気づき、険しい顔つきで猫目を細める。


「──いや、この方法を取ったのはエリカ。彼女をそうしてしまったのは、オレ、か……」


 サーシャは、ノートンが小さくため息をつくのを背中で感じていた。

 それは怒りというよりも、悲しみに満ちた嘆息だった。


「マスター、私、もうどうすればいいか……」


 悲観にくれて、サーシャはノートンに対して懇願する。背負いきれない王家の使命と責任に、今にも胸は押しつぶされそうだった。


「──我が手に戻れ、ファルシオン!」


 ノートンはサーシャの問いに答えず、彼女が持つ宝剣に向けて叫ぶ。ノートンの叫び声に呼応するかの如く、サーシャが腰に帯びていた宝剣ファルシオンは、まるで引き寄せられるようにノートンの手に飛び込む。

 あれは王家の正当なる血統の証、王太子と認められた人物のみが真価を発揮する呪い殺しの宝剣のはず。だがファルシオンはサーシャを裏切るかのように彼女の元から出奔し、ノートンの手のひらに握られていた。

 凛然と輝く宝剣。

 代用の姫ではなく、本来の所有者に戻ったことを歓喜しているかのように、宝剣はまばゆい光を放つ。


「いいか、サーシャ。涙を流しながら、使命を語るな」


 ノートンはファルシオンの剣先をゆっくりと、自身の猫の顔に押し付けた。


「えっ?!」


 息をのむサーシャ。呪い殺しの宝剣に触れたノートンの顔が、光と共に崩れ去る。

 その光の中で、ノートンの姿が変容していくのが、サーシャの瞳にはっきりと見えた。

 ノートンの猫人の顔は消え失せ、人間の男性のものへと形を変える。風になびく輝く銀髪。月明かりに照らされたそれは、彼女と同じ王族特有のもの。猫人の細身の体ではない堂々たる体躯。その身を包む装束は、純白の王太子の正装。

 王都広場で姿を見せたのと同じ人物。だが容貌も体格も、17歳の青年の頃のものとはまるで異なる、成人した男性のものだった。

 5年もの間、病床に伏せたとされながらも、人々の期待を一心に寄せる希望の星。

 始祖王の再来、天に届いたと称される魔術師にして、奇跡の王太子。


「──何故なら幸福は、すべての正しさの前提だからだ」


 悲しさを称えた正しい瞳、ではない。

 サーシャを見つめる彼の暖かい蒼瞳は、彼女の幸福を願う澄み切った瞳だった。


「──マスターの正体が、レオニード王太子、兄様!?」


 目の前にいたのはサーシャの腹違いの兄、正当なる血統を受け継ぐ王位継承第1位、レオニード・ローラント。

 ノートンの全身から吹き荒れる白銀の魔力がテラスを覆いつくす。

 サーシャのドレスの裾が激しくはためく。猫人の頃の比ではない。ノートンの身体を覆う魔力は、サーシャが見たことのないほどの、気高く、そして凄まじいものだった。


「これが、奇跡の王太子……天に届いた、魔術師の魔力!?」






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