第三章 - 遺書 -
「書き置きが残っていました」
女性を運ぶ準備をしている最中に、タイカが説明してくれた。
ヤムトは洞窟の入口で火を熾していた。水を暖め少年に重湯を与える為である。
「彼女は《
タイカが書き置きの内容を語った。
髪の色から予想はついていたが、その女性は氷の精霊の祝福を受けた《
氷の精霊は土地の精霊に比べて直接的な恩恵は少ないが、それでも精霊の力を借り家畜を狙う獣を撃退したり土地の霜の痛みを和らげたりと村に貢献した。
彼女の尽力に村人たちは喜び、元々憎からぬ仲であった村長の息子と結ばれることになった。
「待って。《
「精霊の考える伴侶と、人の考えるそれは違うよ。君の御仁にも聞いてみるといい」
思わず口を挟んだシュトに、タイカが不思議そうに答えた。
君の御仁、とはシュトの伴侶たる火の精霊である。焚火に火種を提供した後、今はシュトの腰に下がる
続けていいかな、とタイカが尋ねる。シュトは曖昧に頷いた。
女性はその後、子供を生んだ。男の子だった。
夫とも、嫁ぎ先である村長夫婦とも仲は良かった。大森林の村の中、決して豊かではないが幸せな日々を送っていた。
だが、そんな生活が壊される。
蛮族の襲来だった。
村は北寄りにあるとはいえ、今まで蛮族の襲来などなかった。
しかし蛮族は、どこからか氷の《
蛮族にとって氷の精霊は神聖である。その《
蛮族は村を襲い抵抗する者を容赦なく殺した。
女性は精霊の力を借りて抵抗した。夫を殺され、怒りに震えて氷片の雨を降り落とした。だが、最後には息子を人質に取られ、これ以上村に危害を加えないことを条件に降参した。
元より蛮族の目的は女性だった。女性と、彼女の子は蛮族と共に去った。
それから三年。女性は巫女として蛮族の集落で役目を果たしながら、子供と共に脱出する機会を狙い続けた。
女性には危機感があった。このまま息子が蛮族の許で暮らし続ければ、身も心も蛮族と同じになってしまうのではないかと。
夫を殺し、同胞である村人たちを殺した蛮族に、息子も成り果ててしまうのではないかと。
密かに準備は進めていた。逃げ出した後に生き残れるよう食事を少しずつ隠し、村までの道程を調べた。
そんな折、集落が別の蛮族に襲撃を受けた。
外に飛び出した。吹雪だった。家々には火が回り、煙と雪が辺りを覆っていた。
劣勢のようだ。このままなら、この集落は負ける。
それなら、追っ手はかからない。
逃げて村へ帰っても村は安全に違いない。
集落を逃げ出した。
吹きつける雪の中、森の中を進んだ。氷の精霊の加護により寒さは凌げるが、持ち出せた食料は少ない。それでも雪を溶かし水だけは確保出来る。
親子は進み続けた。わずかな食料を女性は全て我が子にあたえた。
しかし、そんな無理は長く続かない。女性は這うように風雪が凌げる洞窟に入ると、そこで倒れた。
せめて、この子だけは。
子供もまた疲労がひどかった。共に横になり、息も浅い。
最後の願いをこめて、外套の裏地に思いを綴った。顔料も、染料もない。石膏のように白く枯れた指先を切り、その血で文字を残した。
どうか、この子を助けて下さい。
薄れる意識の中、洞窟の外に狼を見た。彼女は願った。
私を食べても良い。
だから、この子を。
シュトは、洞窟の入口の端で寝そべる狼を見た。
白い毛並み。顎を地面につけ、細めている目は赤い。
《狂える獣》となった狼。氷の精霊に取り憑かれ、変貌した獣。
「じゃあ、あの狼は」
「おそらく、彼女の精霊が憑いているのだろうね」
彼女の死後、伴侶を失った精霊が近くに居た狼に憑りついた。
そして子供を守った。
「何とも、泣かせる話じゃございやせんか」
湯を沸かした小さな鍋に麦種を混ぜながら、ヤムトが言った。
憎々しげな口調。普段の飄々としてさえいる調子からは考えられない、刺々しさがあった。
「随分と、険がありますね」
「言っとるでしょう。手前は霊の類が嫌いなんでね」
お嬢の腰の焔さんには、もう馴れやしたがね。そう取って付けたように加える。
そんなヤムトを、タイカが気遣わしげに見る。
祖霊やら精霊やらの話になるとヤムトは酷く険しくなる。
タイカも、そんな時のヤムトには強く当たらない。
何か嫌な思い出があるのだろう。そう思うと、シュトも追及できない。
シュト自身、奴隷だった頃の嫌な記憶や攫われ、痛めつけられた時のことなど思い出したくもない。
その程度には心の機微が分かってきていた。
「彼女の書き置きによると故郷の村には大きな石柱があるそうだよ。この子が回復したら一番近い村へ寄り、そんな村を知っているか聞いてみよう」
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