第38話 神獣フェンリル


「ここのクレープ美味しいでしょ? サーシャ」


「うん、確かに美味しいね」


 サーシャが猫になってから、すでに一週間が経過していた。時刻は夕方6時、隣にはクレープを持ったカレンが、一緒に買ったクレープを美味しそうに食べている。代金は当然ノートン持ち。サーカスの際に、レッドマントを貸した報酬らしかった。

 サーシャの失われた記憶に関する真実を知りたいという思いは、依然としてあった。しかしそのことを考えようとすると酷い頭痛がするのだ。その上、今の生活が失われてしまうかもしれないという不安もあり、サーシャは何の決断もできないまま、表向きは今までと変わらない穏やかな日々を続けていた。

 それがただの〝先送り〟であることに罪悪感を覚えつつも、サーシャはクレープの最後のひとかけらを口にほおばる。

 喉の奥に広がるほど良い甘さ。それは先送りの罪悪感をほんの少しだけ紛らわせてくれた。


「それにしても寒いね、カレンちゃん」


「本当なら収穫祭の時期なんだけどね、雪まで降るなんて」


 まだ10月だというのに気温が急低下し、季節外れの大寒波が王都を襲っていた。収穫の時期を狙いすましたかのような大寒波の到来に、特に農村部は大混乱に陥っているという。だが王都は、今のところは喧騒とは無縁の、静かなものだった。


「綺麗な雪……」


 王都を覆い隠した純白の雪は、夕陽に照らされたためか、ピンク色に染まりつつあった。

 静寂に包まれた王都の街並み。

 それは息をのむほど美しいものだった。


「見てカレンちゃん。雪がピンク色に染まっているね」


 サーシャは思わず雪をつかもうと手を取り出し──


「!? ダメ、サーシャ。その雪に触らないで!!」


 カレンの大声によって遮られる。


「急いで建物の中に入って!!」


 言われるままに、カレンに担ぎ込まれるように近くの店の中に退避するサーシャ。カレンの顔はいつの間にか真っ青で、完全に色を失っていた。


「どうしたの、カレンちゃん?」


「……赤い雪。夕陽の光じゃない。明らかに雪自体に赤い雪が混ざっているわ!」


「えっ?」

 

 深刻な表情のカレン。

 だがサーシャには、事の重大さが理解できなかった。


          ×          ×


 今より、300年前。ローラント国王サクソンの時代にも、赤い雪が降ったという記録があった。

 収穫期に降り積もったとされる魔力を帯びた赤い雪は、人々の心を大きく乱し、人々の喧騒をもたらした。

 続けて降った青い雪は、人々から活力を奪い、不治の病をもたらし、民を大いに苦しめたという。

 最後に降ったのは銀の雪。それは触れるだけで人々から命を奪い取る恐ろしいものだった。

 三種の雪により、パニック状態になった国民。だが雪を降らせた存在は、さらに恐怖すべきものだった。

 雪をもたらしたのは、神獣フェンリル。神々さえも食い殺したという伝説の神獣。

 その目撃情報が王都で確認されたことにより、王都は恐慌状態となる。

 時の国王サクソンは、始祖王より継承されていた天位魔法を用い、ついにフェンリルを封印し、三つの雪を消し去った。だがサクソン王は過労のあまり、死去してしまったという。

 国民はサクソン王の死を悼み、〝中興王〟と彼を称えたと伝えられている。

 ランド亭のカウンターに腰掛けながら、ノートンがサーシャに教えた話は、以上の様なものだった。


「……そんなお話、知りませんでした」


 王都の人々なら子供でも知っているおとぎ話。だがそれすら知らなかったサーシャは、ショックを受けているようだ。


「サーシャが失った記憶に含まれていたんだろうニャ。気にすることはないニャ」


 ノートンは優しい言葉でサーシャを慰める。

 だがサーシャの顔から、陰鬱そうな色は消えない。そもそもサーカスの後くらいからサーシャの様子が変だった。ひょっとしたら、彼女の記憶に関して、何か感づいているのかもしれない。


「しかしいつにもましてランド亭は荒れているニャ」


 カウンターの座席に腰掛けながら、ノートンは周りのお客たちを見てそうつぶやく。ノートンはサーシャを連れて、王都の市民の人心を確認するためにランド亭に来ていた。昼間から営業しているここは、情報収集するには最適の場所だった。

 サーシャの事は気になったが、今はどうしようもない。それよりも、情報を得ることを優先すべきだ。


「サーシャ、しばらくの間、黙っていてくれ」


「……はい。わかりましたマスター」


 ノートンはサーシャに声を出さないように言いつけると、人々の噂に聞き耳を立てる。猫人の聴力は人間の何倍も優れている。ノートンはカウンターで聞き耳を立てることによって、この店の会話をすべて把握することができていた。


「赤い雪はウエスタン伯領にも降っているそうだぞ!」


「北部は雪で今年の収穫は不可能らしい」


「西のアララギ山では、青い雪が降ったという噂を聞いたぞ!」


「何だって!?」


「俺も王都に逃げてきた親戚に聞いた! 間違いない」


「不治の病をもたらすという青い雪か……」 


(……青い雪も降ったのか) 


 ノートンが懸念していたとおり、山間部では青い雪も降りだしたようだった。


「おい、大変だ。デルタ伯の残党が蜂起したらしいぞ! ゴーレムも何体か引き連れているって話だ!」


「何だと!?」


「王都に向かっているのか!?」


「くそう、王国軍は何をしているんだ!!」


 デルタ伯の残党が蜂起したとの報に、人々は苛立ちをこらえきれない様子だ。戦争の気配に明らかに殺気立ち、あちこちで怒鳴り声や悲鳴に近い叫び声がする。

 そして新たにもたらされた一報が、市民を恐怖のどん底に陥れた。


「王都でフェ、フェンリルが目撃されたぞ!!」


 真っ青な顔で店に入ってきた男が、叫ぶ。


「本当か?」


「ああ、昨日の夜、リイアン地区の奴らが、巨大な銀狼を見たって噂で、あっちは大混乱だ!」


「野良犬の見間違いではないいのか?」


「屋敷みたいな大きさの野良犬がいるかよ! 足跡もあったらしいぞ!!」


「フェンリル!? もうだめだ!!」


「雪が銀色に変わっていないか、注意しろ! あれは触れただけで死ぬという伝説だぞ!」


「雪の色が銀になっているかなんて、いちいち見分けてられないぞ!」


 伝説の神獣、フェンリルの目撃情報に人々の恐慌は頂点に達した。さらに肉眼で白と銀の雪の見分けは困難なことが、人々の恐怖心を底なしに煽る。


「もうだめだ、レオニード王太子様に解決してもらうしかない」


「そうだ、王太子殿下なら、中興王の時みたいに国を救えるかもしれない!」


「だが殿下は病床に伏せっておられるという話だぞ!」


「それでも城を抜けたして、密かに人々を救っておられるという噂だ」


「そんなのガセネタじゃねーのか?」


「どちらにせよ王太子様に解決してもらうしかねえ」


(……やはり人々が最後にすがるのは王太子か、まあそうなるな)


 ノートンは喧噪の中で、密かにため息をつく。

 人々が求めるのは、奇跡の王太子という希望だった。例えそれが虚構であっても、自身を助けてくれる可能性にすがるしかないのが民衆なのだろう。


「政府に直訴するしかない!」


「そうだ、政府は民を守るべきだ!」


「王宮前広場へいくぞ!」


 男が声をあげ、人々が賛同する。

 店中の人々が外に出て、列をなして王宮前広場へと向かっていく。その姿を見て、街の人々も家を出て次々と合流している。

 それは暴動を思わせるような、剣呑とした人間の群れだった。


「マスター、どうしましょう?」


「オレ達も行ってみるニャ。


 ララさん、お会計をお願いするニャ」


「おっけい。アタシも行きたいけど、お店があるしね~、様子を見てきて頂戴ね」


 こんな状況でもララさんは気丈にも笑って送り出してくる。その笑顔がノートンにはありがたいものだった。

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