春の毒

西野ゆう

うち上る佐保の川原の青柳は今は春べとなりにけるかも

「良薬は口に苦しと言うじゃないか」

 それにしたって苦すぎやしないか。口の中だけじゃない。胃のあたりを中心に、左右の肺までも。つまりは胸全体に広がる苦味。

「良い薬になったのではないか、実際」

 薬とは病を治すためのものだろう。あるいは、治らぬ病の痛みを一時いっときでも忘れさせるもの。

 なるほど、僕は病に蝕まれていたと言うのか。

「まあ、毒を食らわば皿まで。なんて言う者もいるから、その点では賞賛に値するね」

 今度は毒か。僕は毒と知りながらその全てを喰らい、その毒を盛った皿、いや、持った人間ごと喰らったのだろう。

「何れにせよ、春は別れの季節でもあり、出会いの季節でもある。女の数も星の数ほど、ってね」

 そう言われると同時に、なぜか背中も強く叩かれた。

 河川敷に吹く風が、土手の桜を揺らす。まだその花びらを散らすほど、桜の花は「桜色」になっていない。風も僕の心を冷ますには充分なほどの冷たさに思えた。

 単なる昔からの知人であり、決して親友とも幼馴染とも他人に紹介するような関係ではない木嶋の言葉をここまで聞き流していた。だが、僕はもう「親友を慰める優しい俺」を演じる木嶋に付き合うのを辞めにする。

 木嶋に叩かれた背中より、佐保川の上流から僕の頬を撫でた冷たい風が、両足に力を注いだと自覚したから。

「だけれどもね、彼女はこの地に、この世に一人しかいない存在だったのだよ。この空の下に、たった一人しか」

 立ち上がって木嶋を見ることなく、僕は力強く言った。誰からも反論されることのないように。

 僕の心の中にも愛すべき人は彼女一人しかいない。

 なんとかもう一度彼女に会えぬものか。川を右手に古都を歩き彷徨う。

「随分と花開いてきたことよ」

「今宵は晦日。三日月の宵にでも行厨こうちゅうを持ちましょう」

 着物の袖で口元を隠しながら、弁当のことを行厨などと話すとは。僕は思わず身を寄せ合い対岸を歩く二人を見た。

藤原麻呂ふじわらのまろ大伴坂上郎女おおとものさかのうえのいらつめだな」

 僕は周りなど見えていない様子の二人に苦笑し、妬み、それ以上二人の声が耳に入ることのないよう、まっすぐ前を見据えて歩みを早めた。

 しばらく何も見ず、何も考えず、ただ左右の足と手を交互に振り出すことを考え進む。人もまばらになり、細い道がまた一段と細くなった。その道の傍、新緑の柳の枝が揺れている。

「その昔にはね、眉根を掻くと良い人に出逢えるという迷信のような、まじないのようなものがあったらしいわ」

 脳裏に蘇る彼女の高く澄んだ声と、気取って語尾に「わ」と付けて話す愛らしい口調。

「月立ちてただ三日月の眉根掻き日長く恋ひし君に逢へるかも」

 彼女は大伴坂上郎女が詠んだ歌をどこぞかで目にしたのだろう。僕からの交際の申し込みに恥じらいながら応じた時の言葉が幾度も蘇る。

「そのまじないが通じたのだわ」

 何分咲と呼ばれる花よりも、柳の葉に春という名の君を思い浮かべてしまうのは、その葉が君の眉を想起させるからなのかも知れない。

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