第七章 - 血闘 -

 シュリの背が見えた。シュリの先には白い狼が身構えている。

 狼がシュリに飛びかかる。シュリが避ける。


 紙一重だった。

 

 そんなやり取りを何度もしているのだろう。シュリの元々継ぎ接ぎだらけだった外套が切り裂かれ、襤褸のようになっていた。

 直接大きな怪我はまだしていなさそうだった。だが、それは狼も同様で前足についた村長の血以外は白いままである。いらだちのせいか、狼の赤い目が一層の鋭さを増しているかのようだった。


 タイカは考えた。このまま突っ込んでいっても自分では役に立たない。

 最低限の護身の心得はあるが、その程度だ。人を超える体躯と動きの狼相手ではひとたまりもないだろう。

 だがシュリはどうだ。短い間だが、その狼相手に渡り合っている。なら隙さえ作れば狼を傷つけ、動きを止めることが出来るかもしれない。

 近づきながら周囲を見回す。シュリと狼が戦っている場所の左側を見る。


 そこだ。


 左に曲がる。持っていた木の棒の端、松明がついていない方の先端が木々に当たり、高い音を出す。

 狼が大きくかぶりを振った。シュリも視線だけをタイカの方へ向け、目を見開く。

 どうして、と口が開いたように見えた。

 同時に、狼が飛び込んでくる。だが木に邪魔された。

 そこは、茂みが特に深い場所だった。

 タイカの額に汗が吹き上がった。わざと音をたて、狼の注意を引いた。

 タイカでさえ動くのに苦労する密度だ。木の幹も太い。狼の体当たりでもそうそう折れたりしないと判断したのだ。

 上手くいった。このまま注意を引きながら、狼が動けないような場所を選んで移動し続ければシュリとふたり、逃げるか時間稼ぎか、もしかすると殺すことすら出来るかもしれない。


「やめろ、逃げろ」


 シュリの警告が耳を打つ。そんなこと出来ない。村長にも託されたのだ。


「はやく」


 それこそ、早く逃げるか狼の隙を狙ってほしい。

 そう思った時、狼が視界から消えた。

 タイカが驚き、周囲を見回す。足元から音がした。見ようとして怖気を感じ、咄嗟にのけ反った。

 鼻先を何かが掠めた。


 狼だった。

 

 尻もちをつく。狼が、上空にいた。茂みを縫って狼が近づき、這い上がってきたのだ。

 そして跳躍した。攻撃を回避された為、その先にあった木に爪を食い込ませ、ほとんど垂直になった状態で身構えている。

 信じられなかった。あんな大きな体を支えることなど出来るはずがない。


「避けろ」


 シュリの叫びと同時に、狼が飛び降りてきた。起き上がれない。咄嗟に木の棒を握り、突き出した。

 先端の松明を避けようと、首を捻って狼が飛び降りた。枝葉を折りながら、それでも足をつけて地面に着地する。

 狼の首回りが黒ずんでいた。棒の先の松明を避けきれず、体毛が焦げていた。だが、木の棒も途中で折れてしまった。松明も、狼の冷気に当てられてか消えてしまっている。


 シュリが駆け寄ろうとするが、茂みが邪魔になり、辿り着けない。

 タイカは立ち上がっていた。折れた木の棒の先端を向けるが、身を低くしてこちらを見る狼の目には、赤いのに火のような熱さではなく冷たさしか感じない。

 狼が、低く飛びかかってくる。

 最初の一撃を捌けたのは奇跡だった。茂みの深さに勢いが減殺されたのかもしれない。木の棒がさらに砕ける。だが、狼との距離はほとんどない。狼の白い呼気を肌に感じるほどだった。冷たかった。


 命を感じない冷たさだった。


 シュリが何かを叫んでいる。大分近いようだが、まだ剣は届かない距離のようだ。

 狼が飛びかかる前の、脚を縮める動きがやけにゆっくり見えた。

 これは駄目かな。狼の内に宿る氷の精霊の冷たさが、タイカ自身の感情を凍らせてしまったように感じた。


 シュリが逃げる時間を稼げればいい。


 食いつかれた瞬間に、木片となった木の棒を突き立てる。そう身構えた。

 が、狼は動かなかった。


 タイカは喜ぶより戸惑った。目を凝らす。狼の後ろ脚が半ば地面に沈んでいた。土が泥に変わったようだった。あるいは飛び込んだ先が泥濘だったのか。そんな偶然があるのか。

 狼の横に、透けた人の姿が見えたような気がした。


 狼が吠えた。


 茂みを抜け切ったシュリが、狼に松明を押し付け、剣で貫いていた。

 剣から手を離し、松明を押し付けたまま腰の油燈ランタンを振り上げる。油燈ランタンの底に溜まった油が狼に降りかかり、狼の上半身が炎に包まれた。

 身をよじり、暴れる狼に突き飛ばされシュリが宙に舞う。

 地面に叩きつけられる。だが、うめき声を上げながらも立ち上がる。

 タイカも息を吐き、狼に向き直った。

 暴れていた狼だが、動きは徐々に鈍っていった。

 泥と煤に汚れ、白かった毛並みも灰色と黒の斑になっている。

 斑か。自分の髪のようだ。タイカがそう考える余裕すら生まれた頃、狼の動きは止まった。


 ゆっくりとシュリが近づき、狼と同じく泥と煤に汚れた剣を引き抜く。一瞬、狼が跳ね上がる。シュリが後ろに跳び退るが、その後はもう動かなかった。

 シュリの視線が泳ぎ、一点を見つめる。視線の先には転がった油燈ランタンがあった。

 それを見つめるシュリの横顔。

 見たことのない表情だった。目を細め、頬を歪め。ひどく儚げで。

 泣くのを堪えてる幼い子供のようにも見えた。

 それも僅かな間で、すぐ顔を上げた。

 タイカと目が合う。


「帰ろう。言いたいことは色々あるけど、帰ってからだ」


 シュリが睨む。タイカは独り息を吐いた。

 その溜息が、シュリにこの後言われる叱責を想像してか、それともシュリのあんな表情を見続けなくて良かったという安堵か、タイカ自身にも分からなかった。




 帰りの道中、倒れている村長を見つけた。


 傷口を焼いて止血はしたものの、血を失い過ぎたことで意識を保てず気絶してしまったのだ。

 タイカはシュリとふたり、村長を抱えて村へ戻った。

 村長は重症だったが、命は取り留めた。片腕を失ったのは大きな損失だったが、村の為に命をかけて戦った村長を支えていこうと、村の結束は高まったようにさえ見えた。

 そうして、村に再び平穏が戻った。


 ただひとつ、陰りを残して。

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