あめとあゆむ 三波目

 意識が戻ってまず感じたのは激しい痛みだ。

 体のすべてから思考の中へと至る痛みに苛まれて、声を上げることすらできず涙が沸き上がるようにあふれ出して頬を濡らすのが理解できる。痛みを放つが如く声をあげて泣泣き出したいのに、ヒューヒューと呼吸の音しか立てることしかできず、腕や足を動かそうにも四肢のはあるのに感覚は消えていた。

 

 まもなく死んでしまうのだと子供ながらに悟った。


『なんてこと…』


 女性の声が聞こえて、頭を切っていたのか血で濁りぼやけた視界へと女性の顔が覗き込むようにして現れた。輪郭は掴めないけれど、頬に、ポタリ、ポタリと水滴が落ちてくる感触が皮膚に伝わってきて、その人が涙していることだけは理解ができる。


『私が誘ったばかりに…、これしか命を救う方法がないの…、本当にごめんなさい…』


 悲壮にそう告げた女性は擦り切れた呼吸のする口元へとポタリ、ポタリと水滴を落とした。それは酷い苦みと鉄の味がしたので顔を顰めてしまうと女性が諭すようにこう言った。


『こうしなければ、あなたは死んでしまうの…、許して…』


 激痛から考えても死んでしまうかもしれないことは悟っていた。

両親や祖父母の悲嘆に暮れる姿が脳裏を過っていく、それだけは避けなければならないと辛うじて動く喉を鳴らす様に動かして口に溶けて混ざったモノを飲み込んだ。


『ありがとう、じきに良くなるわ』


 心底に安堵した声を聞いた直後、水が引くかのようにスッと全身の痛みが消え去った。そして体のあらゆるところよりズルズルと何かが引き寄せられるように体に張り付くような気持ちの悪い感触が続く、やがて呼吸亜が落ち着き、意識が元に戻ると咽せるように激しく咳き込みたまらず体を起こすと、激しい気持ち悪さが沸き上がってきて、あっという間にその場に激しく嘔吐の音を響かせた。


『大丈夫、大丈夫だからね』


 優しく暖かい手が背中を何度も撫でてくれるが、その摩りの速度に体があわせるかのように嘔吐を繰り返しては真っ黒な墨汁のような吐しゃ物をあたりへと吐き散らした。


『もう少しよ、頑張って』


 やがて女性が体に手を回してしっかりと抱きしめてくれる。

柔らかな感触と人肌の暖かさにホッと安堵するけれど、容赦のない嘔吐は溢れるように続いて、抱きしめられたままで汚い物を吐き出して一部をかけてしまうが、女性は気にする素振りをみせることなく背中をひたすら優しく、優しく、母が子をあやすように摩って安心を与えて続けてくれる。

 巣にある卵が親鳥に温められているかのようにその身を抱かれ続けた。


『死をすべて出し切ってしまいなさい』


 その直後、胃の中がひっくり返るほどに激しいものが駆け上がってきた。

 いや、這い出てくると言い表した方が正しいのかもしれない。それは喉元を詰まらせるように盛大に膨らませる。思わず女性に掛からないよう顔を背け、限界まで口を開いてこれが最後と言わんばかりに盛大に吐き落とした。


『穢れは薄まり、溶けては消える』


 喉の奥からズルリズルリと吐き落ちたものは水滴のように真っ黒に光るグミのような形状で、スライムと言い表した方がぴったりなのかもしれない。それに向かって女性が抱きしめていた片手を解いて人差し指を向けて、澄んだ声でそう唱えた。

後で聞けば祝詞と言うらしいのだが、唱え終わる頃には浜辺の砂のような塊となり、風も吹いていないのに何かに巻き上げられてはあたりへ霧散するように消えていった。


『これでもう大丈夫よ』


 暖かな抱擁が離れてゆく、やがて、美しい細面の色白で目鼻整った女優の様に綺麗な顔が見えてきた。現実離れするほどのあまりの美しさに、思わず頬が蒸気して熱を帯びていく。

 生まれてから初めてとても美しい女性を見た。


「ここはどこ?」

 

 探検番組で見たことのあるような広い洞窟のような空間が広がっていた。

 違うところといえば、テレビでは洞窟は真っ黒な暗闇であったのに対して、この洞窟は至る所にほんのりと灯る石が等間隔に置かれていて、その光が重なり合うようにして闇を消し去さっている。


『ここはね、私の家よ』


「家?」


『そう、私の家』


 微笑んだ女性の笑みに視線が再び惹きつけられる。

そしてふっと気がつく、澄んだ美しい声は口元からではなく頭の中へと響いていたが、それに恐れを抱くことさえなかった。その澄んだ声は小川の流れのように、小鳥の囀りのように、優しく吹く風に揺れる木の葉の音のように、自然で心地よいものだ。


『してしまったことのお詫びもしたいし、少し、お話をしてもいいかしら?』


「は、はい…」


 女性はそう言って目の前で居住まいを正した。

目の前で正座をした女性に習うように同じように正座をして座る。床は綺麗に磨かれた石の地面なのに、不思議な事にほんのりと温かくて、固くもなくしかし柔らかくもない、畳のような感触でとても座り心地がよかった。


『まずは、ごめんなさい』


 両手を床について女性が深々と頭を床に押し付けるように謝罪した。

 何が何やら全く訳が分からないけれど、子供ながらに真剣に謝っているであろうことは理解できる所作だった。


「えっと…?」


 戸惑った声しか出せなかったことに、女性は気がついて慌てて頭を上げた。

そして長く風に靡きそうなほどの艶やかでさらさらとした髪に指を掛けると、そのまま耳上を出すまで持ち上げて見せる。

 それは人間の耳とは違う形状であることは一目瞭然だった。耳介の上部は鋭利な先端があったのだ。。神話のエルフのように尖った耳と言い表せばよいのかもしれない。耳の突端と耳朶には鮮やかな色の鱗がきらめきを見せて、まるでイヤリングでもしているのかと思わせるほどに自然に光を反射して輝いているのが印象的だ。目も人とは違うことに気がつく、視線が合わさった目は猫のようにいつの間にか黒目が細い、一瞬、戸惑いはあったが恐怖心に蝕まれることはなく、ただ、そのガラスのように透明な瞳に魅了された。


『私は人間ではないの。こうしたらもっとわかるかしら』


 そう言って正座をした足を女性は伸ばした。

短いショートパンツから伸びる綺麗な足があったのだが、やがてそれらは溶けて合わさるように融合してゆく。耳と同じく美しい色彩の鱗で覆われ、最後に煌びやかな尾鰭へと姿を変えた。


幻想譚の絵本や映画で見聞きすることしかない美しい人魚がその姿を見せていた。


「人魚…」


『そう、あなた達からは人魚と呼ばれているわ。でも、私は人魚なんて無粋な言葉は使わないわ。古より水精の巫女というのよ』


 澄んだ音色のような声が囁いて、指が離されて自由になった黒髪がふわりと花が開くように広がって落ちていった。教科書でみたローマ彫刻のように神々しいその肢体と仕草に視線は一瞬たりとも放すことはできず、ただただぼんやりと景色を見つめ続けるように見惚れてしまった。


『ふふ、私達はね、古神:テーテュース様の末裔でもあるのよ』


 子供ながらにその名前を見聞きしたことがある。

スマホゲームでギリシャ神話をモチーフにした作品があった。気に入って使用しているキャラクターがテーテュースの末裔と名のりを上げていた。八百万の神々を信じているから、図書館でその神様の名前を探して調べたことがあった。

ちなみにそのキャラクターは筋骨隆々の男性だったけれど。


「神様の末裔?」


『いいえ、そこまでおこがましくないし、そこまでの…神力は無いわ。そうね、私は精霊程度の力しかないのよ』


 少し寂しそうに悲しそうな声に申し訳ないことを聞いてしまった気がした。謝ろうと頭を下げようとして女性がそれを止める。


『優しい子、でも悪いことばかりじゃないわ、こうして助けることができるから、神々の力はお強いから人間の身体では受け入れられないの。水精の巫女の血なら辛うじて受け入れることができるわ、だから助ける…ということもできた…と思うのだけれど…』


 言葉の最後は声が揺らぐ。

 これほどの戸惑いの声を聞いたのは後にも先にもこの時だけだった。


「僕は…死ぬところだったの?」


 その問いに女性は申し訳なさそうにゆっくりと頷いた。


『ええ、間違いなく、命を落とすところだったわ』


 死ぬとは言わずに命を落とす、と女性が言い直したのを聞いて背筋が冷える。

【死ぬや死ね】、これはこの年頃は冗談で言い合う言葉、小説やゲームで良く見慣れた言葉だから、それほど実感せずに恐怖心を感じることはなかった。

命を落とす。

 この言葉は別格の扱いだった。

 夏休み少し手前に学校の制服を着て、腕に黒い腕章をつけてクラス全員で葬儀へと参列していた。もちろん、クラスメイトの死を悼んだのだ。

クラスの人気者で誰とでも仲の良かったクラスメイト、昨日まで言葉を交わし、触れ合い、最後に手を振って別れた。その日の夜に交通事故でこの世から姿を消してしまったのだ。

 そのことを翌日に朝の会で担任の先生が目を潤ませ震える声で、【○○君が交通事故に合って命を落とした】と言ったのだ。クラスメイト全員がその言葉に強い衝撃と受けて、以降、このクラスでは「命を落とす」と言う言葉はむやみやたらに使ってはならない、一種の恐怖の代名詞に等しい物へと姿を変えたのだった。


「そう…だったんだ…」


 何かが這い寄ってくるようなぞっとした感触が背筋を冷やした。死への恐怖が湯水のように沸き上がって心を恐怖で煮えたぎらせる、体と心の温度差が不気味に嫌悪感を抱かせながら満ちていく。

 命を落とすが、幼かった子供の身体を走り抜けてゆき、心の均衡を理不尽に激しく揺らしたのは確かだった。

涙がボロボロとあとからあとから流れて、恐ろしさのあまり震える声を絞り出すようにして泣き声を上げた。洞窟内で反響した鳴き声が響いて、それが更に不安を募らせるように心を弱らせていく。


『もう、大丈夫よ』


 美しい腕に引き寄せられ、その胸元に抱きしめられる。

再び温かい抱擁に包まれ、それに甘えるように、さらに求めるように、短い両手をその身に廻して抱きしめた。


 【死】がこんなに身近で恐ろしく、辛いもの、であることを理解して悟った瞬間だった。


 齢を重ねてもこの恐怖を時より思い出してしまっては不安に襲われることがある。強烈に、そして過激な残滓が楔のように心に穿たれ、ある種のトラウマのようにもなってしまっている。幸いであったのは、この出会いのお蔭で口でも文字でも、【言葉】で簡素に【死】を言い表すことは無くなり、そして供養の意味も深く悟る人間へと至れたことは間違いない。


 どれほどの時間を抱擁に甘えていただろうか。

 喉を突いて出てくる途切れ途切れの嗚咽がようやく収まって、時折、ぐずるように喉を鳴らして落ち着きを取り戻してゆく、背中には小川のせせらぎが流れているような優しい手つきで喉の鳴りが収まるまで摩ってくれ、その温かさにさらに癒しを得た。やがて喉の鳴りが収まりを見せ、それは静かに音を消した。


「助けてくれて、ありがとうございます」


 心の底からそんな言葉を口にしていた。

 友達には悪い言い方だが、両親や祖父母、そして繋がっている人を悲しませずに今を生きていることに、深く感謝と有難さにしっかりと頭を下げていた。


 誰が悪いなんてことは関係なかった。


 ただ、生きていることが本当に嬉しかったのだ。

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あめとあゆむ 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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