第三章 - 戸惑い -
その後、アガネはタイカに自分の畑を見せた。タイカは他の村で実践している農法を話した。互いの知識の良い点悪い点、交配させたらどうなるかなどの議論を交わした。アガネは自らの作物の種を幾分か渡し、代わりにタイカから種を受け取った。
村に土や気候と相性が良さそうなことは話し合い済だ。播種の季節が楽しみだ。
話は尽きることなく、その日の夜は、最初からアガネの家で夕食を採った。酒も飲んだ。タイカが持参した他所の村の地酒だった。酸味が強いが、その刺激がまた良い。
「あの昼の女性」
議論がひと段落した時、不意にタイカが言った。
「何。エキのことか」
「どうして、そこまで頑なのか分かりませんが。母御の方ですよ」
「……あの人は。俺が兄と慕った人の嫁だ」
「慕った」
「ああ、慕った。今はいない。亡くなったんだ」
何年前になるだろう、酒精のせいで少しぼんやりしている。
「なるほど。それで距離を置いていると」
「距離なんて」
置いていない、と言いかけて喉を詰まらせた。咄嗟に盃をあおる。
水のつもりだったが、酒だった。くらくらする。
「ご自身の気持ちに気付かないか」
タイカの声音が低い。目も座っている。酔っているようだ。顔色は変わっていない。顔に出ない性質か。
「好きなのだろうに」
誰を、と声を上げ、立ち上がる。いや、立ち上がろうとして、椅子ごとひっくり返ってしまった。
痛みはない。だが、ひっくり返り地面から見上げた先に、精霊の驚いた顔があった。
その顔が重なってしまった。エキの母に。
慌てて起こしに来たタイカに引っ張られ、すぐにその幻想は消えた。
「すみません。立ち入るつもりはなかったのですが」
「ああ、いや。いいんだ。ええと、何の話をしていたんだっけか」
ちょっと驚いた様子で、タイカが見やる。
「エキさんですか、あの子のことです。頭の良さそうな子でしたね」
「ああ、特に物語が好きでね。良かったら、外の話を聞かせてやって欲しい」
「わかりました」
微妙に話題が変わっている。が、アガネはその流れに乗った。
アガネは平たい岩に座り、ぼんやりと麦畑を見ていた。畑の中でタイカと老人が話している。
背の低い老人は、麦の穂からは禿げた頭頂部が出ているだけだ。話す度に頭が上下しているので、丸い生き物が飛んだり跳ねたりしているようだ。滑稽といえば滑稽だがアガネは笑えない。
老人は、体系だった知識こそ長老から学んだアガネよりも劣るが、体験で得た知見ならアガネよりも豊富だ。年季が違う。
そういう訳で引き合わせたのだが、遠目で見ても話は盛り上がっているようだ。
ふと、昨日の夜。タイカとの会話と、エキの母の幻を思い出した。思い出してしまった。
幻想は消えたが、記憶は残った。
何であんなものを見てしまったのだ。自分は何を考えている。
頭を抱えそうになり、その手が暖かい感触に包まれる。隣に座っていた精霊が自分の手を乗せてきたのだ。
初めて会った時から変わらぬ美しい姿。
私はこのひとに、身も心も捧げているんだ。崇拝するこのひとに他の女性を重ねるなど。
それも、兄とも思っていた男の妻を。
「アガネ」
夭い声に、アガネが振り向いた。エキと、他何人かの村の少年少女が居た。各々、籠や袋を持っている。
「山菜採りか」
「うん。大きな茸が取れたらアガネにも分けてあげるね」
「ありがとう。毒がある茸や草木の見分け方は覚えているか?」
「覚えている。お母さんやおじさんたちにも見てもらうから大丈夫」
「いつもの道から外れるなよ。冬も近い。獣たちがこの辺りまで出張ってきているかもしれない」
分かっている、と子供たち。探検気分かもしれないが、森の危険はしつこいほどに教えている。大丈夫だろう。
何度も通っているのだ。過剰に心配してしまうのは、エキがあの人の娘だからか。
横に気配を感じる。愛し崇拝する精霊の気配だ。だが、直視できない。
その代わり、タイカと目が合った。ほとんど麦畑に埋もれた、背の低い老人が隣にいるせいか、より背が高く感じる。
何故か心配そうに、こちらを見つめている。笑みを浮かべてみたが、自分でもぎこちない顔をしているのだろうな、と感じた。
やはり、話すべきだろう。
近しい髪の色と、片方だけでも自分の同じ目をしているからだろうか。まだ一日しか一緒にいないのに、胸の内を話してみたいと思った。あるいは、村のしらがみがないからこそ、気付いてしまったこの想いを吐き出す相手として望んでいるのか。
そう決めると、少しだけ心が軽くなった。
「昨日言ったこと、覚えているよ」
夜。その日も、タイカはアガネの家へ寄宿していた。
夕餉の席だが、酒はない。
ぼそりとつぶやいたアガネを、タイカが見つめた。
痛ましそうな、と感じる視線に目を背ける。
「俺は《
独白するように、アガネは続けた。傍らを見る。そこには変わらず、地の精霊がいる。
「私の身はこのひとと共にある。初めて見た時から憧れ、こうして横にいてくれることが夢のようで、喜びで」
でも、エキの母親。彼女のことを考えると苦しい。
「誰かを好きになってしまうことは、人として当たり前のことなんですよ」
「でも、姉のような人なんだ。それに私は《
裏切りではないのか、と。その言葉を口にすることが恐ろしく感じ、続けることをためらってしまう。
そこに、扉を叩く音が響いた。
何事か、という思いとほっとした思いがない交ぜになった。
ともあれ、こんな夜半に訪問など尋常ではない。ふたりは顔を見合わせ、扉を開いた。
外に立っていたのは、エキの母親だった。息を切らしている。松明の光に照らされたその顔は、血が引いて青ざめていた。
「あの子が帰ってこないの」
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