このままだから
その後、何度か兄ちゃんの家には行ったが、僕は28歳で結婚し、29歳で子どもが生まれた。結婚式もしなかったし、忙しい日常が始まって、兄ちゃんとはなかなか会う機会がなかった。連絡はとっていたので、兄ちゃんの状況は知ることができた。友人伝いで紹介された面倒見のいい女の人と付き合いはじめ、尻をたたかれたおかげで、貧乏くさいニート生活は終えたそうだ。近いうちに、籍も入れるらしい。最近は連絡をとっていないが、兄ちゃんからの誕生日プレゼントはまだ毎年送られてきていた(といっても実家に)ので、繋がりが消えることはなかった。
今年、妻のお腹には二人目の子どもができた。充実した日々だった。
昨日、僕は40歳になった。でも今年の誕生日は、兄ちゃんからのプレゼントが届かなかった。なんとなく変な気分になり、僕は妻に話して兄ちゃん夫婦の家に行った。留守だった。家に行く前に試したが、兄ちゃんは電話に出ない。今またかけ直しても、出なかった。
なんとなく嫌な予感がする。いや、でも今の兄ちゃんにはしっかりした奥さんがいるのだ。奥さんにかけるか。
僕は兄ちゃんの奥さん、かずはさんに電話をかけた。
「……あ、お久しぶりです。碧です。はい、あの、今お宅の前にいて、留守だったので。兄にも連絡はしたんですけどでないものでして……」
そのあとのかずはさんの言葉に、息を呑んだ。
「…………兄ちゃんが、倒れた」
消毒液のきついにおい。真っ白な部屋。点滴。
それらが人類で最も似合わないのは兄ちゃんだ。
「碧じゃないか」
遊びに来た時と同じトーンだった。
「なにしてんだよ」
部屋には僕たち二人しかいない。
「事故だよ」
「倒れたんだろ」
「車に跳ねられたのさ」
「どこが悪かったんだ?」
かずはさんから聞いた。兄ちゃんは、がんだったそうだ。そして、かなり末期の段階に近かったそうだ。
自分では気づいていながら、ここまで悪化するまで誰にも言っていなかったらしい。
「たばこも吸ったことないし、酒だって適量だったのにな」
兄ちゃんは苦く笑った。
「僕はまだ49だぞ」
「心配させないようにとか、そんな非合理的な考え方しないだろ。兄ちゃんはさ」
「しないな」
「かと言って、自分の体のこともわからないばかではないだろ」
「そうだな」
それなら、考えられるのは。
「なんだよ、いい人と結婚して、食っていけて、きれいな家に住んで、自分をわかってもらえる人間もいるのに…………どうして“死にたい”という感情に辿り着く」
「…………はは、長らくあってないからな。碧にも僕のわからない部分があったみたいだ。別に死にたいとか、そんな悲劇の男みたくきれいな終わり方はしたかないさ」
兄ちゃんは猫目を細めた。その顔は何度もみた。
「お前なら、聞けばわかる。かずはも、父さんも義母さんもわからない。お前にしかわからない」
「なんだよ」
「僕はな、がんとか、自分がめんどくさい病気になったら、治療なんて放って、何もせずに、死ぬって決めてんだ」
僕は、自分がどんな感情なのかわからなかった。今わかることは、僕は自分の思考回路とは別に兄ちゃんの思考回路と全く同じものを持ち合わせているということ。くだらない理論が、実証されたということだ。
「そうか」
「そうさ」
「あとどのくらいかな」
「医者が言うには、このままだとあと1か月だとさ」
「このままだから、あと1か月だ」
「そうだな」
僕は1か月の間、7回は兄ちゃんのところに行った。そのときは毎回夜まで、あの重要と不要の狭間にあるような話題について話した。たまに、自分たちの話もした。
「僕はともかく、かずはさんが可哀想だとは思わないのか」
「思わないな」
「最低だな」
「違う。実はな、僕は学生の頃からある貯金をしている」
「なんの貯金だよ」
「“愛する人のための貯金”」
「似合わない言葉だ」
「まあな。そこからお前のプレゼントも出してんだ」
「まじかよ、気持ち悪い」
「はは、そう言うなよ」
「じゃあなんで変な骨董品とか、Tシャツのときがあったんだ。絶対貰い物だろ」
「いやいや、ちゃんとお前のために買ったんだよ。あのTシャツ、バンドはともかくデザインはいいと思ってな」
「最後に兄ちゃんの理解できないところが見つかったよ」
「いや、できるはずだ。お前ならな」
「こればっかりは無理だ」
1か月、と3日。
その月日が経った後からはプレゼントは二度と来なくなった。
でもなぜか、毎年誕生日の翌日の朝、目覚めると、あの変なTシャツを着ているという怪奇現象(多分夢遊病)が起きているのだった。
兄の最後の意思は、なんと迷惑なものだろう。
ジャスト・ブラザーズ すずちよまる @suzuchiyomaru
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