第六章 - 森の中で -
タイカと、村長とシュリ。
三人は森の中を歩いていた。
前日、雨だったこともあり草木の匂いが強い。
村から東側にある森で、森の奥ほど茂みも深くない。
狼が目撃された、最も危険な辺りだが、だからこそ村長が担当している。
苔むした木の根に
「大丈夫か」
はい、と頷く。
不思議な気分だ。木の葉の隙間から差し込む光と濃い緑の中を、実父と出会ってひと月も経たない旅人とで歩いている。
視界の隅に、薄く光る柱が見える。土地の精霊だろうか。つかず離れずで付いてきているように見えた。
何故だろう。そんなことを考えていると、村長がつぶやいた。
「しかし、そんな恐ろしい獣が本当にいるのだろうか」
「そりゃあ、いないに越したことはないですが」
シュリが言う。片手に松明、もう片方には長剣を抜いていた。腰の
「実際に出没していて、万が一村を襲った場合、被害は大きい。なにせ《狂える獣》は人を狙い撃ちにしますから」
《狂える獣》の中の精霊が、人のぬくもりを求めているが故に。シュリは語った。
「氷の精霊がか」
「故に狂っているとされているんです。《
シュリの声が萎んだ。周囲の気温が急に下がったように感じ、タイカの背筋に寒気が走った。
否、実際に温度が下がっている。急速に、視界が悪くなる。霧が発生しているのだ。
村長が、松明を結び付けた棒を槍の様に構える。タイカもその動きにならった。
シュリが、剣の先を松明の炎にかざす。白熱した刃が、霧の中で光った。
「近い」
シュリがつぶやく。身を屈め周囲を見回す。赤い瞳が、松明の光を反射して光る。中に火が灯っているようだった。
霧の中から、何かが出てきた。霧そのものが形を成したように見えた。
狼だった。
大きい。
狼は見たことがない。記録では背丈は大人の男の太腿あたりまでとあった。だが、目の前の狼は、背の高い村長の腰のあたりまでありそうだ。
毛並みは全体に白いが、根本の方はやや灰色寄りで先に向かって白くなっている。先端は、ほとんど透明に見えるほどに白い。まさしく雪か氷のようであった。
そして目。赤い。松明の、そしてシュリの瞳や髪のような、火の明るい赤さではない。汚れた血のような、濃く濁った赤さだった。
その双眸が、タイカたちを睨みつけている。
唸り声を上げ、爪で土を搔いている。だが、近づいては来ない。火を警戒してるのだろうか。
「下げるな」
シュリの叱責が飛ぶ。緊張に耐えかね、松明を結び付けた木の棒を一瞬下げてしまった。慌てて握りなおす。
が、遅かった。
狼が、飛び込んできた。巨大な岩石が頭上から落ちて来たようだった。
肩に強い衝撃が走る。痛みと共に横に転がり今度は背中に衝撃を受ける。背を木にぶつけたのだ。
肩にべっとりと血がついていた。しかし、痛みは思ったより少ない。ほとんどない。
タイカの居た場所を見る。血が飛び散っていた。
そして腕。
村長の右腕だった。
その傍らで村長が片膝をついていた。体がぶれている。だが、倒れず左の脇に棒を挟み、左手で木の棒を握り、松明のついた先端を掲げている。
その先には、狼がいた。その爪と、爪の周りの体毛が赤黒く染まっていた。
松明と、松明を掲げる村長を睨みつけていた狼が、不意に飛びのく。
シュリが、その位置に滑り込んでいた。振るった剣に、幾房かの狼の体毛が絡む。
「村長を、連れて逃げろ」
シュリが怒鳴る。緊張の為か、息が切れている。
タイカは、一瞬迷った。村長は自分を庇ったのだ。そして重傷を負った。次は、自分のせいで独り戦う羽目になるシュリが危険になる。
「行け。応援を」
そうだ。応援だ。はっとしたタイカが村長の許に走り寄り、肩を貸す。
限界が来たように、村長がタイカに体を預けた。血は止まっていない。顔色も悪い。
「早く」
シュリが促す。狼がシュリの脇をかすめる。松明を突き付ける。狼が飛びのき、距離が空いた。
その間に、タイカは逃げた。なかば転がるように。駆けようとしたが、足場の悪さもある。せいぜいが早歩き程度だったが、それでも必死になってその場を離れた。
タイカが転がった。村長も倒れ、呻き声を上げる。
慌てて抱き起した。
涙が出た。痛みではない。悔しかった。情けなかった。
何の役にも立っていない。足しか引っ張っていない。
「戻れ」
荒い息で、震える体で。村長が言った。
そうだ、村へ戻って助けを求めなければ。シュトは立ち上がり、村長を担ぐように肩を貸す。
「違う。そちらじゃない」
村長は言う。村の方へ向いたタイカは、不思議に思った。
「助けに行くんだ。《物語り》殿を」
お前が、と絞り出すように言った。
「俺は、戦えん。この腕だ。だが、助けなら俺だけでも呼べる」
そんな状態で、とタイカは思った。
「なめるな。独りでも動ける。俺の分の松明は置いていってくれ」
血止めをしたら、すぐに村へ戻る。そう村長は言った。
「早く行け。あの化け物を倒せなくてもいい。時間稼ぎをして、逃げられるならふたりで逃げろ」
残った腕で、タイカの肩を掴む。熱かった。
「行って、帰ってこい」
そのまま押される。よろめいたが、踏みとどまった。
村長と目が合う。村長が頷いた。
タイカは歯を食いしばった。後ろを向く。シュリが戦っている方を。
そして踏み出した。木の根が縦横に張っている。転ばぬよう、獣のように身を屈めて、駆け出した。
血抜きしていない生肉を焼いたような、気持の悪い臭いと村長のうめき声を背に、そのまま駆けた。
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