真実、または現実
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int main(){
2023年星新一賞投稿作
神は既に死んだ。偉人の格言ももう意味を失った。科学者と哲学者が神を殺してしまってからというものの、真実によって人間は救われることは永遠になくなってしまった。だからといって、神が生きていたとしても人類は救われなかっただろう。
学校へ行く途中奇妙なものをみた。それは駅前で行われていた。男女数人がロータリーを背に我々に叫んでいた。ここまでなら不思議なことは一つもない。日本でも自分の権利を守るために立ち上がる人間はいる。しかし、それは奇妙だった。いつもの労働条件についての話でもなく、子供の病気でもなく、ただ同性愛についてのデモだった。でも、その内容は同性愛についての法律の些細な部分の改正が主な主張で、言いたいことは全て旧世代が言ってしまったように空虚だった。だから、ロータリーの前で立ち止まる人間はただの一人もいなかった。誰も顔を向けようともしなかった。そのデモを避けるようにしている人間の流れに乗って早いとこ学校に向かった。
-マジで気持ち悪かったよね
-え?何が?
-駅前のやつあんた見てないの?
-マジ?そういえばさぁうちのクラスにチップレスが…
-そうなの?…
笑い声が廊下に響いた。放課後になってもその話題は続いていた。図書館で呆けていたのだが、廊下から喋り声が聞こえてきた。僕は考えていた。なんで今さら同性愛なんだろう。22世紀にそういう運動が盛り上がったことは知っているけど、もうべつに男女にたいする社会文化的習慣はとっくのとうに失われているし、前年代に問題になっていた女性の地位向上は「チップ」によって解決したかのように見えていた。「チップ」の働きは凄まじく、人類の知能指数を底上げしたし、それに伴って蓄積されていた環境問題や国際問題、人権や戦争などについて大きく改善されることになった。国際社会はこれを機に一致団結せんと奮闘しているようだ。僕はその事実に満足して一眠りしようとしたのだが邪魔が入ってしまった。
「夕、もういいのかい?」
「…一体何がいいんだ?」僕は眠ろうとしていた体を起こす羽目になった。
「だってあんなに勉強してたじゃないか。毎日毎日、よく飽きないもんだと思ったのに、ついにやめてしまったな」
「よせよ傑。その話はもうしたくない」
「君の取り柄なんて勤勉なところしかなかったのに、それを失くしたらただの頑固者だね」
「その頑固者をどうこうしようと思ってるんだったらお門違いだよ」
まったく。そういう彼のため息も聞こえてきそうな顔をしている。
「別に僕の卑屈が今に始まったことじゃあないだろう」
「そんなこと言わずにみんなと話してみたら?案外面白いかもしれないよ」
「死んでもお断り。もういいかい?僕は寝ようとしたところだったんだけど」
「そうだ、ちょっと忘れごとというか頼み事があったのを思い出してさ」
こいつに振り回されるのかと思って、僕はため息をついた。
「まあまあ、話だけでも聞いてよ」傑は飽きもせずニコニコとした模範的な笑顔を貼り付けていった。
「君って誰かを愛したことあるかい?」でも、今回は驚くほど真面目な顔をしていた。
「そんなこと、今となってはしたことないやつを探す方が難しいだろ」
「そうだろうね。でも僕は君に聞いてるんだけど、本当のところはどうなの?」
「残念。ないよ、天に誓って」
「君のために言っておくけど「チップ」がないと愛せないわけじゃないよ。言うなれば愛し方を思い出したとか、そんなところかな」
「それより、自分にそんな人間が現れると思ってないだけだ。別にあんなことされなくても愛なんてしらないよ。しかも僕はまだ。そうだろ?」
「確かに、君はそういう人間だ。でも、人間じゃない何かを愛したことは?」
「そういう傑はあるのかよ」
「僕は子供の頃ぬいぐるみを愛していたね。小さい熊のぬいぐるみさ。女っぽいから捨てろと言われたけど、ついぞ僕は手放すことができなかったね」
「ああそう。自分もあることにはあるけど」
「え!?例えばどんな?」
「言うわけ無いだろ。傑じゃあるまいし。お前は兎に角喋り過ぎだ」
「君は喋らなすぎだと思うけどなあ」
そう言って傑は難しい顔をして言葉を続けてしまった。
「じゃあ僕が君のことを好きだと言ったら?」
「…からかうのはよせよ。冗談にしてもつまんねえぞ」
「僕は本気だよ」
即座に彼は言った。私は絶句した。彼は見たことがないぐらい緊張しているようだったし、その目は落ちてしまうんじゃないかというほどぐらぐらと揺れていた。
僕たちの世代の人間には頭の両側の側頭部に計6箇所、毛根が失われている箇所がある。人間の脳にチップが埋め込まれてもう70年余は経過しようとしていた。思考や情報処理を司る大脳皮質、感情に関する大脳辺縁系に主に埋め込まれる。幼児の頃に脳にごく小さい6箇所、右脳と左脳に当たる部分に皮膚、筋膜、頭蓋骨、、硬膜、クモ膜に穴を開け、そこから目的の場所にナノピンセットを用いて埋め込む。ナノピンセットとは名ばかりの細い糸の先端に電気信号で引力と斥力を制御できる10ナノメートル程度のモジュールがくっついているだけなのだが。そして、チップと言っても脳細胞を模したシナプス回路であり、古典的な電子回路のような基板ではない。この技術は人間の感情をどのようなシナプスの経路で通ったら感情が発露されるのか解析したところ、ある特定のパターンが人間の悪性に関わっていると前時代の科学者たちが判断したことがきっかけだった。大量情報群処理技術が確立されたことでこのような研究が為されたのだ。この技術を応用して感情のある特定のパターンを回避するように設計された回路は、難なく脳細胞培養をベイズ推定によって作られてしまった。
このチップは効果的面で埋め込まれた90%以上の鬱患者を回復させ、60%の精神障害者を病院から出所させることができた。しかし、このチップは定着に数十年を有する。幼児に埋め込んだとしても自分の細胞でないチップを受け入れられるには10~20数年の時間がかかる。また、人間の脳の本質に関わる脳幹の部分やには誰も手を付けようとしなかった。本能に触れることは人類が滅亡してしまう危険と隣り合わせだったから。また、現時点で幸せな人間はチップ埋め込みに同意しなかった。感情を制御されたくなかったから。主に同意したのは子供の両親と中流階級以下の人間だけだ。私ももれなく両親が同意してチップを埋め込まれている。なぜなら、大人になってからチップを埋め込んでも成功する確率がとてつもなく低いからということと、チップを埋め込まれた子供第一号が類稀な天才児であるにも関わらず、他者と積極的に関わろうとして人間性と才能の両立を成し遂げ、瞬く間に教育熱心な家庭は子供にチップを埋め込むようになった。
その過程で、人間の多様性を訴える文化は廃れてしまった。既に100年以上続いたその活動に飽き飽きしていたということと、ほとんどの人間がパートナーを見つけることに苦労しなくなったからだ。個性が必要なのは自分に特徴がないと思ってしまっているだけで、ただ魅力があふれる人間がたくさんできて、人生の伴侶探しに誰もが満足してしまったら多様性は不要になっただけだ。コンプレックスの原因として異性や、人間に対する信頼が重要だと人類が認識するようになったのもここ数十年だ。結局、同性愛者は異性にアプローチできないほど自分にコンプレックスを抱えていて、そのせいで自分の安全領域を脱しないから同性に魅力を覚えるのだ、という言説が瞬く間に増え、賛同者も増えた。証拠に、自身が同性愛者であるということを明らかにする人間は減って、どの国においても出生率は向上した。本能のレベルで人間は男女で組み合わさることが正しいとされてしまった。だからこそ感情で起こるいざこざは「チップレス」の特権になった。まだ埋め込んでいない人間や適応に時間がかかっている人間のことだ。反対に「適合者」の人間でも悪感情を引き起こすことはあれど、それは対話のために必要だとされていることを無意識に実行しているとされている。だからこそ、適合者の権化のような傑がなぜ、同性愛者であるような発言をしたのか、私はまるでわからなかった。
「早く冷めないうちに食べなさいよ」
そう言って母親は自分の部屋に戻った。僕の目の前には70インチのテレビにソファとローテーブル。下には硬めのプラスチック質のマットが敷かれている。僕はそれを見ながらその手前にある椅子とテーブルに座ってご飯を食べている。今日のご飯は最新式の魚料理で、白い容器に赤いストライプが入っている。内容物は焼き魚と野菜と白米だ。毎年最新式と呼ばれる食事が発売されているが、一体何が新しくなったのかはわからない。誰もわかっていないのにその商品は飛ぶように売れている。僕は食事をしながら傑のことについて考えていた。彼はいたって真面目な優等生で、見ている限りだと欠席も遅刻もしたことはなさそうだ。誰に対してもにこやかだし、およそチップレスのような動きはしていなかった。チップレスの行動は基本的に誰かを貶めるか、いじめたりして、その優越感に浸る傾向にある。また、他人に対する恐怖感も強く疑心暗鬼になる傾向も確認されている。傑にはもちろんそういった傾向は見られなかった。母親の話し声が部屋から聞こえてくる。大方思念体と喋っているのだろう。僕に話しかけるより声のトーンもスピードも饒舌だ。笑い声さえ聞こえる。父とはもう長いこと会っていない。
「おはよう、夕」
別に他のクラスの人間が僕らのクラスに居ることは何ら不思議じゃない。別に普通のことだ。あの優等生の傑がパーソナルスペースを破って誰かと会話していることが稀なのか、私を熱っぽい目で見ていることか。そうしていると、傑は僕の手を取ってこの場から逃げ出した。まだ登校時間であり、まだ廊下に人間はたくさんいる。朝から廊下を走っているこの二人に、この場の人間が全員こちらをみているような錯覚さえ覚えた。傑は私をどこへ連れて行くのだろう。私は傑のことは好いているけど、愛しているわけじゃない。そもそも、傑は私のどこを見て好きになったのだろうか。だから聞いてみることにした。ようやく人気のない音楽室の前に来た。息は上がっていて、まだ春だと言うのに僕たち二人は汗だくだった。それでも傑は本当に楽しそうに笑っていた。私は感情の発露が自然な傑のことは信じられる気がしていた。多分僕らの世代の中でも適応が一番うまくいっているのだろう。
「傑はさあ、なんで、好きなの?」
「君のこと?」
「…そうだよ」
傑は腹を抱えるほど大笑いして地面にへたり込んだ。私は思ったより恥ずかしい思いをして言ったのにあんまりじゃないか。
「なんでかと言われれば難しいね。強いて言うなら君が一心不乱に勉強している姿を見てピーンと来たんだよね」
「それって本当に思ってる?」
「まだチップのこと疑ってるの?僕がチップで制御されてるとしても僕がそう思ってるからそうなんじゃないの?」
「そうじゃなくて、適合者に同性愛なんていう感情なんてないんじゃないの。だから、少なくとも僕には君がからかってるようにしか思えないんだけど」
そういうと彼は怒った顔をした。私は初めて彼の怒った顔を見た気がする。
「じゃあ、どうやったら分かってもらえるかな」
なのに、私に怒ろうとしない。適合者は誰とでも対等な関係でいようとするし、自分の感情によって相手に悪い感情を引き起こさせないような対応をする。だから私は、
「君のことが信頼できないって言ったらどうする?そもそも、僕と君が出会ってからまだ1年もたってないんだけど。それで好きになってくれって無理な相談だね」
「だったら、毎日君に会いに行くよ」
「土日までくるの?それは勘弁してほしいんだけど。有難迷惑ってやつ?」
「じゃあ毎日図書館集合でいいね?今日も図書館行くよね?朝から会えて楽しかった。僕、そういえば日直だったから先行くね」
そう言って彼は僕を置いていった。
そもそも、好かれていると分かっている相手に対して辛く当たるような自分なんて傑と釣り合うと思えない。釣り合うかどうかで付き合うかどうかを決めているわけじゃないけど。多分、チップレスの私は誰かと心を交わすなんて一生ないのだと思う。
あの後、クラスへ戻ったら私のことを物珍しさしそうに見る人間はちらほらいた。多分朝学校にいた人間だろう。でも、大体の人間はゴシップがあんまり好きじゃない。だから、誰も喋っていないのだろう。チップがない時代は大変だという話をよく教師から聞いている。子供同士でいじめが起きてたり、凶悪犯罪があっても子供という理由で処罰されないとか、教育制度が悪いとか、さまざまな問題があったらしい。遺伝子によって自分の才能が決められてしまうことに耳をふさいでいたらしい。それでも、特定の能力の優劣によって貧富の差が拡大しているんじゃ世話がない。それなら、どんな能力でも活かせるような仕事を作ればいいじゃないかと思うんだけど、それはうまく行かなかったらしい。なんでも利権?権利?を手放したくない人たちがいて難航したらしい。とか、人間同士で差別していたりしていたらしい。結局チップの普及率によってそれらは手放されたし、誰もが公平な社会に尽力することを目指していた。それでも人間が団結するために共通悪を作り出すことはある。どこまでも善的な人間はいない。それをみんなが理解して共通悪を使っている。悪側の人間もそうなることを認めて活動している。公平にみんながどこかのグループでは善で、どこかでは悪になるようにして、みんなで分け合っている。だから、多分学校では私はチップレスだから悪なのだろう。じゃあ、チップレスな私はどこに善があるのだろう。
家に帰ると自分の席に赤のストライプが入った白い箱が置かれていた。机の上のメモは、温めて食べてください、とだけ書かれていた。夕方に帰ってきたにも関わらず夜になるまで家に誰もいなかった。多分両親は仕事で忙しいのだろう。だから、私は真っ暗な部屋で味気のないご飯を食べる羽目になった。いつもいる母親の扉の向こうから聞こえる楽しげな声もしない。テレビを点けても面白いことなんて一つもない。別にネグレクトされてるわけじゃない。もう私は中学生だし、もう両親の手を煩わせる年齢じゃない。だけど、どうしても寂しい気持ちが消えるわけじゃない。同じ机でご飯を食べたことがあったのか、忘れてしまった。昔はそうだったか。私は貪るようにご飯を掻き込んで、孤独を紛らわすように布団に入った。
家に帰っても自分の居場所がないと思ったのは私がチップレスだと判明してからだった。その頃、私は周囲を悩ましてばかりだった。何時まで経っても家に帰らないことが主な原因だった。大抵私はどこかの監視カメラに写っていたり、目立つ場所にいてすぐに場所がわかるような場所にいた。だから両親にはいらぬ心配をさせてしまったのだと思う。だけど、私には必要なことだった。でもそれを誰にも打ち明けることはしなかった。自分でもこの考えは可笑しいと分かっていたから。
でも、そんな私を見かねて両親は私を病院に連れて行くことにしたらしい。両親は私がチップレスかどうかをしきりに気にしていた。私にとってはそうであってもどうでもよかったのだが。病院での検査は、視力検査、聴力検査、それから知能指数テスト、性格診断を受けさせられた。それら全てを総合して判断するらしい。私としては脳の中を開けられて検査するものだと思っていたから安堵した。後々調べると、チップを埋め込んだ脳の信号を解析しても、それがチップ固有の反応を示すわけではないらしい。個人に適応するために埋め込んだチップそのものが変化してしまうそうだ。だから、適合者かどうか調べるためには、性格診断が傾向を調べるために必要なのだそうだ。適合者は特に、協調性、開放性のスコアが前時代の人間のスコアの平均より高くなる。それだけなら遺伝的に、知能指数を測って適合者かどうか判別する。知能指数は相対的なものであり、適合者が多くなったこの世界では平均値が前時代の人間より高くなっている。だから、適合者は偏差値が47以上ということになっている。曖昧な基準ではあるが、適合者の殆どは人間関係において有利に物事を進められるためわざわざ判別しようとしないらしい。適合者検査を受ける人間の8割がチップレスなことがどこかの大学が明らかにしたらしい。
だから私は、普通の人間じゃないから検査を受けたわけで、もれなくチップレスだったことがその1週間後にわかった。私としてはそうだろうなと思っていた。それよりショックを受けていたのは両親だった。なぜなら幼少期にチップレスである場合、適合者になる実例が今のところ確認されていないからだ。私は別に悪いことをしていないはずなのに、母親はヒステリーを起こして、家中の物に当たり散らした。母はいきなりタンスから物を手にとって私に向かって投げ出した。私達の写っている写真立ても、家族みんなで一緒に作った陶器の皿も、私が大切にしていたきれいな貝殻も、両親に渡した似顔絵も全てを私に返却してきた。父親はそれを宥めようとしていたが私の方を冷たい目で見てしかいなかった。チップレス。それだけで私の家族は崩壊した。床に散乱したゴミは全てゴミ袋に入れられて捨てられてしまった。それでも私はこの人たちの子供だったから虐待されなかったけれど、もう家族一緒に何かをすることはなくなった。両親は立ち直るのに1週間もかからなかったけれど、私は今の今まで引きずっている。だから適合者はなんて傲慢な人間なんだと思うようになってしまった。彼らは自分の思い通りに行かないことをすべて諦める。そして、次を探すのだ。確かに、その環境に自分が合うか合わないかが問題なのであって合わないと判断されればすぐに捨てられる。家族でも同様なことが起こってしまった。だから、私は真実なんて必要ないし、適合者を信じることはできないのだろう。誰かが帰ってきた音がしたが、私は眠ることにした。
小学生の頃、私の登下校に眼を見張るような長さの水平線が通学路から外れたところにあった。それはこの地球上を平面だと思わせるには十分な長さだった。だから、あの地平線の奥から私は呼ばれているような気がしていた。私にはまだ奥があると信じていたのだ。眼の前の道路と並行してどこまでも続く水平線。その向こう側に夕陽が落ちていく。もう夜が近い。太陽は私の頭上に位置している時と、向こう側へ落ちていくときでは様相が違う。その輝きに自分が吸い込まれてしまえばいいのに。だから私はあの地平線の奥に行こうとしたが、この未熟な体では海を泳ぐことも、夜中に家を出るのも、自由にお金を使えるわけでもない。だから、半ば諦めるようにしてこの欲求を抑えていた。私の家は普通の家だ。友達と話していて、おかしいという顔をされたこともないし、それについて言及されることもなかった。だから、みんなの作文がどんどん現実的になっていくにつれて、そういうものだと思った。私もこれを封じてしまおうと思った。結局、地平線の奥に行こうとしても別の大陸があるだけで、奥に行けるわけではなかった。地球は球体で奥なんてないことがすぐにわかった。しかも、私は勉強していくにつれて、あの夕陽はただの物理現象ということがわかってしまった。私の見ていた青空はレイリー散乱によるもので、光が大気中の分子に入射して、散乱した結果で青くなっているだけ。レーザー光は大気中で見えないが、煙の中をレーザーを通すと経路が見えることから、散乱することで目で見えるようになるとも言える。夕陽は日光が地上に到達するまでの経路が日中より長くなるため、短波長の光が散乱によって減衰してしまう。そのため、長波長の光のみが地上に届くようになる。だから、赤く見えていただけ。夜は光源を失ったら暗くなるだけ。それを夕方とか夜とか呼んでいただけだった。そもそもの光は電磁波で電界と磁界の波が進行方向をz軸として、電界がx方向に振動して、磁界がy方向に振動しているだけだ。人間は800nm~400nmの波長の電磁波を観測できる、ということを可視光と言っているに過ぎない。そんなことのために勉強していたのだと思ったらあとは虚しくなるだけだった。
「僕は君を好きなんだ。でも、それだけじゃだめなのかい?」
だから、この彼の声も私にはもう届かないのだろう。
「もういいよ。どれだけ傑が好いてくれていても、私にはそれが本当かどうか確かめる術はないだろ」
「そもそも、他人の気持ちなんて分かるはずないだろう?でも、僕は君と疎遠になる可能性があってもこうやって君にプロポーズしているということがその証拠にならないのかい?」
夕陽も、そんなふうにしてある現象を単語に置き換えて一般化しているだけだ。幸せや愛情、悲しみや憂いなんか、本当の感情を体験した人間なんてこの世には存在しない。
「自分以外にも、少なくとも十億以上の人間はいるじゃないか。なぜ君を信じようとしない人間を好きになったんだよ」
日常が幸せだと思う人間は、幸せを全ての物事に当てはめているだけで、全てを当てはめられる言葉が何かを説明するわけじゃない。
「…じつはさ、君が羨ましかったんだ。僕は」
感情は言葉にすることで空虚になる。自分がその感情に支配されていると勘違いするのがオチだ。
「僕は家族や友達が素晴らしいと思うことしか勉強できなかったんだ。だって、みんなから肯定されないと僕たちは生きていくことができないんじゃないかって恐怖に怯える羽目になるだろう?」
私達の生活圏に万有引力があって、空の色はレイリー散乱がもたらしたもの。レイリー散乱は電磁波の波長より小さい物質に対して原子が電気双極子放射によって散乱する現象であったとしても、その事実が私を癒やすことはない。
「でも、そこから逃げ続けても生きていけることがわかったんだ。なぜなら、 みんな同じように逃げているからさ。でも君はたとえみんなに嫌われようとも自分を貫いていたし、いつも変なことばかりしているから興味が湧いたんだ。人間に興味が湧いたことなんて初めてだったよ」
傑は毎日のように私に会いに来た。どれだけ私が鬱陶しそうにしても彼は片時も笑顔を絶やすことはなかった。でもそれは結局運命なんかじゃない。誰にでも平等に時間は流れてゆくし、夕陽は輝いている。結局彼だって私が振り向かないと分かれば別の人間を探しに行くのだろう。別にそれは悪いことじゃない。
「傑、私がなんで人間を信用していないんだと思う?」
彼は分からなさそうな顔をした。それもそうだ。
「私はね、もう面白いと思えないんだ。科学的に論証可能なものに興味がわかないだけだ。夕陽だってただの物理現象によって成り立っているだけだし、そんなただの事実に感動している人間に浅はかさを感じてしまうんだ」
「夕、でも僕が君を好きなことに物理現象が関わるのかい?」
「そもそも人間の脳が電気信号のやり取りによって動いていることはもう明確になっている。ある感情を引き起こすのはシナプスの重み付けによるものだってね。適合者にはそういうシナプス回路の傾向がある。それは、すぐに再チャレンジすることだ。あまり不安を感じないように環境そのものを変えてしまうんだ」
「だから、何が言いたいんだ」彼は恐怖を感じているみたいだった。だから僕はこう言うしか無かった。
僕は君を好きになることはあっても、それが本当の愛情だと判別することは不可能だ。君たち適合者は私を見限ればすぐに何処かへ行ってしまうだろう。私の両親のように。そんな人間を信用しろという方が難しい。なぜ、感情を曖昧なまま感じ取れないのか。なんで相手の言うことや行動に理由が必要なのか。私が夕陽を見るのに、大した理由が必要なのか。なぜ素直に行動したら疎まれるのか。君たちには一生かかってもわからないことだろう。だったら、そんなこと知りたくもなかった。でも私は知らないことを選べなかった。だからもう、私は誰のことも信頼できない。
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