あめとあゆむ 二波目

 あれは忘れもしない小学校3年生の夏休みのことだ。

 今でこそ住宅地が広がっているこの辺りも、私が幼い頃は畑が広がっていて祖父母と集落の老人たちが文字通り老体にむち打ちながら耕していた。

 豪農とまではいかないがある程度の作付面積を誇った祖父母の畑は出荷の時期になるとアルバイトのお手伝いさんをお願いする規模であったと思う。当時の私は東京に両親と住んでおり、毎年の夏休みに祖父母宅へと思い出作りという名で預けられたが、今になって考えれば両親が子育ての夏休みを取っていたと考えても良いかもしれない。


 8月の茹だるような暑さが続いていた夏休みの最中、煌々と太陽が照り付けて肌がじわじわと焼けるほどに熱せられると勘違いをしてしまいそうなほど暑い畑の農道を1人で歩いていた。

 祖父から貸してもらった麦わら帽子と祖母が用意してくれた冷たい氷としっかりと冷えた麦茶の入った水筒を肩から下げて、当時、普及していた第二世代のスマートフォンを持って自由研究で新聞にするために田舎のあちらともこちらともフラフラしながら探検を楽しんでいた。この自由研究のために夏休み前に我儘を言って親に買って貰ったスマホで気になるものをすべて写真に撮っていた。ほんの少し前まで川岸の草むらを撮影していた折りに小石に躓き転び水中へと落ちてずぶ濡れとなったが、服の張り付きすら気にならないほどに熱中していた。

 やがて両側を自分の背丈より高いトウモロコシ畑に囲まれた農道を歩き、トウモロコシが風に靡くさまを写真家気取りで収めながら満足していたところに風に乗って小唄を口ずさむ声が聞こえてきた。


『雨降りお月さん 雲の蔭 お嫁に行くときゃ…』


 この歌声が妻との出会いの始まりであった。

 小学校の音楽で習う歌とは違い、自然豊かなこの情景で唄われる童謡には、安定したリズムと耳心地のよく透き通るような歌声に子供ながらに思わず立ち止まって聞き入る。歌声に魅せられる、と言い表すことがあるが、これがまさに近しいものであったかもしれない。

 炎天下の陽ざしも、濡れて纏わりつく服も、手に持ったスマホも、立ち止まった足も、まるで学校の二宮金次郎の石像のように微動だにせず固まったまま、音楽の時間に担任の立花先生の歌声よりも魅力的な童謡に耳を澄ませた。やがて歌が終わりを迎えて歌声が途切れると、息を吹き返したように体を動かして周囲を見回し歌声の主を探してみたが、人の姿や人影を見つけることはできず、ただ青々と茂ったトウモロコシの葉が時より風に揺れているだけであった。


「だれかいますか?」


 姿形が探してもないということになると途端に心細くなってくる。大声で叫んでみたものの風と葉の揺れる音のみが響くのみだ。

 そして誰も居ないのに歌が聞こえてきた、と現実で今起こっていることを思考しまうと急に背筋に冷たいものが走って小さな体を思わず震わせた。太陽が煌々と出ているのに不安になり、恐怖心が更にもたらされると再び同じように声を上げて呼びかけてみるが、誰からも返事が返ってくることはない。

 やがてトウモロコシの葉の揺れる音が女性の笑い声のような幻聴となって聞こえ不安を更に煽り立てる。


「だれか!歌っていませんでしたか!?」


 大声で何度もそう叫んでみたものの、案の定、返事はない。

不安と恐怖の混ざったものに心が蝕まれながらも、それを打ち払うべく声の主は人間であると決めつけて人影を求めてあたりをキョロキョロと見回りしていた。

暫くして近くのトウモロコシが先ほどまでと違うガサガサと音を立てた。音はこちらへと迫ってくるようであったが背の高いトウモロコシではそれが本当に迫ってきているかは身長の足らない小学三年生では伺い知ることはできなかった。

 剣道を習っていたが枝1つ道には落ちておらず、武器になりそうなものと言えば持たされた水筒のみだ。それをしっかりと握りしめると音の方へと構え、そして近づいてくる方向をしっかりと凝視した。心臓の鼓動と緊張から流れ出る汗を滴らせながらその刻を待った。かなり長い時間をそうしていたような気持ちがあるが、今となっては実際はほんの数秒のことだったのかもしれない。


 やがてその時は訪れた。


 目の前のトウモロコシの合間よりひょいと犬のように細長い顔が姿を見せて、その姿に視線を奪われる、そして少しも動けなくなってしまった。

 驚いた、というより、その姿に見惚れてしまったとの言い方が正しいと思う。

 読書感想文の為だけに読んでいた新見南吉の絵本から飛び出たかのように思えてしまうほどの美しい毛並みの狐で、畑から抜け出た金色の狐は相対するようにこちらに首を向けて真っ黒な両目がこちらをジッと見据えていた。


[狐は化かすからな、気を付けるんだぞ、であったら目を逸らすんじゃないぞ]


 祖父が笑い話のよう話していた注意を思い出して再び背筋が寒くなった。

あるはずがないと高を括っていたが、太陽の光を浴びて美しい毛並みを輝かせている狐の姿は、祖母と毎朝お参りするお稲荷さん狛狐のように凛々しく見え神様の御使いであると言われてしまえば信じてしまうほど浮世離れしていた。

 先ほどの声の主の分からぬ童謡といい、この狐といい、偶然であるかもしれないが、平常では考えられないほど異常な事態であることは間違いなく、現代っ子でお化けの類を信じていなかった身にとっては初めて味わった「不可解な出来事」であった。

 固まってしまった人間の子供を見ても、とうの狐は気にする様子もなく、やがてトウモロコシ畑から輝かんばかりの毛並みをした中型犬ほどの姿を太筆のように立派な尻尾の先までしっかりと晒し、優美な足取りで道の真ん中まで歩み出でては再び黒い眼を向けてきて視線が交差する。


 [ついていらっしゃい]


 その視線はそう言っているように感じられるほどに優しく、先ほどまでの恐怖と不安を夏の突き抜ける青空のように気持ち良く忘れさせてしまった。まぁ、単純であったのも幸いしていると思うが事実とて心の重荷がかき消されていたのだった。


「うん、ついてく」


 後々になってよく考えてみれば、これこそ祖父の言っていた狐に化かされるの類に等しいことに気がついて、何事もなくて良かったと安堵したのだが、そう狐に返答をすると狐はゆっくりと向かっていた方角へと農道を歩き始めた。

 数歩ほど歩いては立ち止まっては振り返る心配性な狐と、不安は軽減してもおっかなびっくりで水筒を握りしめたまま間隔を空けてついてゆく小学生、1匹と1人で道を歩いていく。数分すると単純であるがゆえに金色のように輝く毛並みと、一段ともふもふな毛並みで揺れる尻尾を見て、とても気持ちよさそうで撫でてしまいたいと気持ちが緩んでしまい、それを堪えながら後ろと付いていく。

 狐はそれを知って知らずか、時よりそのモフモフとした長く立派な尻尾を意地悪く振って見せた。

 結局、祖父の注意が気にはなったものの好奇心がそれに打ち勝ってしまい、トウモロコシ畑に挟まれた道をゆっくりとした足取りでひたすら歩き続けていた。やがて右側のトウモロコシ畑が途切れたところで狐は右へと進む方向を変える。

そこは古いお地蔵さんと古くからの墓石が立ち並んでいて見覚えがあった。

 とても古い時代、平安時代から脈々と続く地区の墓地だった。

 

[こっちです]


 狐は曲がった先の石段の上で歩みを止めてこちらに振り返った。

石段の両側には地区の方々が供えた竹で編まれた日よけ傘と毛糸の前掛けを付けた同じくらいの背丈のお地蔵様が足元を深緑の苔にむされながら微笑みを浮かべている。その微笑みが大丈夫だと裏打ちをしてくださっているような気持ちを抱かせて、ついには握っていた水筒を手放して階段に一歩足を掛けると狐はそれを見計らったかのように前を向いて歩みを進め始めた。

 狐は数十歩を進んだところで立ち止まって振り向いて付いてきているかを確認した。喉が渇いて水筒のお茶を飲もうとするとその足を止めて、長い舌を犬のように出して息をしながら飲み終わるまでをジッと待っていた。


「狐さんも飲む?」


 そう声を掛けてみると狐が左右に顔を振った。

もちろん、ただの偶然であったのだけれど言葉を理解しているように感じてしまった単純な小学生は、驚きの声を上げてそれを聞いた狐は頭を屈めてこちらをジッと見つめていた。


 小高い丘のようになっている、正確には小高い岩山のようになってる墓地は所々に真っ白な花崗岩の岩肌が見えていた。途中からその色は黒色と混ざり合っては地層を呈して幾何学模様のように歪んで見えた。墓場は古くからということもあり、苔むして墓石なのか岩なのか分からないモノから、真新しい大理石でできた墓石までが時代を隔てて乱立していた。


 その合間を抜けるとやがて細い小道となった。両側を隙間なく古い墓石が所せましと並んでいる。太陽の光が差し込んでいるのにそこだけは妙に薄暗い感じと何かこう冷たさが漂っていて、思わず足が竦んで進むのをためらってしまうほどであった。


[大丈夫よ、怖くわないわ]


 狐はその小道でも立ち止まってこちらに振り向いている。その姿は暗闇に灯るろうそくの明かりのように輝いて見えて、そこだけが怖くないとでも思わせるほどに神々しかった。それでも進むことをたじろいでいると狐がコォンっと鳴いた。それはどこか試されているような雰囲気を醸し怖いのかと尋ねられているというよりは、無理をしないでもいいよ、と語ってくれているように感じ取ることができた。


「だ、大丈夫、いける」


 狐に向けて首を振ってから小道へ一歩を踏み出した。

 足元の赤土が踏み固められただけの昔ながらの小道を歩いてゆく、墓石の合間から何者かが覗いているような錯覚に捕らわれそうになるけれど、合間合間に立ち止まってはこちらを見つめてくる狐の姿に救われていた。


 小道をどれくらい歩いたのかは分からないが、やがて開けた土地へとでた。そこには墓の類は一切なく、ただ和林檎の古木が一本だけ生えており、暑さが和らいで過ごしやすい風に小さな実のようなものを宿して青く茂った葉を靡かせては揺らしていた。


 狐はその古木をじっと見つめてから、数回ほど周りをぐるぐると回っては、首を上や下へと動かして何かを確認するかのように忙しなく動きまわる。やがて太い幹の後ろへとその身を隠していくと反対側から姿を現すことなく、まるで幹の後ろに隠れているかのようにして姿が見えなくなってしまった。

 慌てて追うように幹の後ろへ回ったが、そこには狐の姿などはなく、その代わりに洞のような大きな空洞が幹にあった。ちょうど狐が入れるほどのサイズで洞の中から光が漏れてきている。


「狐さん、そこにいるの?」


 一瞬にして心の支えを失ってしまった。再び不安に駆られながらそう洞へと声を掛けてみるが、狐の姿もましてや先ほどのような鳴き声も聞こえてくることは無い。


「行くしかない!」


 どうしてその結論に至ったかは今でもまるで見当がつかないけれど、そう決心した小学生は身を屈めて洞へと足から入ってみることにした。足からならいざとなれば抜け出せるだろうという浅知恵からだったが、今思えば頭から行こうが、足から行こうが、引きずり込まれる可能性が高かっただろう。

 幸いにも引きずり込まれることはなく、足がついた先をちょんちょんと足先で触れてみるとどうやら階段であることが分かった。そのままズルズルと身を入れていき、頭まですっぽりとはいると、どういうことか洞の中は背丈をはるかに超えるほどの高い天井があり、奥へ奥へと下る緑美しい苔むした階段が見えた。

 不思議な明かりの灯るその空間は碧い光で満たされていて、思わず海の中にいるように錯覚を覚えてしまうほどのオーシャンブルーに満たされていて、そして階段の苔の上には先ほどの狐の足跡のようなものが微かに見て取れる。狐さんは個々に入って行ったんだと勝手に想像を膨らませて、追いかけなければと石段を下り始めて数歩のことだった。


「あ!」


 あっと言う間、という言葉をそのまま経験した。

 何のことは無い、苔むした石段に気をつけてはいたのだが結局足を滑らせてしまったのだ。すぐ手をついたものの苔の上はことのほか滑りがよくて、手は空を掴み、体は素直に下へと転がり落ちていく、至る所に体がぶつかりながら何十段と徐々に速度を速めて落下していった末に階段の途切れた先にあった石床に激しく頭と体を打ち付けると、そのまま気を失ったのだった。

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