あめとあゆむ

鈴ノ木 鈴ノ子

あめとあゆむ 一波目

今日もザーザーと雨が降っている。


 静かな自室の窓からは雨糸と雨音がよく見え、また、よく響いていた。曇天以上の空は濃い灰色の天蓋となって辺りを包んでいる。晴れ間の差し込まぬため、外界は結露とジメジメに悩まされるが、室内は除湿機の稼働によって程よく仕上がっていた。


『ねえ、あなた、お茶いるかしら?』


 扉越しに話しかけてくる声が聞こえる。

 糸雨のように消え入りそうなほどの声なのにも関わらず室内によく響く。声色は暖かな春雨のように朗らかで優しい。


「うん、頂こうかな」


『よかった、丁度、美味しいお茶請けを頂いたの、降りてきて、準備しておくわ』


「わかった。片付けてすぐに行くね」


『待ってます。冷めないうちに来てくださいね』


 軽やかに弾んだ声と浮き足だった足音が扉から離れていく音を聞きながら、タブレットパソコンのデータを保存して会社から持って帰ってきた資料を一通り整理したのち、朝方に淹れたマグカップに残ったコーヒーを持って部屋を後にした。

 長い廊下の突き当たりから3部屋が並んでおり、1つは私、1つは妻、最後に共同の寝室となっている。長い廊下の幅の広い手すりには、妻の趣味であるグッピーや、メダカ、金魚などの水槽が5つほど間隔を開けて並んでいて、それを照らす照明の光が廊下の床まで差し込み水面の揺れを淡く映し出している。壁には私が趣味で描いた妻の普段の肖像画、今は中学校と小学校に行っている、愛娘2人の幼き頃からの写真が飾られていた。

 少しジメジメとした廊下をやや張り付くスリッパで歩きながら、ゆっくりと階段を1階まで降りた。リビングやダイニング、洗面所や風呂へと続く廊下だが、その壁の一部に場違いに分厚く濡れたような光沢を放つ金属の扉が備え付けられていて、脇に生体認証のコンソールが淡い光を放っていた。


『認証を確認しました。ロックを解除します』


 片手をコンソールに置いて少しだけ念を込める様に待つと、一般家庭には場違いな機械音声がそう告げてガチャリと音を響かせながら扉が開いてゆく。先には小さなLEDライトが天井から南国の海を思わせるライトブルーの光で無機質なコンクリートの床を照らして、さながら水族館の水槽の中、あるいは海中にいるかの様な感覚に至らしめる。

 水に少しでも抵抗があるものなら、きっと息苦しくなることだろう。

 脇に置かれている靴棚にスリッパを脱いで置き、履いていた靴下も脱ぐとその上へと放り投げた。スラックスを膝あたりまで捲り準備を整え、緩やかな下り坂となっている因縁浅からぬ階段を滑らないよう気をつけながらゆっくりと降りてゆく。


 パシャっと何かが水の上を跳ねる音が響いて聞こえる、それは水族館のイルカがジャンプをして芸を見せたのちに水面に落ちるような音であった。そして妻の美しい声色の穏やかな笑い声が響く。歩みを進めていき階段と少し低いトンネルのような廊下を抜け歩みを終えると灯に照らされた透き通る地下水が半分の空間を満たし、天井の天辺には古く所々錆がついているシャンデリアが煌々と電気の灯りを灯している。人工の太陽、いや、陽の光に等しい明るさの其れは本来なら真っ暗なこの空間を光で満たして、さながら優しい木漏れ日のようにあたりを包んでいた。

 地下にあった天然の洞窟を利用して作られたこの空間は1000年以上の長きに渡り使われていて、幾度となく手を入れと破壊を繰り返しては、住む者の利便性を向上させてきた場所だった。


「あなた、そっち、そっち」


水面から美しい妻の顔と右手が出てこちらへ呼びかけてきた。

水に輝く右手の人差し指が指し示す先を辿ると庭にあるバルコニーの様に水面へ突き出したストーンデッキがある。これを作るにも難儀した。希望に沿う石を見つけるのに幾度となく地方を探し回り、まるで森の木々の中から最高の一本を探し出す木こりのように、石材を切り出して加工を施した。デッキの床面にはモザイク画のように繊細な文様が刻み込まれる形で描かれており、芸術的な美しさと足を滑らせぬという機能性を持たせた「使える美術」と言っても過言ではない作品となって飛沫の散った水玉の輝きで光り輝いていた。

その上に純白の珪藻土で焼き固められて作られたテーブルと一対の椅子が置かれている。イギリス王宮に置かれているような豪奢で長い背凭れを持つその椅子にも繊細な彫刻が彫り込まれており、それぞれの椅子に「ママ」「パパ」と爪先で無理やり削った跡がある。私と妻の初めての共同作業の跡だ。

そのテーブルの上には切り分けられたアップルパイと湯気の漂う紅茶が2つ置かれている。足早にそちらへ向かい席へと腰掛けた。すると水面からイルカが頭を覗かせるように妻がスッと顔を覗かせてパシャリと音をたてながら水面を跳ね上がり真向かいの席へとするりと腰を下ろした。その身のこなしに器用なものだと毎度毎度と感心してしまう。


「それくださる?あとで洗っておきますから」


 部屋から持ってきたマグカップのことだろうと、それを素直に手渡して私は愛しい妻をじっと眺めるように見つめた。

 濡れた長い黒髪からは時よりポタリポタリと水が滴っては珪藻土の椅子を穿ち、やがて吸い込まれるように消えてゆく。細面ながら色白、目鼻整った美しく私好みの綺麗な顔、頸は艶かしく水滴湿り気を帯びて光り、お椀を伏せたような形がよく可愛らしい2つの乳房には瑞々しい水滴が伝い落ちては厭らしさとは違う純情な色香を醸し出している。そして腰から下はなんと言い表せばよいのだろうか、妻があまり好きな言い方ではないが、私は的を得ていると思える言い回しをするならば、幼少期に飼育していた魚のベタのように紺碧の水晶のような鰭に包まれて、足先と言えるピンと張った尾鰭の先にいたるまで同じ色が続いていた。尾鰭の水かきは薄いシルク布で出来ているのではないかと思わせるほどの透明度と肌触りだ。


「どこ見ているんです?駄目ですよ。まだ昼間なんですから…。」


 邪な視線にでも感じたのだろう、少し頬を染めて恥ずかしそうな顔をした妻に、首を振って違うことを告げる。20代までなら間違いなく手を出していたし事実そうして甘えてしまっていたが、大人になり徐々に分別と体力の衰えがついてくると、なんとか自制することができる様になっていた。チャームを放つ独特の妻の美貌には天使と悪魔の囁きが頭の隅を過ぎる事が多々ある。これも血族の繋がり故に起こる事なのだろう。


「夜ならいいのかな?」


 少しだけ意地悪く言ってみると、少し驚いた顔をした妻が可愛らしくコクンと小さく頷かれたので、こちらが赤面してしまう。恥じらうような仕草は何年時を経ても心をときめかせてくれらた。互いにあの頃に戻った頃のように気恥ずかしさに戸惑い軽い沈黙が訪れたが、いっときの事で妻が目の前のそれを我慢できなくなったため静寂がうち払われた。


「き、気を取り直して食べましょう、ね」


「そうだね。美味しそうだ」


 卓上に置かれているアップルパイ、これは妻と切っても切り離せないほどの大好物だ。

 

食後に必ず林檎が出てくる我が家で、娘に言わせれば林檎狂いとまで言わしめるほどの度を過ぎ…、いや病的なほど…、あの赤い木の実を私よりも愛してやまない妻、その一旦が垣間見えるのが我が家の庭だろう。林檎の苗木を数本ほど結婚の記念にと植樹し、子供が生まれるたびに植樹もした。子供達の記念樹は林檎となり当の本人達からは不満ではあるのだが、木を否定することは即ち林檎を否定する事に妻の中では直結してしまうので、娘たちは静かなる沈黙を貫きながら、ときより溢れた思いを私に叩きつけてくる有様である。

木が花咲く頃になると妻は小さな刷毛を手に取とっては、庭を飛び交うミツバチ混じって世話しなく飛び回るように動き回っては受粉している姿が思い浮かぶ。その光景は毎年の風物詩になりつつある。

家の冷蔵庫には季節を問わず、そして値段を問わず、林檎が必ず入っており、これが妻のささやかな贅沢と楽しみの1つとなっていた。旅行先にもわざわざ林檎を持っていくのだから、言い換えれば子供の延長線上と考えてもよいのかもしれない。


「これ、美味しいわね」


サクサクの生地にフォークを指して、金色に輝く飴色の林檎と白いパイ生地を口へと運びその食感と味に酔いしれている妻を見て微笑みながら、私も同じように口へと運び、そして同じように酔いしれた。


「これは今年一番かもしれない。素敵な味だね、甘すぎず食べやすい」


「ほんと、理恵と麻衣奈にも後で食べさせてあげないと…」


 母親の表情を浮かべてテーブルから少し離れたところのショートテーブルに置かれたケーキ箱を見つめる妻を見て私は慌ててそれを否定することにした。一昨日、妻お手製のアップルパイを2人は頑張って食べたばかりだ。長女も次女も年頃で遺伝子が半分半分入っているせいもあってか、近頃はダイエットを始めるとぼやいていた。今日、これを娘達が食べると言うことは、その努力を否定し、数少ない父親の威厳を破壊せしめる行為に等しい。


「いや、食べてしまって良いと思うよ、あの子達はママの手作り方が好きだからね」


話の流れを変えるべく、妻の好みの言い回しを探りながら娘達に不憫な思いをさせないよう話の流れを変えようと試みた。


「でも、こんなに美味しいのよ」


母親として食べさせてあげたいと思う気持ちと、林檎狂いとして食べさせたい思いがどの辺りで鍔迫り合いをしているか分からないが、純粋に美味しさを味わって欲しいという思いは痛いほど伝わってくる悩ましげな表情に引き止めることの罪悪感を感じる。


「ママの好きなものくらい、食べてほしいって言っていたよ」


そう言いながらそっと妻の頭を撫でた。濡れているのにさらりとしたその髪を撫でると、少しだけ尖った耳に差し掛かる。途端にビクンっと体を震わせて驚いたようにこちらを見つめる妻の顔があった。


「もう、いつもそうやって誤魔化して…」


「考え込む癖が出た時はこうでもしないとこっち向かないでしょ?」


アップルパイ一つを娘達に食べさせるのにここまで悩む母親が世間にいるだろうか。


「う、うん…」


少し悩んだ顔をした妻と視線を合わせてしっかりと頷いて肯定をすると、少し困りながらも嬉しそうに微笑んだ。


「じゃぁ、私たちで頂きましょう」


「う…うん…」


娘達への助け舟はなんとか出せたが、今度はこちらの舟が沈みかかってくる。私だって正直、この甘さをこのあと何回も食べればそれなりのダメージを負うことになる。健康診断のHba1cの値も水面ギリギリをキープしているというのにだ。なによりこの後の夕食が食べれないと言うことにでもなれば、それもまた妻の機嫌を損ねることになる。


林檎に罪はない。


 夫として覚悟を決めねばならない。


 皿に置かれた最後の一切れのアップルパイを頬張る妻を見つめて苦笑しながら、ふと出会った頃を思い出した。

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