第九章 - そのはじまり -

 渓谷の先、村を見下ろす丘の上でタイカはシュリに追いついた。


 息も絶え、言葉を発することも出来ない様子のタイカに、シュリは驚いて立ち止まった。


「どうしたんだ、少年」

「どうし、たんだ、なんて」


 こちらが訊きたい。言い切れず、タイカが膝をついた。こんなに走ったことなど、今までなかった。


「何で、嘘をついたんですか」


 息を整えながら、それでもタイカは聞かずにいられなかった。


「私は去る身だ。それに惜しい名でもない」


 どうせすぐ忘れられるさ、とシュリが笑う。

 笑い事などではない。タイカが頭に血が上った。


「僕は、忘れない」


 シュリが驚いた顔をした。ついで微笑む。その表情に、なぜかタイカは胸が締め付けられるような思いに駆られた。


「私は残り火なんだよ」


 シュリは、腰の油燈ランタンをそっと撫ぜる。


「私はもはや《はふり》ではない。伴侶であり、半身である火の精霊に先立たれた身なんだ」

「まさか」


 タイカは血の気が引いた。森での戦闘を思い出す。

 シュリはあの時、タイカを助け《狂える獣》を斃す為に油燈ランタンの油をぶち撒けた。

 油燈ランタンに火の精霊が宿っていたのなら、火が消えてしまったのは、自分のせいではないか。


「違うよ。あいつは、私の伴侶はもっと昔に消えた。それでも火を灯し続けていたのは」


 未練だ。そうシュリは笑った。

 寂しい微笑みだった。

 あの火も、私も残り火。幽霊のようなもの。だから何を言われても平気だ。そうシュリは言う。


「それでも」


 タイカがシュリの外套を掴んだ。継ぎ接ぎだらけの、しかく厚く固い、旅人の外套を。


「僕が嫌だ。貴方は僕の恩人で、大切で、忘れ難い」


 最後まで言えず再度、タイカが膝をつく。

 そのタイカの前に、シュリも片膝をついた。視線を合わせる。


「僕も、あなたのようになれるでしょうか」


 タイカの口から自然、言葉が零れた。


「君は長老の子だろう」

「僕には、不思議なものが見えます」


 シュリが一瞬、間を置いた。そして頷いた。

 やはり察していたのか。


「その髪と瞳。それに君の周りには不思議な気配を感じることがあった」


 不思議な気配というのは、他の村人には言われたことがなかった。精霊を喪ったとはいえ《はふり》だからだろうか。


「でも土地の精霊の《はふり》ではない。分かるのです」


 シュリが油燈ランタンを見つめるような優しい目で、おそらく土地の精霊は自分を見てはいない。何かしらの好意はあると思うが、そのような深く結びついた愛情までは感じられない。


「長老となる。そう目指すことで自分を騙してきました。でも、このまま自分が何者か分からぬままでいることに耐えられない」


 自分が何者か分からない。それが何よりも恐ろしい。タイカは吐露した。とうとう、言ってしまった。

 何よりも別れ難いこの人に、自分の気持ちを知ってもらいたくて。


「《はふり》ではなくても《物語り》になれるでしょうか」


 縋るようにシュリを見つめた。


「僕が僕を知る為に。《物語り》として世界を識る者に」


 シュリも、タイカを見つめた。


「これを」


 シュリが油燈ランタンを腰から外し、タイカに渡した。


「なら、これを縁に私のことを思い出してくれ」


 私の伴侶の、ついの棲家だとシュリは言った。


「私という存在を、最初に村で出会った私を。村の皆と語り合っていた私を。共に戦った私を」


 そして、こうして村を去る私を。そうシュリは語った。


「これが《物語り》だ。来て、去る。幾らかの形のない何かを残して。そんな存在だ」


 シュリは続けた。


「長老となり、穏やかな人生を送る。人として幸せな生き方だと思う。だけど」


 君の人生だ。そうシュリは言葉を締めた。

 何と言って良いか分からず、動けないタイカを残し、シュリが立ち上がった。


「そうだな。君がもし《物語り》となった時の為に、少しばかり手がかりを残そうか」


 揶揄からかうように、シュリが言う。


「行く先々、そこに手記でも残そうか。あるいは地図か。君の容姿は分かりやすい。君が訪れた時、渡してくれるよう頼むとしよう」


 冗談とも、本気ともつかない口調だった。


「さようなら。君のこれからが健やかであることを、私は望むよ。タイカ」


 最後に名前を言うなんて、ずるいではないか。


 両手で油燈ランタンを抱きかかえ、タイカは思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る