終章 - 月下の獣 -

 マキノは剣で茂みを薙ぎ払った。


 剣といっても、マキノのそれは刃も丸まった粗末なものだった。

 槍は置いてきた。木々が邪魔で長い獲物はとても振り回せない。


 少し前を、シュトが歩いている。

 馴れた様子で器用に木の根をまたぎ枝葉を避けている。手に持った油燈ランタンもあまり揺れていない。


 自分がついてきたのは余計なお世話だったのではないか。

 マキノは一瞬考えたが、すぐに否定した。子供が独り夜の森に向かうのを傍観するなど、出来るはずがない。


「おい、大丈夫か。砦への方向は覚えているか」


 小声で尋ねる。情けないが森に入ってすぐ、方向が分からなくなった。夜の森は想像以上に暗く星や月の明かりも通さない。シュトの油燈ランタンだけが唯一の明かりだった。


「大丈夫。タイカも多分、こっちにいる」


 振り向かず、シュトが答える。


「どうしてそんなことが分かるんだ」


 それに聞いたのは戻る時の話でタイカの居場所ではない。


「肌で感じる」

「肌でって」


 やはり特別な感覚でもあるのか。

 いや、違う。確かに感じる。


「寒い」


 うん、とシュトが頷いた。周囲をうかがい、正面を指差す。

 見ると、仄かに明るい。開けた場所のようで、星や月明かりが当たっているようだ。

 冷気もそちらから流れてくるようだった。

 この冷気。どこかで覚えがある。

 背筋にひやりとした感覚が走った。足を止める。

 シュトがそのまま進んだ後、気配が続かないことに気づいたのか、後ろを振り返った。


「その、行かない方がいいんじゃないのか。嫌な予感がする」


 シュトは首を振り、先へ進む。明かりが遠ざかる。

 夜の森で独り残される。その恐怖が足を進めた。

 この森を渡って来るなんて《物語り》だか旅人だかは、本当に頭がおかしい。

 足を早める。止まったら動けない気がした。


 不意に、木々が途切れた。


 開けた場所。足元の草には霜が降りている。足が少し沈んだ。

 そして見た。

 マキノは心底、後悔した。後ずさりし、転ぶ。尻もちを着いた。しかし立ち上がれない。声も上げられない。


 森の中の広場に居たのは熊や狼やらの、無数の獣。

 その獣毛の端々が白く変色している。凍り付いている。獣の目は、血のように赤い。

《狂える獣》だった。

《狂える獣》の群れだった。




《狂える獣》の群れ。


 その中に、タイカが立っていた。

《狂える獣》の一体、獣毛がほとんど白くなった熊と見つめ合っていた。

 熊を見上げるタイカの表情には恐怖はない。熊もまた、動かずにじっとタイカを見つめていた。


「どうして」


 マキノがうめく。その声にタイカが振り向く。白い熊も振り向く。その赤い瞳と目が合う。

 怖い。逃げたい。しかし、体は金縛りにあったように動かない。

 不意に、白い熊が視線を反らした。興味を失ったように、そのまま体を動かし、森の奥へと去っていく。

 同調するように、他の獣も一体、また一体と木々の影へと消えていった。

 残ったのは、マキノとシュト、そしてタイカだけだった。


「何をしていたの」


 シュトが尋ねる。タイカが溜め息をついた。


「彼らの中の氷の精霊たちに伝えていました。貴方たちの求める依り代は、砦の中にはないと」


 何を言ってるんだ、この男は。


「説得していたの」

「説得。そうですね。宿を借りた恩もあります。無駄な争いは止めて貰いたいから」

「待ってくれ、待ってくれ」


 ようやく声が出せた。絞り出すような乾いた声になっていた。


「どういうことなんだ。あんた、《狂える獣》の中の亡霊と話せるのか」

「あれは、亡霊などではありません。氷の精霊です」


 マキノの質問に、タイカが答える。

 訳が分からない。氷の精霊とは何なんだ。

 タイカの次の言葉を待つが、タイカ自身もどう説明していいか思案しているようで、眉を寄せて何か考えている風だった。

 沈黙に耐えきれず、おいとマキノが声を上げかけた時。


 炎が舞い上がった。


 シュトが持つ油燈ランタンの、鎧戸の隙間から火が溢れていた。

 蛇のような、縄のような、細長い炎だった。それがシュトに巻き付く。

 あぶない、と叫びかけ、驚きに声が出なくなった。

 炎はシュトを傷つけることなく、むしろ守るように周りを囲み、シュトも笑顔を向けていた。

 砦では見せなかった、優しい笑顔だった。


「この火の精霊は、彼女の伴侶。決して彼女を傷つけない」


 タイカが説明した。ため息をつきたいような、苦い表情に見えるのは気のせいだろうか。


「世界には、このように精霊が居る。火に宿る精霊、氷に宿る精霊。貴方たちが言う《狂える獣》は本来、宿るべき氷を失った精霊が、獣たちの中に逃げ込み、変容した獣。そして帰るべき場所を探して、人を襲う」

「帰るべき場所、だと」

「そう。例えば氷、それも彼らそれぞれと相性の良い氷か、あるいは彼らと心を交わすことの出来る人。そのような者の助けがあれば、普通の氷にも彼らは宿ることが出来る」


 シュトを見る。


「彼女のようにか」

「そうです。ただ、精霊一柱に対し《はふり》、心を通わせる者は独りしかなれない。資質があっても、救えるのは一柱だけなんです」


 そして、その資質自体がある者は、砦にはいなかった。そうタイカは言った。


「故に、そう伝えました。求めるものがないなら、彼らが砦を襲うこともないでしょうから」

「何なんだ」


 マキノは身震いした。


「お前は、一体何者なんだ。さっきお前は言ったよな、一匹だか一柱だか分からないが、とにかく精霊と話せる人間は一対一しかなれないと。ならなんだ、お前、あの群れ全部に話していたんじゃないのか。だから皆、去ったんじゃないのか」

「私は、そのようなものなのです。私自身、なぜそのようなこと出来るのか分からない」


 でも、使えるなら使った方がいいじゃないですか。そうタイカは言った。

 滔々と話すこの男が、先ほど見た《狂える獣》よりも恐ろしく感じた。


「どうして」


 横から、シュトが口を挟んだ。


「どうして、私を置いていったの」

「それは」

「明日、砦を出た後に来ても良かったはず。私と一緒に。こんな夜中にこっそり来る必要なんてなかった」


 タイカが明らかに狼狽した風を見せた。少し、緊張が解けた。


「彼らと接触するのは危険なんだ。今回は何とかうまくいったけど、失敗すれば襲い掛かってくることもある。正直、君たちが出てきた時、かなり焦ったよ。ほぼ交渉は終わっていたけど、彼らを刺激してしまったんではないかとね」

「私の、せいなのかな」

「いや、すまない。言い過ぎた」

「違う。私のせいで独りで来たというの」


 タイカの動きが止まった。次の言葉を探しているようだが、何も出ないと言った風だ。

 シュトの為か。

 マキノは理解した。タイカはシュトの安全の為に行動したのだ。自分たちの為、という面もあるのかもしれないが、それはついでに過ぎない。彼女の寝床。こんな森の中ではなく、久しぶりに安心して眠れる場所。そんな場所を、たとえ一晩だけしか使わない寝床でも守りたいと願ったのではないか。


「なあ、礼を言った方がいいのかな」


 マキノが、タイカに声を掛け、手を伸ばす。大分収まったが、まだ震えが残っていて独りでは立ち上がれなかった。タイカがほっとしたようにマキノの腕を握り、立ち上がらせる。


「いえ。私が勝手にやったことです。それに私が話せたのは今いる獣たちだけです。新しく出現した《狂える獣》には通じませんし」


 なら、守り人がお役御免という訳にはいかないか。マキノは内心落胆した。落胆できる程度には心に余裕が出来ると別の疑問が浮かんだ。


「どうして、自分たちの力を黙っていたんだ。あと《狂える獣》の正体とか」

「信じてもらえますか」


 逆にタイカから質問された。タイカと、シュトを見る。シュトを囲っていた炎は消えている。

 髪と瞳の色が異なる以外は、普通に見える。

 マキノが首を振った。




 シュトとタイカが砦から去って数日。


 シュトはタイカと共に大森林の中を進んでいた。

 ふと、疑問に思っていたことを思い出し、尋ねてみる。


「ねえ。どうして皆に精霊や《はふり》のことを話さなかったの」

「言ったろう。話しても信じてもらえない」

「でも、私の火を見せれば」


 タイカが首を振った。


「あの辺りの村々では《はふり》がいないし、いたという話もない。《狂える獣》にとり憑いてるのが亡霊ということになっていることが、その証拠だよ」


 それに、とタイカが続ける。


「《はふり》が知られてないのに、火の精霊など出したらそれこそ怪しげな術を使うと恐れられてしまう」


 マキノが黙ってくれていたから良いものの、下手をすればシュトが悪霊憑きとして追い払われ、最悪殺されていたかもしれない。


「ごめんなさい」


 シュトが項垂れる。タイカもシュトが、説明の手前を省こうとして精霊を出したことをは分かっているのだろう。シュトの反省している姿を見て少し安心したのか、やや口調を穏やかにして説明を重ねた。


「信じてもらえ、私なりが精霊と話をつけて、それでもう大丈夫、となることにもない。なら亡霊でも精霊でも、警戒してもらった方が被害も少なくだろうしね」


 森が開ける。


 城壁があった。高さはタイカよりやや高い程度だが厚みを感じる。

 マキノたちの居た砦と同じような作りだった。

 ただ、人の気配がない。城壁の上には誰も居おらず、声も聞こえてこない。

 門に当たる部分には木片が散乱していた。

 タイカが抜刀する。それを見たシュトも油燈ランタンを構える。

 タイカが何か言いたそうな風でシュトを見たが、無視した。

 また置いていかれるなど、ごめんだった。

 ふたりで門の跡を潜る。

 タイカがそっとシュトの視線を遮ろうと腕を上げるが、その手を抑える。


「大丈夫」


 砦には、屍が散乱していた。血は既に乾いている。多くの死体は白骨化していたが、中には乾いた肉がこべりついた死体もある。

 食べる為に殺したのはない。殺すために殺して打ち捨てた。

 そんな印象を受けた。


「行こう」


 タイカが踵を返す。その裾を、シュトが握った。


「この人たちは、このままなの」

「この砦も、近くの村で管理していはずだ。連絡がなければ、誰かが来て、この光景を見る。それで分かるし、村の仕来り通りに葬ってくれるはずだよ」


 タイカの考えていることは察した。このような惨状を、これ以上シュトに見せたくないのだろう。

 食べる為に森で兎や鹿を狩り、その肉を斬るのとは違う酷さが、この場所にはある。

 だけど、このような死は奴隷だった頃の方が身近だった。奴隷は財産だ。生きている間はそれなりに大切にされる。しかし、死んだ後は惨めな扱いをされたり、嗜虐的な主人を持ってしまった奴隷も目にしたこともあった。


「でも」


 ついこの間、似たような場所で生きていた人たちに会った。自分からは何も返せなかったけど、よくしてもらった。最初は何やら不穏なことを言われた気もするが、ともかく最後は優しい別れをした。


「この人たちが、可哀そう」


 タイカが、少し驚いたような顔をした。

 変なことを言ったかな、と少し不安になったが、タイカは微笑みを返してくれた。


「そうだね。簡単でも、墓を作ってあげよう。見に来た人が分かるよう、置き手紙でも書いておけばいい」


 だけど周囲には気を付けるんだ。そう言い、タイカはシュトの肩に触れた。

 タイカの手は、まとった外套越しではあったけど、不思議と暖かった。




── 第四話 了 ──

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