終章 - 優しいひと -

 二夜連続の宴にはならず、その日の夜はキサカイとイムナ、タイカだけの夕食となった。

 朝食と同じ麦粥に、少々の塩漬け野菜だけだが、朝食に比べればずっと砕けた雰囲気になった。

 キサカイは上機嫌で、酒に付き合ってくれとタイカを誘い、イムナは早々に自室へ戻った。

 寝台で横になるが、なかなか寝付けない。

 珍しい話を聞いたせいだろうか。そんなことで興奮して眠れなくなるなんて、タイカには色々言われたが、それでも自分もやはり子供らしい。

 父の書を読みたい。そう思ったが灯は貴重だ。月明りでは木簡は読めない。

 広間の方から明かりが漏れている。話声も聞こえる。

 明かりは松明のそれではない。タイカが背嚢の中に仕舞っていた油燈ランタンの光か。金属の窓があり光量を絞ることも出来る。日中見せてもらった時には欲しいとは言わなかったが、羨ましい気持ちが表に出たのか、これは上げられないと揶揄われてしまった。

 二人ともまだまだ起きているなら、隅で木簡を読むくらいは許してもらえるだろうか。

 寝台から起き上がり、巻いた木簡を手に広間へ向かう。

 広間の手前で二人の会話の内容がはっきりと聞こえた。


 足を止めた。血の気が引いた。自分が青ざめていく音が聞こえたような気がした。


「おまえさんには感謝しとるよ。イムナにもよくしてくれた」

「イムナは頭の良い子ですね。父親似なのかな」

「母親似でもあるなあ」

「お二人には感謝しています。二人の配合した種は、この土地には合わなかったけど別の村で芽吹いています」

「あんたに預けてよかったよ。代わりに貰った種は、うちの村を豊かにしてくれた」


 昨晩の違和感。そうだ。無償で種をくれる訳などない。

 奪ったのか、種を。自分の両親が育て生んだ種を。

 違う。多分、両親も納得して交換したはずだ。記録にはタイカを悪く言うような部分はなかった。

 でもキサカイがそんな内容の書を捨ててしまったということはないか。

 そんなことあるはずがない。それに種は別の村で育てられ、役に立っているというではないか。

 だけど。得をするのは、賞賛されるのは誰だ。タイカではないか。

 頭が痛い。ここに居たくない。

 イムナは駆けた。駆けて、家を飛び出した。


 扉が開いた音に、キサカイとタイカが振り向いた。

 タイカが落ちていた木簡を拾い上げた。



 イムナは走った。

 村の端、獣道とも言えないような森の隙間に飛び込んだ。

 月や星の明かり遮られ、ほとんど暗闇のようになった森の中。木の根や草葉で足場も悪く、走ることは出来くなったが、それでも進み続けた。

 息が切れ、進みたくても体力が持たず、とうとう木を背に預け、そのまま座り込んだ。

 自分は何でこんなことをしているんだ。

 でも、あの場所には居なくなかった。離れたかった。

 父母の種。自分を置いて逝ってしまった父母が残した、父母が生きた証。

 それが、父母の知らない村で育っている。父母の苦労も知らない村で。

 それが、許せなかった。

 吐いた息が白い。思いは血を吐くように強いのに、息は白い。


 これから、どうしよう。


 イムナは冷静になってきた頭で考えた。

 咄嗟に家を飛び出してしまったが、先のことは何も考えていなかった。

 周りを見回した。夜の闇に慣れてきた目でも、暗くて一寸どころか半寸先も見えない。

 相当に奥まで入り込んでしまったと思う。大人たちのいう、危険な場所まで来ているだろう。

 じわり、と臓腑の底から恐ろしさが沸き上がっていた。

 動けなくなった。体力も尽きていたが、それ以上に暗闇への恐怖で身がすくんだ。

 身勝手と思いながら、飛び出したことを後悔し、その後悔を打ち消けそうした。

 もう自分の気持ちが分からない。

 混乱する頭で、しかし暗闇の中にふたつの小さな、赤い点を見つけた時、イムナは疲れを忘れて立ち上がった。

 赤い点。あれは松明の光ではないか。

 キサカイが、飛び出した自分を探しに来てくれたのではないか。

 イムナは進みかけ、足を止めた。

 黒い霧のような、夜の帳の中から現れたのはキサカイではなかった。

 人ですらなかった。


 それは熊だった。

 赤い目は熊の双眸だったのだ。


 それも只の熊ではなかった。普通の熊は、闇の中で赤く目は光らない。毛皮の先が白く霜に覆われなどいない。夜とはいえ、今はまだ秋に入ったばかりなのだ。霜が下りるほど寒さではない。

 その熊らしき獣が、イムナを見ている。

 イムナは恐怖した。獣の目が、獲物としてはなく仇敵を見つけたような、憎しみをこめてイムナを見つめているような気がしたのだ。

 イムナは動けなかった。身をすくませる、ということを通り越し、息も止まるように、震えることさえ出来ないでいた。

 自分は死ぬ、と確信してしまった。

 この熊とも知れぬ白い獣に引き裂かれ、誰にも知られずに。

 そして忘れ去られるのだ。父母のように。


 ────違う。


 そう聞こえた気がした。

 光が、イムナの目を覆った。

 獣とイムナの間に、光が広がった。目を灼くような強さはない。包むような優しい光だったが、獣は怯み、よろけた。

 その光の中に、イムナはひとの横顔が見えた気がした。見たことはない。性別も分からないおぼろげな顔。

 光の中の、そのひとと目が会ったような気がした。眉をひそめ、哀しげに、それでも微笑んだような気がした。


 イムナを安心させるように。


 直後、雄叫びが響き渡った。

 同時に光が消えうせた。

 暗闇の中、獣の赤い双眸と、さらに赤く大きな光が獣の胸から飛び出していた。

 それは焼けた刃だった。肉を焼く臭いと煙が、傷口の周りからあふれ出ていた。

 熱した血が地面に流れ落ち、煙を広げる。

 獣が暴れる。その背中に何かが取りついていた。継ぎ接ぎだらけの外套がひるがえる。


 タイカだった。


 獣の背後に忍び寄り、背中から剣を突き立てたのだ。

 驚きに動けないイムナの腕が、引き寄せられた。暖かい、大人の体に包み込まれる。キサカイだ。片手でイムナを抱えたまま、後ずさる。もう片方の手には松明を掲げていた。この火でタイカの刃を焼いたのであろうか。

 獣の抵抗は、激しいが短いものだった。

 焼けた刃で心の臓を突かれたのだ。即死してもおかしくないのに、あんなに激しく動けていたこと自体信じられないほどだ。


「刃を焼いていなければ、殺すことは出来なかったかもしれない」


 獣が息絶え、獣を包んでいた霜が煙のように立ち上り、空へと消え去った後、タイカはつぶやいた。

 その間、タイカは獣が斃れた後もキサカイとイムナには口と鼻を覆うこと、松明の光がかろうじて届く距離から近づかないように指示した。


「あれは氷の精霊の残滓。拠り所を失くした氷の精霊が逃げ場所を求めて獣の身体に入りこむ」

 するとこうなる、と熊に戻った獣を指さした。


「《狂える獣》という」


 倒れた獣の、鋭い爪を見て身震いした。あと少し、タイカの到着が遅れたら自分はあの爪に引き裂かれていた。


「だけど精霊が抜ければ、ただの獣に戻る」


 タイカが安心させるように、穏やかな声で言う。


「夜が明けたら、皆に伝えてこの熊を運ぼう。精霊が抜ければ普通の熊だ。肉も皮も、有用だ」

「それよりも」


 イムナが遮り、叫んだ。どうして来たんだと。

 父母の居ない自分。キサカイにとっては血のつながらない居候。タイカにとっては、種を交換した夫婦の子供というだけだ。何の利益もない。


「おまえは、私の息子のようなものだよ」


 キサカイが言う。息をひそめる様に言う。その声音に、幾分傷ついたような思いを感じ、イムナは恥じた。だが一方で、それも父母の種を引き渡したことからの罪悪感からではないか、と疑ってしまう。そんな感情を抱いてしまう自分を、イムナは嫌悪した。


「私はほとんど君を知らない」


 今度はタイカが言った。


「私が君を見たのは、七年以上前。君が物心つく前だ。君の父母は知っている。だがそれも七年以上前の、数日話しただけだ」


 タイカは言葉を切り、宙を見つめた。何をつぶやいている。


「うん。そうだね。私は君をずっと見てきたものを知っている。そのものが、君を大切にしている。だから」

 だから、案内しよう。タイカはイムナとキサカイに、村へ戻るよう促した。




 光が広がっていた。横に横に、鮮やかな黄色い布を何枚も重ねて波立たせているかように、淡い光が広がっていた。

 麦畑が光っていた。イムナもキサカイも、立ち尽くしていた。


「何が、起こっているんだ」

「最初から、ずっといましたよ」


 キサカイのつぶやきに、タイカは微笑んだ。


「イムナを探してくれた。イムナの危険を教えてくれた。何に襲われているかも」


 タイカは言葉を続けた。


「あれは見えない。言葉も交わすことも出来ない。でも、だからと言って想いがない訳ではない。喜びも悔しさも知っている」

 知ってもらいたい、とタイカは言う。


「あなたたちは、精霊を見た。神秘の一端を知った。そして今は真夜中。感覚が研ぎ澄まされた今なら」


 イムナはそれ以上、聞いていなかった。麦畑に駆け出していた。

 麦畑の中にふたつの姿を見た。忘れかけていた、しかし完全に忘れることなど出来ないふたり。

 おとうさん、おかあさん。

 手を伸ばす。突き抜けた。

 たたらを踏んで、振り向く。

 ふたりは、泣きそうな顔をしていた。

 ごめんなさい。

 口が、そう動いているような気がした。そう感じた。

 謝っているのは、ふたりなのか。

 違う。これは父母ではない。父母の姿を借りた、何か。でも不愉快な感じはしない。

 これはイムナ自身が、その何かに投影してるんだ。自分が望んで、その姿になって欲しいと、見たいと望んでいるんだ。

 だから、それは悪くない。

 ごめんなさい。

 それも、それは謝り続けた。

 あなたのおとうさんと、おかあさんを助けることが出来なかった。声は届かなかった。

 そうか。助けようとしてくれたんだ。そして僕を助けてくれた。タイカを通じて。

 精霊。タイカはしきり口にしていた。

 大地の精霊、その土地の精霊。見守ってくれていたんだ。

 自分は独りではなかった。

 触れることは出来ないけど、温もりは感じる。

 それも徐々に薄まり、そして消えた。

 元の麦畑だった。明かりは月と星々と、キサカイの持つ松明だけ。

 松明に照らされたキサカイの顔は、呆けたような、それでもイムナを見つめていた。

 ああ、ここにも心配してくれている人がいた。


「家に帰ろう」


 キサカイの言葉に、イムナは頷いた。肩を寄せて二人は歩き始めた。

 タイカは麦畑の方に小さく目礼すると、ふたりの後に続いた。




 翌日。タイカは旅路についた。


 まだ滞在してほしいと願うキサカイとイムナに、タイカは「冬が近づいてきている」と断った。

 最後に、タイカはイムナに手紙を渡した。巻物の様に丸めて封がしてある。


「ご両親の種が芽吹いた村からの手紙だ。あとで読んで欲しい」


 この場では駄目か、と問うタイカに「出来れば自分が居なくなってからにしてほしい」とタイカは頼んできた。

 不思議に思いながらも、タイカを見送った後、イムナは村外れの社へと向かった。

 手紙は、ここで読むべきだと、何となく感じたのだ。

 手紙の内容は、種への感謝だった。手紙の中には、良く太った麦の穂が巻かれていた。

 そして麦の名も記されていた。両親の名だった。

 名前と共に。この恩は忘れないと。

 顔を上げた。タイカが去った方向を見つめる。あのひとが伝えたのは、種だけではなかったんだ。


「何と書いてあったんだ」


 気付けば、キサカイが横に居た。イムナは手紙の内容を話し、尋ねた。あのひとは何者なんだと。


「タイカは、《物語り》であり《はふり》なんだ」


はふり》


 精霊に祝い寿がれた者。精霊の意志を、言葉を感じ取ることが出来る者。人と精霊を繋ぐ者。父の記録にもあった。かつてこの村にも、そんな存在がいたらしいと。


「そうだ。だが、お前の父に《はふり》ではないかと言われた時、彼は曖昧にしか答えてくれなかったけどね。どうも、この話はしなくないらしい。仲介が出来るにしろ、自分が居なくなった時、意志を交わすことが出来なくなるから。その結果、あらぬ誤解が生まれるかもしれないからと」


 だけど今回は別だった。イムナと精霊と、両者の悲痛な思いを感じてしまったから。

 イムナは森の奥、タイカが去った方を見つめた。




── 第一話 了 ──

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