食う者と食わせる者②
千歌の脳裏に、ある可能性が浮かび上がる。貞春が行なっていた不死の薬の研究。その薬が完成し、テストとして貞春が自身に投与していたとしたら……すでに貞春は、交通事故や殺し屋の手では死なない体になっているのかもしれない。
もし貞春が不死となり、殺し屋を返り討ちにしていたとしたら、妻が自分を殺そうとしていたことにも気付いているだろう。ならば、自宅に向かう理由は、妻に報復するために違いない。
千歌はこの仮説が正しいという想定で、次の行動を起こすことにした。自身の作業部屋に入り、デスクの引き出しから小さい茶色の瓶を取り出す。中身は毒薬。千歌が薬の知識を使って開発した神経毒で、0.1mgでも体に入れば30分足らずで全身に力が入らなくなり、臓器の活動が停止し始め、1時間もあれば死に至る。しかも毒薬はその後1時間以内に分解され、死体を調べても検出されない。無味無臭の完璧な毒薬。千歌はこの毒薬をサーロインステーキの上にバシャバシャと振りかけた。
これまでに千歌は、この毒薬を使って面倒な人間関係をいくつも解消してきた。仕事に何かとケチをつけてくる職場のイヤミな上司、たいして仲良くなかったのにしつこく連絡をしてくる同級生、夫婦生活の先輩面をしてマウント取りしくる隣人。このような人物たちを亡き者にしてきたのである。もちろん証拠は残っておらず、千歌に殺人の容疑がかかったことは一度もない。
しかし千歌としては、貞春を殺すためにこの毒薬を使たくなかった。貞春とは結婚してまだ1年も経っておらず、保険金をかけたのも数カ月前。このような状況で夫が不審な死を遂げれば、証拠がなかったとしても妻、つまり千歌が疑われるのはほぼ確実。千歌が大嫌いな面倒ごとが増えることになる。だから貞春には、千歌が関与し得ない状況で死んでもらうことが理想だったのだ。
けれど、今はそうも言っていられない。貞春を殺さなければ逆に自分が殺され、計画は水の泡。なんとしてでも貞春にこのサーロインステーキを食べさせ、自然な形で毒を飲ませる必要がある。
貞春が不死になっている場合、毒薬が効くのかは不明。毒薬すら無効化してしまうことも考えられる。けれど、少なくとも包丁や鈍器などを使って殺すことはできないだろうし、証拠が残る殺し方で貞春を葬っても意味がない。今の千歌には、毒薬以外に貞春を殺す手段はないのだ。
千歌はパックご飯を温め、湯を沸かしてインスタント味噌汁を作り、テーブルの上のサーロインステーキの横に並べ、さも貞春の退院祝いかのように仕立てる。明らかに手抜き料理だが、そもそも千歌は結婚してから貞春に料理を振る舞ったことなど数えるほどしかない。この程度の手抜き、貞春は気にもしないだろう。
千歌が食事の準備を終えた直後、インターホンが鳴った。千歌は恐る恐る玄関のドアスコープを覗く。紺色のスーツに赤いネクタイをした貞春が立っていた。朝、出勤したときと同じ服装だ。千歌はドアを開ける。
貞春「ただいま、千歌」
千歌「お、おかえりなさい……事故に遭って、病院に運ばれたって聞いてたけど……」
貞春「ああ。でももう大丈夫。すっかり元気だよ」
千歌「そ、そうなのね……とりあえず無事で良かった」
貞春は家の中に入り、玄関のドアを閉める。
貞春「どうした千歌?なんだか、怯えているようだが?」
千歌「えっ……い、いや、そんなこと、ない、けど……」
数時間前まで重体だと聞いていた夫が無傷で帰ってきたのだ。怖くもなる。さらに千歌の仮説がほぼ確定的になったことも、恐怖心を加速させていた。今の貞春は、以前のさえない薬学者ではない。不死身のゾンビ野郎だ。
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