星空を映すラーメン

香山 悠

本編

 渡辺わたなべは職場のパソコンを閉じて、出かける準備を始めた。


 目的は、友人が招待してくれた音楽会である。音楽にさほど興味があるわけではないが、せっかくの招待を断る理由もとくになかった。


 最寄り駅に向かう電車の中で、会場の近くに何かラーメン屋はないかと検索する。渡辺は帰りに一人で寄るつもりだった。主催である友人は忙しいだろうし、後日会ったときに改めて感想を伝えるつもりで、あらかじめ先に帰ることは連絡してある。そういう気楽な付き合いができるからこそ、渡辺は友人関係を続けられていた。


 音楽会は、映像とピアノの音楽をミックスさせようという試みだった。


 ミラーボールのようなプロジェクターで、会場全体に夜の星空が映し出される。ピアノの柔らかくも荘厳な旋律。響き合う星の輝き。


 渡辺は、思いがけなく感動した。演奏が終わってしばらく、拍手もせずに余韻を味わった。




 会場を一人で出た渡辺は、あらかじめ調べておいたラーメン屋に入った。ネットによると、この店は焦がし味噌醤油味がうまいらしい。


 いざ運ばれてきたラーメンは、光り輝いていた。びっくりはしたものの、油が光っているのか、照明のせいかなんかだろうと、たいして気にせず麺をすする。


 麺が少なくなると、スープの水面がよりはっきり見えてきた。


 焦げ茶色のスープには、たしかに星空が映っていた。油の膜や薬味の粒などが重なってわかりづらいが、先ほど見た映像にそっくりだ。


 渡辺が容器を傾けたり見る角度を変えたりしても、星空は一向に消えない。


 周囲の視線が気になり、渡辺は動きを止めた。


 食欲が失せてしまった。


 ラーメンを残して、渡辺は足早に帰路についた。




 翌日、職場のパソコンを開いた渡辺は固まっていた。画面上に、満天の星空が輝いていたのだ。通常の画面は、星空の後ろに隠れてろくに見えない。


 昨日のラーメンといい、このパソコンといい、いったい何なんだ。


 なんとか気にしないよう努めながら業務をこなそうとしたが、目がちかちかして、仕事にならない。


 仕方なく、早退した。


 たぶん疲れているのだろう、と渡辺は考えた。日頃の疲れが、昨日の変わった体験をきっかけに噴出したとか、そういうものか? 今日一日休んで、良くならなければ病院に行こうか……。


 スマホを開くが、なんとスマホ画面にも星の光がちらついている。まともに見えない画面に悪戦苦闘しつつ、なんとか友人にメッセージを送った。適当な感想文を入れた後ろに、音楽会で使われた映像をもらえないかと。


 あの映像を、もう一度見たい衝動に駆られていた。理由はわからない。星空を見続けて、脳裏から離れなくなったせいだろうか。


 夕方まで、返信を待った。


 パソコンやスマホの画面は相変わらず星がちかちかしているので、動画を見て暇もつぶせない。かといって、本を読む気にもなれない。光で目が刺激されたせいか、寝るのも無理そうだ。


 結局、適当に家事をこなしつつ、ベッドに寝転んだりしてだらだらと過ごした。


 友人からは、星空を撮影した場所を教えてもらった。さすがに、映像は権利関係もあり渡せないようだ。だが、むしろ好都合かもしれない。リアルな星空の方が、謎の渇きを癒やせるのではないか。


 意外にも車で一時間ほどの近場だったので、渡辺はさっそく向かうことにした。到着するころには、暗くなっているだろう。


 友人いわく、穴場スポットらしい。到着した夜の公園には、人気ひとけがなかった。


 小高い丘になっている芝生の斜面に直接、渡辺は仰向けに寝転んだ。


 たしかに、星は瞬いていた。町からの明かりは、山の陰に隠れている。


 きれいだとは思った。けれど、渡辺の心は満たされなかった。昨日の音楽会で体感した、心が震えるような感覚は訪れない。


 消化不良のまま、渡辺は公園を出て車を走らせた。行き道に見つけていたラーメン屋に入る。


 丼鉢をのぞき込むと、やはり星空が見えた。はたして、昨日見た映像だろうか。それとも、先ほど見た現実だろうか。渡辺には、判断がつかなかった。


 ええい、ままよ!


 渡辺は思い切って、星空ごとスープを勢いよく飲み干した。醤油味のスープは、魚介の風味が強くてうまかった。


 ふらふらの体たらくで、渡辺はなんとか自宅にたどり着いた。ラーメンで腹が膨れてからというもの、猛烈に眠い。


 スマホも見ずに、渡辺は気絶するようにベッドに倒れ込んだ。




 翌朝、スマホを見た。ふつうに見える。星は映らなくなっていた。


 職場のパソコンを開く。冴えない自分の顔が、黒いディスプレイに反射している。電源を入れる。いつもと変わらぬ起動画面だ。


 渡辺は気を取り直して、昨日の仕事を再開した。

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